瞼を開いて最初に見る世界[3]
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十三時十分。
デスクの上の書類を全て片付けた秋山は、気も漫ろに視線を彷徨わせた。
昼下がりの情報処理室は比較的落ち着いており、時折道明寺の呻き声が聞こえるがそれは日常茶飯事なので問題ない。
このまま何の事件も起きなければ、秋山は二十分後には自身の運転する車にナマエを乗せて屯所を離れることになるだろう。
もちろん仕事である。
しかし道中の車内は二人きりだ。
ナマエがプライベートの顔を覗かせてくれるとは思っていないし、そんな高望みはしていないが、かといって会話が全くないということもないだろう。
あくまで同僚としての範囲内であれば、多少の雑談も許されるはずだった。
秋山はもう一度、モニターの右下に表示された時計に視線を落とす。
十三時十五分。
そろそろ車の鍵を取りに行こうか、流石にまだ早いだろうか。
落ち着かない気分のままに秋山が立ち上がりかけた時、背後で情報室の扉が開いた。

「ミョウジ!」

外から入ってきたのは伏見だった。
常にも増して不機嫌なオーラがその身体を取り巻いている。

「はい?」

キーボードを叩いていたナマエが、その手を止めて振り返った。
眉間に盛大な皺を刻んだ伏見が、手に持っていたタブレットをデスクに放り出す。

「お前、この後は?」
「十四時に財務省ですけど」
「……ああ、そうだった。予算か」

失念していたのか、伏見が小さく舌を打った。

「それ、すぐ終わるよな」
「そうですね。とりあえず探りを入れる程度の折衝ですから、三十分程度で済むと思いますよ。何かありました?」

ナマエが椅子から立ち上がり、伏見に近付く。
伏見が今し方投げ出したタブレットをタップし、その画面をナマエに見せた。

「先週の爆破事件、覚えてんだろ?あれの後処理が難航してるっつって、神奈川県警から直接要請が入った」
「あーー……、なるほど。捕縛したの、私ですねえ」
「そういうことだ」

タブレットをナマエに手渡した伏見が、苛立たしげに瘢痕を掻き毟る。
二度目の舌打ちが漏れた。

「財務省、俺も一緒に行く。それが片付いたら、その足で横浜だ」
「分かりました。下に車回しますね」
「ん、」

その瞬間、秋山がナマエと交わした約束は外側から反故にされた。

タブレットを伏見に返したナマエが元いたデスクに戻り、立ったまま文字の打ち込みを再開する。
きりの良いところまで終えるとデータを保存し、パソコンの電源を落とした。
そのまま手早くデスクを片付け、自分のタブレットを取り上げる。

「秋山」
「……はい、」

ぽつん、と何も出来ずに座り惚けていた秋山の元に、ナマエが歩み寄って来た。

「財務省は伏見さんと行くことになったから、ついて来なくていい。こっちは任せた」

ナマエはすれ違いざまに秋山の肩を叩き、そのまま情報室を後にする。
その背を見送った秋山は、今朝から胸の内に巣食っていた黒い染みがさらに広がるのを自覚して唇を噛み締めた。
数分後、ナマエの後を追うように伏見もタブレットを抱えて慌ただしく部屋を出て行く。
財務省、そして横浜までの往復。
移動時間だけでも、約二時間半。
ナマエと伏見は、車中に二人きりなのだ。
どうしてこんなに運がないのか、秋山はデスクに突っ伏したい衝動を堪え、帰って来てから確認するつもりだった資料をクリックした。


現地で何か面倒なことになったのか、ナマエと伏見は秋山が定時で上がる段になっても屯所に帰投しなかった。
当然といえば当然だが、タンマツにナマエからの連絡はない。
秋山は緩慢な手つきでデスクを片付け、日高の夕食の誘いも適当に断り自室に戻った。

別に、何があったわけでもない。
ナマエと共に就くはずだった仕事の担当が秋山から伏見に変わっただけで、その理由も正当なものだった。
誰かが悪いわけではないし、ナマエも意図して秋山との約束を反故にしたわけではない。
ただ、秋山がそこに私情を挟み、過剰に期待していたに過ぎないのだ。

仕事に私情を持ち込み、勝手に浮かれていたから罰が当たったのだろう。

秋山は二段ベッドの梯子を上り、薄いマットレスに突っ伏した。
ナマエと伏見はまだ横浜にいるのだろうか。
それとも、そろそろ帰りの道中だろうか。
まさか、遅くなったから二人で夕食にでも、などという展開にはならないだろうか。
秋山の勝手な想像だけが、薄暗く膨らんでいく。
伏見の人付き合いの悪さを鑑みれば無用な心配かもしれないが、秋山はナマエと伏見の相性が意外と悪くないことに気付いていた。
互いに一線は引きつつも、その枠からはみ出ない程度に上手くやっている。
ナマエは伏見が年下であることなど一切気にすることなく上司として認めている様子だし、伏見は伏見でナマエを優秀な部下として重宝しているようだった。
二人の間には、信頼関係が成り立っている。
並外れた能力の高さや合理的な思考回路など、共鳴する部分が多いのかもしれない。

日高に嫉妬して、今度は伏見さんにも。

秋山は、己のあまりの狭量さを痛感して情けなくなった。
自身を器の大きな人間だと自負したことはなかったが、それにしてもあんまりだ。
ナマエはただ職務として適切な判断を下しているだけなのに、秋山はそこにいちいち他意を見出してしまう。
剰えそれで勝手に落ち込むのだから、救いようがなかった。

女々しくて、情けなくて、どうしようもない。

秋山は仰向けになり、右腕で目元を覆った。
去り際に、ナマエは秋山に声を掛けてくれた。
あのまま出て行っても、状況は秋山に伝わっていたため何も問題はなかったのに、きちんと改めて伝えてくれた。
それだけで十分のはずなのに。

「……ナマエ、さん……」

思わず口にした名前が、秋山の胸を引き絞った。


四時間後、遅番の弁財が部屋に戻って来た時、秋山はまだベッドに寝転んだままだった。
玄関のドアが開く音、次いで部屋に入ってくる足音。

「秋山?」
「……お疲れ、弁財」

下から声を掛けられ、秋山は天井を眺めたまま言葉を返した。
弁財はそれ以上何も言わず、制服を脱ぐ音だけが聞こえてくる。

「弁財、ミョウジさんと伏見さんは?」

秋山のタンマツは相変わらずピクリとも動かないが、きちんと帰って来たのだろうか。

「……泊まりだそうだ」
「え……?」

思わず起き上がり、二段ベッドの柵を掴んで下を覗く。
部屋着に着替えた弁財が、タンマツを片手に床に座り込んでいた。

「情報の食い違いがあったとかで、上手く纏まらなかったらしい。今日中には戻れないと、先ほど伏見さんから副長に連絡があったそうだ」
「………そう、」

パイプから手を離し、再びシーツの海に身を投じる。
じわり、と。
胸臆の黒い染みが、さらにその面積を広くした。




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