願わくば貴女の心を[5]
bookmark


秋山が、常にも増して慎重に馬鹿丁寧に淹れたカフェオレを一口飲んだナマエは、ふっと目元を緩めた。
秋山は、一応淹れてみた自分の分のコーヒーを、しかし飲んでいいのか分からずローテーブルに置く。
ベッドを背凭れにしたナマエの向かいに、秋山は正座で腰を下ろした。
しばらく、ナマエがカフェオレを飲む様子を何も言えずにじっと見つめる。
先に沈黙を破ったのはナマエだった。

「今日来なくていいって言ったのはさ。別に、秋山が馬鹿みたいに深刻に考えたほどの意味はなかったんだ」

ことり、とマグカップがテーブルに乗る。
珍しく膝を立てて座ったナマエが、揃えた両足に腕を回した。

「……私さ、多分、怒るの下手なんだよね」
「怒るのが下手、ですか?」
「うん。軽く嗜めるとか、冗談っぽく叱るとか、そういうのは出来るんだけど。これまでに、私が怒鳴ったとこなんて見たことないでしょ」
「はい」

ナマエの言う通り、秋山はナマエが本気で怒ったところを見たことが一度もなかった。
国防軍時代に何度か、訓練中などに部下に対して恐らく怒っているのだろう、と感じたことはある。
だがそういう時、ナマエは表情を消して何もなかったかのように振る舞うことが多かった。
本気で怒鳴ったり、殴ったり、無視したり。
ナマエは、そういう典型的な怒りの表現を一度も表に出さなかった。

「感情を消す訓練をするとね。怒り方、忘れたの」
「忘れる……」
「うん。笑ったり喜んだりは、出来る。でも、怒るのと泣くのは、やり方が分からなくなった」

四大感情の、喜怒哀楽。
確かにナマエは、そのうちのマイナス感情が著しく少ないように見える。
喜びや楽しさも、その表現は秋山から見るとかなり控えめだった。
ナマエはあまり、感情の起伏を他人に感じさせない。

「そういう感情が、ないわけじゃないんだ。だからあの時、私は怒ってたよ。何油断してるんだ、危うく死ぬところだったぞ、って。でも、それをどう表現すればいいのか、よく分からなくて。考えて、面倒くさくなって、やめた」

それが、あの「もういいや」だったのか。

「で、なんとなくもやもやして。正しい怒り方も分かんないのに、変に八つ当たりしたらお互い気分良くないだろうな、って思ったから来なくていいって言ったんだけど。まあ、誰かさんが屁理屈こねるからこうなったんだよねえ」
「すみません……」
「あれ、弁財でしょ」
「……はい、」

どうやら何もかもお見通しだったらしいナマエに、秋山は敵わないと苦笑する。
秋山のことも、そして弁財のことも、ナマエはよく知っていた。

「あの、ナマエさん」
「ん?」

話を聞いて、思ったことがある。
秋山は表情を引き締め、居住まいを正した。

「それを、俺にはぶつけてもらえませんか」
「……どれを?」
「ナマエさんの感じる、怒りです。もちろん、悲しみも。正しいとか、正しくないとか、そんなことはどうでもいい。一般論はいりません。ナマエさんが感じたことを、そのまま教えて下さい」

ナマエの徹底した感情抑制が、軍人として生死を分けるほど重要なスキルであることは秋山もよく分かっていた。
感情に振り回されて冷静な思考を欠けば、自分と、そして仲間や部下を殺す。
それをしないために、ナマエは訓練を積んだ。

「八つ当たりでもいいし、怒鳴ってもいいし、全然理に適ってなくてもいいです。俺の前で隠さないで下さい。抑え込んで、なかったことにしないで下さい。途中で、諦めてしまわないで下さい。殴っても蹴っても構いませんから」
「……秋山ってさぁ、マゾヒスト?」
「貴女のためになら何にでもなれます」
「ああうん。聞いた私が馬鹿だったよね」

セプター4の隊員として、ナマエの癖は強みになるだろう。
若く、感情のままに動いてしまう隊員が多い中、一歩引いた位置から全体を冷静に俯瞰出来るナマエは、誰にも代われない貴重なポジションに立っている。
しかしその抑制を秋山の前では、せめてプライベートでは少しでも緩めてほしいと思った。

「怒るのって、多分、面倒なことだと思います。俺も正直、あまり怒れません。まあいいか、って流してしまう方が、楽なんです。でもそれを続けると、溜まり溜まって気が付けば大きな澱みになってしまう気がして」
「……うん、まあ、言ってる意味は分かる」
「だから、別に、いつもじゃなくていいんです。流してしまいたい時は、それでもいい。でも、今回みたいに、少しでも引っかかってしまった時は、俺にぶつけて下さい」

秋山は、ナマエの全てが欲しいのだ。
全てを見せてほしい。
それは、一般的に綺麗とされる面だけではない。
怒ったり、八つ当たりをしたり、我儘を言ったり。
そんな、もしかしたら普通ならば忌避したくなるような行動さえも、見せてほしかった。

「……それで?その度にへこむの?」
「はい」
「少しくらい否定しようか」
「無理ですよ。ナマエさんに怒られたら、地の底まで落ち込むと思います。だから、アフターケアもしてもらえると助かります」
「……あっそ、」

ナマエが、呆れたとばかりに鼻を鳴らす。

「……すみません。ナマエさんのため、みたいな言い方をしましたけど、本当は俺の我儘なんです」
「うん」
「笑った顔も怒った顔も、全部全部、俺だけに見せて欲しいから。俺に、何も隠さないで欲しいから。だから、俺の我儘を聞いて下さい」

つい数十分前まで抱いていた振られるかもしれないという鬼胎が晴れた反動か、これまでは到底言えなかったような言葉が口から滑り落ちた。

「じゃあさ、秋山。君の我儘、聞いてあげるから。代わりに私の我儘も聞いてくれない?」
「何なりと」
「お腹すいたから、ごはん作って」
「……もちろん。オムライスでいいですか?」

ナマエの言う我儘は、我儘でも何でもなかった。
それを秋山の我儘の対価にするならば、不平等の極致だろう。
だが、うん、と笑ったナマエが嬉しそうだったから、秋山は余計なことを言うのはやめた。

卵はある。
鶏肉はないから、ベーコンで代用させてもらおう。
ナマエの好きな、バターライスにとろとろの卵が乗ったオムライス。
ソースはデミグラスソースにして、もし余ったら明日の朝オムレツに掛けてパンと一緒に並べよう。

冷蔵庫を覗き込んだ秋山は、幸せを噛み締めた。





願わくば貴女の心を
- 全て包み込む日が来ますように -





prev|next

[Back]
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -