アイシテルの言葉[2]
bookmark


「おかえりなさい……っ!」

ああ、多分今夜は大丈夫だ。
そう思ったのは、部屋のドアを開けた二秒後だった。

本来、ナマエと秋山は同じ時刻に仕事を終えるはずだったのだが、退勤間際にナマエが伏見に声を掛けられたことにより、秋山の方が先に情報室を後にした。
遅れること四十分。
ナマエが自室のドアを開けると、すでに私服に着替えていた秋山がこれ以上はないというほど幸せそうに笑って出迎えてくれた。
大の男が片手に白い卵を持ってお迎えというのは随分シュールな絵面だが、この際それは置いておく。
ぱたぱたと、飼い主を出迎える犬のように小走りで近付いてきた秋山を眺めていると、ちゅ、というリップノイズと共に軽いキスをされた。
ここ最近、正確にはナマエがアメリカから帰国して以来の定番だ。
どうやら秋山は、所謂いってらっしゃいとおかえりなさいのキスに嵌ったようで、ナマエが部屋を出る時、また帰って来た時に必ず唇を重ねるようになった。
別に嫌ではないので、秋山の好きにさせている。

「ん、ただいま」

唇が離れてからようやく言葉を返せば、秋山が締まりのない笑みと共にもう一度キスを落とした。
手の中の卵を少し心配しつつも、大人しく口付けを受け入れる。
触れ合わせるだけの軽いキスが、何度も続いた。

「今夜はね、オムライスなんです」

ようやく顔を離した秋山に夕食のメニューを説明され、ナマエは思考の圧力を上げる。
楽しみ、と笑いながら、秋山の選択にどのような意図があるのか思案を巡らせた。
確かにナマエは、オムライスが好きだ。
だからといってそれを食べることにより機嫌が大きく変化したりするわけではないのだが、多分秋山はそう考えている。
恐らく、喧嘩や些細なすれ違いの後などに、ナマエが秋山の罪悪感とその場の重い空気を緩和させるため、敢えてオムライスを強請ることが多いからだろう。
秋山の中で、オムライスはナマエの機嫌を取る手段の一つなのだ。
しかし今、ナマエは機嫌を損ねているわけではない。
ということは即ち、この後ナマエが機嫌を急降下させる可能性があって、それを少しでも抑えるために予めスタート地点を上げておこうという算段なのだろうか。
先ほどの表情を見る限り今夜は大丈夫そうに思えたが、それはナマエの誤解だったのかもしれない。
二十分後、テーブル並べられた夕食は明らかに普段よりも豪華で、ナマエは後に待ち構えている何かしらに頬を若干引き攣らせた。


しかしその後、夕飯と食後のコーヒー、入浴を終えてもなお、秋山から特に何か話があることはなかった。
いつも通り他愛のない会話が続くだけで、何かを言い淀む様子もない。
機嫌を窺ってくる素振りもない。
全てナマエの穿った見方であって、秋山がわざわざ予定を確認してきたことや夕食にオムライスを作ったことに深い意味などなかったのだろうか。
それならそれでいい。
ナマエはベッドの縁に腰掛けてタンマツを操作し、アラームをセットした。
明日は遅番のため、設定した時間よりずっと早くに目を覚ますだろうが、出勤の一時間前にアラームを鳴らすのはナマエの習慣だ。

「ナマエさん」

そのまま手慰みにタンマツを弄っていると、シャワーを済ませた秋山が部屋に戻って来た。
まだ髪が完全に乾き切っていないのか、癖のつき方が普段よりも少し緩やかだ。
ナマエはタンマツをスリープモードにし、ローテーブルに置いた。
時刻はまだ夜の八時で、明日の出勤は互いに午後から。
身も蓋もない言い方をすれば、やることは一つだろう。
口を開きかけたところで、しかしナマエが秋山の下の名を呼ぶ前に、近付いて来た秋山がベッドの脇で跪いた。
目を瞬かせて見下ろせば、妙に真剣な瞳がナマエを見上げている。
ここで来るのか、とナマエは身構えた。

「……いい、ですか?」

だが、秋山の唇から零されたのはセックスの許可を求める言葉で、意外性のなさが逆に意外である。

「いいですよ?」

昼間と同様に、疑問を混ぜながらそれでも是認すれば、秋山が嬉しそうに微笑んだ。
恭しい仕草でナマエの左足を持ち上げた秋山が、素足の爪先に唇を落とす。
秋山はどうやら脚が好きらしいということは、この数ヶ月でナマエも理解していた。
足の甲、踝、と舌が這う。
正直に言うとそれなりに擽ったいのだが、ナマエは微動だにせず刺激に耐えた。

