瞼を開いて最初に見る世界[2]
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「何かあったの」

語尾が上がっていないということは、少なくとも何かがあったと確信しているということだろう。
恐る恐る顔を上げた秋山の視線の先、ナマエが僅かに細まった双眸で秋山を見ていた。

「……いえ、」

怒られるだろうか、呆れられるだろうか。
秋山は身体を硬くする。
徹底して公私混同を避けるナマエに対し、言ってはいけないことだっただろう。

「秋山。それじゃ分かんない」

言葉を濁した秋山に、追及の手が伸びた。
その声音が、普段この部屋で聞くそれよりも鋭いものに聞こえる。

「……すみません、」
「謝れって言ってるんじゃなくて、理由を聞いてる」

自分から言い出しておいて逃げようとした秋山の退路を塞ぎ、ナマエは真っ直ぐに秋山を見据えたまま動かなかった。
秋山が迂闊な発言を後悔してももう遅い。

「……今日、出勤するメンバーの中で、特に何も案件を抱えていないのは、俺と日高だけです」
「うん」
「貴女がまた、日高を指名するのではないかと思い、それで……」

それ以上は言葉にならず、秋山は口を噤んだ。

「また、って?」

どうやらその部分が引っ掛かったらしいナマエの問いに、唇を噛む。
寝起きに感じた落胆に突き動かされた迂闊な発言のせいで、芋蔓式に抱えていた不安を曝け出す羽目に陥っていた。

「……先月の出張も、日高でした」
「出張?……ああ、旭川か」

その人選に他意などなかったことを、秋山はよく知っている。
ナマエが公私混同を良しとしないことは、秋山がその身を以て嫌というほど理解しているのだ。

「あの時屯所にいて、かつ案件を抱えてなかったのは日高だけだったと思うけど?」
「はい。それは十分に理解しています」
「……で?だったら何で引き合いに出した?」

隙のない、容赦も全くない正論。
感情論で喋っている秋山に軍配が上がるはずもない。

「……私情を、挟みました。すみません。先ほど言ったことは、忘れて下さい」

本当に馬鹿なことをしたと、秋山は慚愧に項垂れる。
旭川出張、先日の飲み会の席での日高の言動。
積もり積もった日高への嫉妬心が、秋山の首を絞めた。
自身の膝を見つめて動けなくなった秋山に、突然立ち上がったナマエの溜息が落とされる。
ひくり、と震えた身体を宥めるかのごとく、伸びて来たナマエの手が秋山の髪を掻き混ぜた。

「秋山、」
「……はい……」

顔を上げられずにいると、その手に前髪をぐっと掴まれる。
本気で髪を引っこ抜かれそうで、秋山は流石に感情を二の次にして顔を上げた。

「分かった」
「………え?」

何を、と内心で首を傾げた秋山を見下ろして。

「財務省、十四時だから。三十分前に車回して」

ナマエが、苦笑と共にそう指示を出した。
一瞬何を言われたのか理解出来ず、秋山はぽかんと口を開ける。

「返事」
「ーーー、はいっ!」

思わず全力で頷き、そのせいで自ら髪を引っ張られる形になった秋山は反射的に生え際を押さえて呻いた。

「馬鹿、今の私のせいじゃないからね」

呆れたような笑声が降って来る。
秋山は涙目になったまま顔を上げ、へらりと情けない笑みを浮かべた。

「どうして、連れて行ってくれるんですか?」

秋山でも日高でも、どちらでも良かったはずだ。
秋山の公私混同を窘めるならば、敢えて日高を選ぶのが最適だろうに、なぜ。

「……日高の運転、あんま好きじゃないんだよね」
「はい?」
「荒いんだよ。別にそんなの嫌っていうほど経験したから慣れてるけど、だからこそわざわざ乗りたくないっていうか」
「……まあ、確かに。性格がそのまま出ているというか、行き当たりばったりな運転ではありますね」

日高の運転する車の助手席に乗った時のことを思い返し、秋山は苦笑した。
荒っぽい運転に慣れ切っているナマエや秋山はともかく、人によっては吐き気を催す程度には不親切な運転だと言えるだろう。

「秋山もさ、性格出るよね」
「そう、ですか?」
「うん。慎重で、先読みも出来てるし、わりと快適」

これは、褒められているということでいいのだろうか。
ナマエにしては珍しい発言に、秋山は照れ臭くなった。

「そう思ってもらえているなら、良かったです」

秋山は元々、運転が苦手ではない。
自分の運転する車に乗ったことのある同僚や友人から、下手だと言われたこともない。
だが、秋山の技術が最大限に発揮されるのはナマエが同乗している時だ。
安全運転は言うまでもなく、少しでも快適であるようにと心掛けてきた。
だからこそ、その成果がナマエに評価されることは嬉しかった。

「ついでに。覚えてる?秋山の運転する車に私が初めて乗った時」

だがここに、落とし穴があった。

「………あの、」
「誰かさん、上官の同乗に緊張したのか何なのか、ウインカー出そうとして代わりにウォッシャー液出したんだよねえ」

忘れるはずもなかった。
そして出来るならばナマエには忘れていてほしかった。
それはまだ、二人が国防軍に所属していた時の出来事だ。
もし言い訳をさせて貰えるならば、ナマエの指摘通り緊張していたのだ。
上官を、というよりも、ナマエを乗せるということに。
そしてもう一つ原因を挙げるならば、その時乗った車が運転し慣れた国産車ではなく輸入車だった。
ハンドルの両サイドにあるレバーが、左右逆転していたのだ。
などという言い訳は、もちろん通用しない。

「泣き虫な誰かさんにそっくりな運転だったよ」

かあっと頬に熱が集まる。
意地悪な笑みは見惚れるほどに嬋媛としていたが、秋山はそれどころではなかった。
フロントガラスに噴き上げた液体と、一瞬で凍り付いた車内の空気を思い出すだけで、消えてしまいそうなほどの羞恥心が込み上げる。
くつくつと喉を鳴らして、ナマエが笑った。
それはあの日、譴責を覚悟して身体を硬くした秋山の鼓膜を揺らした音に酷似していた。



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