願わくば貴女の心を[4]
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「………秋山?」

流石に驚いたのか、腕の中でナマエが身動ぐ。
これまで、秋山は触れる前、特に抱き締める際は必ずといっていいほど事前にナマエの許可を求めていたので、当然といえば当然だ。
しかし、秋山は腕の力を緩めなかった。
それどころか、より強く掻き抱いて肩口にナマエの顔を押し付ける。

「すみません」

結ばれていない髪に鼻先を埋め、秋山は呻くように声を絞り出した。
もう、縋り付く以外に術はないのだ。

「捨てないで下さい、ナマエさん」
「……は?」
「俺を、捨てないで」

秋山を庇ってくれた人の背中も、腰も、薄くて華奢で、腕の中にすっぽりと包み込んでしまえる。

「二度と、同じ失態は犯しません。それに、もう間違いません。俺を、助けてくれて、ありがとうございました」

秋山が、守らせてほしいと希う人。
決して、守られてばかりではいられない相手。
でも、もう間違えたくなかった。

「何でも、します。始末書でも、減俸でも、降格でも、何でも構いませんから。だから、俺を見限って切り捨てないで下さい」

仲間として、そして恋人として。
秋山はまだ、そしてこの先もずっと、ナマエの隣に立っていたかった。
後ろ髪に差し込んだ手で抱き締めた、小さな頭に頬を寄せる。

「別れるなんて、言わないで下さい……っ」

ナマエの背中に回した腕が、震えていた。
間違いなく、ナマエに伝わっているだろう。
情けないと思った。
だが、手を離すわけにはいかなかった。

「……秋山ぁ」

形振り構わず懇願して、祈るように抱き締めた腕の中。
しばらくの沈黙を割いて、ナマエが呆れたような声を出した。

「とりあえず、離そうか」

秋山の肩が、ひくりと跳ねる。

「……や……です」
「ん?」
「いや、です」

初めて、だったかもしれない。
ナマエの命に、背いたのは。

「俺を捨てないって、言って下さい。言ってくれるまで、離しません」

馬鹿なことをしていると思う。
ナマエは、抜け出そうと思えば容易にそう出来るのだから、何の意味もない拘束だ。

「ああもう、どうしてそうなるかなあ、君は」

うんざり、とばかりにナマエが嘆く。

ああ、これはもう駄目なのかもしれない。

秋山は、胃の中に重石を落とされたような心地で目を伏せた。
ナマエは基本的に、必要がなければ一度決めたことは変えない人だということを、秋山は知っている。
決して頑固なわけではないが、考えを二転三転させるような人でもない。
すでにナマエの中で秋山が必要のない存在ならば、それは変えようがないのだろう。

「……どうしても、駄目ですか」

それを知っていてもなお諦められないのは、ただ、ただ好きだからだ。
何年もその姿に憧れ、心酔し、追い続けてきた。
応えてくれるなんて欠片も思っていなかったのに、振り向いてくれた。
秋山は、欲張りになった。
もっともっと、ナマエの全てが欲しいと願った。
これは、その罰だろうか。

「もう一度、俺にチャンスを貰えませ、」
「秋山」

みっともなく縋った秋山の台詞を、ナマエの明瞭な声が遮った。
常より鋭い口調に、秋山は口を噤む。

「君はいつからそんなに人の話を聞かない男になったの」

顔を上げたナマエの表情は、心底呆れ返っていた。

「ついでに、いつからそんなに我儘で、勝手に暴走するようになったかなあ」

並べられる言葉は、間違いなく全てマイナスの要素しか孕んでいない。
面罵とまではいかないが、確実に褒められてはいないだろう。
胃の中の重石がさらに重みを増した。

「で?誰が別れ話をしたの?」
「………え………?」

あからさまな溜息を吐いたナマエが、表情を苦笑に変えて秋山を見上げる。

「だーれが捨てるだの見限るだの別れるだのいらないだの庇われるなんて情けないだの真面目に仕事しろだの調子に乗ってるからそんなことになるんだだの使えないだの言ったわけ?」

ノンブレスの長広舌を振るわれ、秋山は呆気に取られてナマエを見つめた。
怒られているのだろうか。

「ええと……その、すみません……?」
「誰も言ってないでしょうが」

戸惑った秋山の、疑問符つきの謝罪など容赦なく切り捨て、ナマエは秋山を真っ直ぐに見据えた。

「誰も、君が職務に不真面目だったとか、庇われるなんてあってはいけないことだとか、そんなことは言ってない」

とん、と秋山の胸を突いて、腕の拘束から逃れたナマエが一歩下がる。
秋山は、行き場を失くした腕をゆっくりと垂らした。

「人間誰しも、君だって私だって、完璧は無理だ。気を抜いたこと、怒ってないとは言わないけど、別にそのせいでこれまでの君の評価が下がるわけじゃない」
「……怒って、くれているんですか……?」
「なんでそこを拾って嬉しがるの」

馬鹿なの、秋山、と。
ナマエが曲げた指の関節で蟀谷を押さえた。

「君が私を何だと思ってるか知らないけどね。私だって、仲間が死にそうになれば咄嗟に庇うし、それが恋人ならふざけんな馬鹿何やってるんだ、って思うんだけど?」

え、と。
無意識のうちに、唇から音が漏れた。

「そこで驚かれることが心外だよほんと。……あのね秋山。君は知らないかもしれないけど、私は君のことが好きなんだよ。だから勝手に死なれちゃ困るの。お分かり?」

苛立たしげな口調で、しかし秋山を見つめるナマエの瞳は優しい色を湛えている。
秋山は、差し出された言葉を呆然と聞いていた。

「それで、なに?君は私と別れたいんだっけ?」
「ちが……っ、違います!」
「ああ、違うの?」

ナマエの表情に、悪戯な笑みが閃く。

「俺はっ、貴女がもう、俺を見限ったのだと思って。それで、別れたくない、と」
「うん、知ってる」

秋山が焦って言い募った言葉は、すんなりと呆気なく受け止められた。
目を細め、ナマエがくつりと喉を鳴らす。

「ねえ秋山。さっきの、何でもするって」
「え……あ、はい。もちろん、何でもします」

始末書でも、減俸でも、降格でも。
確かに秋山はそう言った。
ふうん、と口元に手を当てたナマエから何を指示されるのか、身体を硬くする。

「……ああ、じゃあコーヒー淹れて。いつもの」
「は…い……?」
「コーヒー。何でもしてくれるんでしょ」
「……そんな、こと、でいいんですか……?」

どんな罰でも、と身構えていた秋山は、あまりにも平凡で日常的な単語に戸惑った。

「それは、秋山くんにとっては私のコーヒーを淹れることなんて始末書に比べたら大して重要でもないどうでもいいことだ、って意味かなあ」
「とんでもないです今すぐに淹れさせて下さいお願いします!」

勢い良く腰を九十度に曲げて頭を下げた秋山の頭上で、ナマエが失笑した。





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