瞼を開いて最初に見る世界[4]
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合鍵を使って足を踏み入れたその部屋は、真っ暗で無人だった。
ナマエはまだ屯所に帰投していないのだから、当然だ。
夜中に自室を抜け出した秋山は、恋人の部屋に勝手に入ってドアを閉めた。
鍵をかけ、靴を脱いで揃え、部屋の電気をつける。
蛍光灯に照らされたのは今朝出て行った時に見たままの光景そのものなのに、そこにナマエの姿だけが足りなかった。
覚束ない足取りでベッドまで歩き、綺麗に整えられた掛け布団の上から倒れ込む。
自室のものより余程スプリングのきいたマットレスのおかげで、身体は僅かに跳ねてから優しく受け止められた。
柔らかな掛け布団に顔を埋めると、ナマエの優しい匂いがする。
手触りと匂いがまるでナマエに抱き締められているかのようで、秋山は陶然とその感覚に酔った。

自分でも、大胆な行動に出た自覚はある。
だが、ナマエには知られないという前提が、秋山の背中を押した。
泊まりとなると、ナマエが帰って来るのは早くても明日の朝だろう。
それまでにここから出て行けば、夜中に秋山が何をしたのかなどナマエには気付かれない。
そう思うと、我慢が出来なかった。
別に、この部屋で何をするわけでもない。
ただ、ナマエの気配が残るこの場所で眠りたかった。
それが今の秋山の手中にある、恋人としての最大の特権だったから。
それを行使することで、ナマエの恋人は自分なのだと実感したかった。

洗剤とシャンプーの匂い。
ここにナマエ本人がいると緊張してしまってなかなか寝付けない秋山だが、気配の残滓に包まれると不思議と落ち着いてくる。

この匂いを瓶に詰め込んで、持ち歩けたらいいのに。

秋山はそんな、弁財辺りが聞けば盛大に眉を顰めそうなことを考えながら、眠りの中に思惟を溶かした。


夢を見た。
秋山がまだ国防軍に所属していた頃の、懐かしい夢だった。

軍服を着た秋山は車の運転席に座り、どこかの海岸沿いを走っていた。
リアシートにはナマエが座っている。
ナマエは、セプター4に移ってからは同僚として助手席に座るようになったが、それ以前は上官として後ろに座ることが多かった。
他に走行車が見当たらない、長閑な風景。
秋山は交差点の手前で車を減速させ、左折しようとウインカーレバーに指を伸ばした。
レバーを上に弾く。
するとなぜか、フロントガラスにウォッシャー液が噴き出した。
秋山は一瞬硬直し、慌ててレバーを戻す。
何とかハンドルを傾けて左に曲がり、恐る恐るバックミラーで背後を確認すると、目を閉じたナマエがくつくつと喉を鳴らして笑った。

そこで、目が覚めた。


秋山は、一度目を見開き、背中に吹き出した汗を嫌というほど感じながら再び瞼を落とした。
よりにもよってそんな夢を見なくても、と羞恥に身体を震わせる。
何年前の出来事をわざわざ引っ張り出してきたのか、恐らくはナマエとその話をした影響だろう。
あまりの居た堪れなさに溜息を吐き出しかけたところで、秋山はふと自分の置かれた状況に違和感を覚え瞼を持ち上げた。
妙に寝心地が良い。
薄いマットレスではなく、何か柔らかいものの上にうつ伏せになっている。
どうやら掛け布団の上で眠っていたようだ。
だが、自分の布団はこんなにいい匂いがしただろうか。
優しくて、少しだけ甘い香り。
秋山は腕に力を入れ、少しだけ顔を上げた。
視界に映ったヘッドボードを見てようやく、そこが自室の二段ベッドではないことに気付く。

そうだ、ナマエさんの部屋に。

秋山は眠りに落ちる前を思い出し、いつの間にか眠ってしまっていたことを知った。
今は何時だろうかと、適当に放り出したはずのタンマツを探して枕元を弄る。
指先に触れた固い感触を引き寄せ、スリープモードから起動させると表示された時刻は午前六時を少し過ぎたところだった。
そろそろ出て行かないと、もしかしたらナマエが帰って来てしまう可能性がある。
秋山は抗い難い誘惑を振り切るようにさらに上半身を起こし、そして広くなった視野に映り込んだものに身体の動きを止めた。
掛け布団の上に、黒く艶やかな髪が散って。

「………え………」

首を捻った秋山の視線が捉えたのは、隣で眠るナマエの姿だった。
秋山と壁との間に入り込んだ、細い身体。
帰って来てそのままなのか、スラックスとワイシャツを身に纏っている。
秋山の方に身体を向けて瞼を閉じたナマエは、深い眠りの中にいる様子だった。
いつの間に帰って来ていたのだろうか。
秋山は呆然と、静かな寝息を零すナマエを見下ろす。
もちろん寝顔を見るのは初めてではないが、この瞬間は秋山にとって特別だった。
目を覚ましたその時、隣にナマエがいる。
秋山が夢見ていたシチュエーションが、現実のものとして目の前にあった。
ナマエが帰って来たことにも気付かず眠りこけていた自身を情けなくも思うが、それよりも今、秋山が目を覚ましたことに気付かず眠っていてくれるナマエの姿が嬉しい。
先に寝たのは秋山で、その後に帰って来たナマエは恐らくまだ眠りに落ちたばかりなのだろうから、当然といえば当然だ。
しかしナマエが秋山に対して僅かでも警戒心を抱いていれば、秋山が顔を上げた瞬間にナマエも目を覚ましていただろう。
これは、信頼の証だった。
そして秋山は、ずっとそれが欲しかった。

ゆったりと規則正しい寝息を繰り返すナマエを、秋山は微動だにせず見つめる。
起こしてしまいたくなかった。
勝手に部屋に入り、勝手にベッドまで借りていたことを全てナマエに知られてしまい、気恥ずかしい思いはある。
怒られることはないだろうが、呆れられるくらいはするかもしれない。
だが、それと引き換えに目の前の幸せな光景があるのならば、恥の一つや二つ、安いものだろう。
幸い、秋山は本日非番だ。
ナマエの出勤までにも、まだ時間はある。
もしかしたら昨日の今日でシフトに変更が生じているかもしれないが、流石にナマエもアラームは設定しているだろうから、それが鳴るまではこの時間を堪能してもいいはずだ。
眠気などすっかり吹き飛んだ秋山はしかし、ベッドから出ようなどとは微塵も思わなかった。

カーテンの隙間から差し込む朝日。
白皙の頬と、綺麗に通った鼻筋。
薄めの唇と、僅かな曲線を描いた長い睫毛。
間違いなく何時間でも見ていられると、秋山は目元を弛めた。
いつもより穏やかな心持ちで見つめることが出来るのは、きっと朝だからだろう。
常夜灯ひとつの部屋で見るよりも、清々しいような、どこか満たされるような気分だった。

十分二十分、そうして見つめていただろうか。
ふるり、とナマエの瞼が震え、その下から白目とのコントラストが綺麗な眼睛が覗いた。
上下の睫毛が何度か重なり、やがて焦点が秋山に結ばれる。

「おはようございます、ナマエさん」

自分でも驚くほど、蕩けた声が零れた。
顔が弛みきっているのが分かる。

「……おはよ、秋山」

ナマエがふと苦笑するので、秋山は首を傾げた。
どうかしましたか、と問う前に、ナマエが小さな欠伸を一つ。

「視線が煩すぎて寝てられない」
「あ、はは、すみません」

寄越されたのは間違いなく文句で、しかし秋山の脳はそれを都合良く睦言に解釈する。
締まりのない笑みを浮かべた秋山を見上げ、ナマエは諦めたように嘆息すると目を伏せた。

「いま何時?」
「ええと、……朝の六時半です」

秋山が再度タンマツを見て答えると、ん、と小さな了解の声が返ってくる。

「ナマエさん、何時からですか?」
「非番」
「……え?」

言外に、いつまでこうしていられるのか、と訊ねた秋山は、思いもよらぬ答えにナマエの顔を覗き込んだ。

「県警の頭でっかちと舌戦繰り広げて、終わったら夜中の二時で、伏見さんが帰るって言うから車出したら高速でトラックの事故があって、警察もどきな立場上見過ごすに見過ごせなくて、結局帰って来たのは朝の五時。しかも伏見さん助手席で寝てたし」

珍しい長広舌は、疲労よりも僅かな苛立ちを含んでいるように聞こえた。
余程面倒なことが立て続けに起こった一日だったのだろう。

「でもまあ、そのおかげで今日は休みになったからプラマイゼロ。むしろちょっとプラスかな」

ふふ、と笑ったナマエが、悪戯っぽい色を乗せた瞳を覗かせて秋山を見上げる。
その視線に鼓動を跳ねさせた秋山が何かを言う前に、ナマエは唇の端を持ち上げた。

「秋山も非番でしょ」
「は、い……そう、です」

鼓動が速まる。
胸の奥が熱を孕む。
そんな言い方をされたら、期待をしてしまう。

「食事でも、買い物でも、秋山が運転してくれるならドライブでも、何でもいいけど。とりあえず、あと三時間は寝たい」

秋山も、一緒にどう。
そう言って笑ったナマエを見つめ、秋山は心の底から込み上げる幸福感に頬を弛めた。

「喜んで」

今度こそ掛け布団を捲り、その下に二人で潜り込む。
きちんとナマエの身体に被るようにと秋山が手を伸ばして布団を整えていると、ナマエは早々に瞼を下ろした。

「適当に起こして」

そう言い残し、すとんと意識を手放してしまう。
だが秋山は、それを寂しいとは思わなかった。

「はい、ナマエさん。おやすみなさい」

シーツに頬を押し付け、秋山は微笑む。
胸の奥にあったはずの黒い染みは、いつの間にか失くなっていた。
優しい匂いと、柔らかな気配。
ナマエに倣って目を閉じれば、穏やかな微睡みがすぐ側まで近付いて来ていた。





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