足の爪先から始まった秋山の愛撫は、最も敏感な部分だけを飛ばしてゆっくりと上へ進んだ。
脹脛、太腿、手の指先、腹、胸、首筋。
そしてようやく唇同士が重なった時には恐らく、始まってから一時間近く経っていたように思う。
身体の前面で秋山の唇と舌が触れていない箇所はないのではないか、というほどにキスをされた。
そこからさらに秘所を舐められ、嫌というほど解され、元々長い秋山の前戯は過去最長を記録した。
ねちっこく、執拗で、もどかしくて、気が狂いそうになる。
これがもし秋山の優しさなのだとすれば、過ぎた気遣いは拷問だ。
反対に秋山が焦らして楽しんでいるのであれば、悪趣味と言わざるを得ない。

「も、……や、……ひもり、」

最も驚嘆に値するのは、秋山が約一時間半、一度も自身の熱を解放していないということだ。
特に興奮していないのならば何ら不思議なことではないのだが、秋山はナマエの太腿にキスマークを落とした段階で、つまり序盤からスウェットパンツ越しでも明らかなほどに臨戦態勢だった。
それを我慢し続けて、ナマエにもどかしい刺激を与えることだけに専念しているのだ。
良く言えば強靭な精神力、悪く言えば自虐的。
限界を訴えたのはナマエが先だった。

「ねえ、ナマエさん……」

しかし、名を呼んで強請ったナマエに覆い被さった秋山は、この状況でまだ言葉を紡ぐ。
熱に浮かされたような掠れた声で呼ばれ、ナマエは秋山の股間を膝で蹴り上げたい衝動を何とか堪えた。
視線だけで言葉の続きを促せば、秋山がシーツから片手を離してナマエの頬を撫でる。

「一年、ですね」

そして落とされた言葉に、ナマエは虚を突かれた。
一年、という単語を反芻する。
咄嗟に返事をしなかったナマエの上で、秋山は穏やかに微笑んだ。

「貴女が憶えていないことは分かっていました。それはいいんです。でも今日は、俺にとっては特別な日なんです」

その口振りで理解出来ないほど、ナマエも馬鹿ではない。
"その日"が近いことはナマエも記憶していたし、腕時計を貰った段階で確信していた。

「……そっか、今日なんだ」

だが、日付までは憶えていなかった。
正確に言うならば、"その日"の日付をナマエは知らなかった。

「はい。今日で、貴女が俺の想いを受け入れてくれてから、丁度一年です」

記憶力は良いので、秋山に告白された日のことはちゃんと憶えている。
まだあの頃は特務隊が結成されておらず、秋山は第一小隊の隊長を務めていた。
ナマエと秋山と加茂、後はそれぞれの部下数名で、退勤後に駅前の居酒屋で飲んだ。
様々な偶然が重なって二人きりになった帰り道、半泣きの秋山に告白されたのだ。
確かにあれは、暦の上では春を迎えながらもまだ夜半は冷え込む、丁度今日のような気温の日だった。

もし嫌でなければ、お付き合いをして下さい。

その年齢にしては珍しいほどストレートな告白は、声が震え過ぎて聞き取り辛いほどだった。
当時、プライベートでの秋山に対して特に何の感情もなかったナマエは、嫌ではないからいいか、という、文字通り秋山の提示した条件に沿った理由で以て頷いた。
ありがとうございます、と泣きながら頭を下げられたことを憶えている。

「ごめん、知らなかった」

ナマエは、誤魔化すことに意味などないと分かって、素直に謝った。
それは、憶えていないことに対する謝罪ではない。
秋山が大切にするものを、一緒に掬い上げて抱き締めなかったことに対する謝罪だ。
当時のナマエにとって、"その日"は特別な日ではなかった。
出来事や状景は思い出せても、日付までは憶えていない。
それは、忘れたからではない。
過ぎ去っていく日々の中の一日を特別なものだと思わなかったから、わざわざ日付を確認しなかったのだ。
認識しなかったものは、当然記憶にも残らない。

「ええ、分かっています」

秋山は、ナマエを責めることもなく静かに笑った。
ナマエはようやく、今日一日の不可解な言動が全てここに集約されることを理解する。
今日という日をどうしても一緒に過ごしたくてわざわざ約束を取り付け、祝いの意味を込めて豪勢な食事を用意し、いつもよりたくさん愛そうとしてくれた。
ナマエが知らなかっただけで、交際の一周年記念という日は秋山にとって特別なものだったのだ。





prev|next

[Back]
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -