瞼を開いて最初に見る世界[1]
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香ばしいような深い匂いに誘われて、思惟の中に光が差し込んだ。
烟る思考が、朝を認識する。
瞼をこじ開けた視界に映る天井がいつもより遠いことに気付いた瞬間、秋山の脳は急激に覚醒した。
はっと首を捻り、隣を確認する。
しかしそこには誰もおらず、白いシーツが波打つだけだった。

ベッドに横たわったまま視線だけを巡らせて部屋を見渡すが、そこに探し人の姿はない。
キッチンの方から陶器の擦れる音が聞こえ、秋山は恋人の居場所を知った。
恋人の部屋で目を覚ます、幸せな朝。
信じられないほど幸福で、自分には勿体ないとさえ思っていたこともある。
それなのに今、秋山の胸裡には黒い染みが一滴落ちるような落胆があった。

今日も、隣にいてくれなかったのか。

たとえばこれを誰かに話したならば、そんな些細なことで、と呆れられるだろう。
秋山とて、そのくらいのことは十分に理解していた。
朝目が覚めて、一緒に眠ったはずの恋人が隣にいなかったくらいでいちいち落ち込んでいてはきりがない。
それは分かっている。
だが秋山は、今日こそは、と切望していたのだ。
だからこそ、期待を裏切られたショックは大きかった。
秋山が、ナマエと同じベッドに眠ってから迎える朝は、これで五度目。
まだ一度も、目が覚めた時にナマエの姿が隣にあったことはない。

秋山は緩慢に上体を起こし、起きろ、と自身に言い聞かせるように軽く頭を振った。
恐らく寝癖がついているであろう髪が、ふわふわと揺れる。
はあ、と一度嘆息してから、秋山はベッドの縁から足を下ろした。
両足の裏をフローリングにつけたところで、キッチンからナマエが姿を現わす。
その手には湯気の立ち上るマグカップがあった。

「おはよ」
「おはようございます、ナマエさん」

寝間着代わりのホットパンツに、ラフなオーバーサイズのシャツ。
裾が長いため、角度によっては下に何も穿いていないように見えてしまって、剥き出しの白い脚はいっそ目の毒だ。
素足のまま近付いて来たナマエはカフェオレを一口飲んでから、マグカップをローテーブルに置いた。

「コーヒー飲んでく?」
「あ、はい。お願いします」

ん、と短く答えたナマエの姿が、再びキッチンの奥に消える。
秋山は思わず額に手を当て項垂れた。


初めてナマエの部屋に泊まった時、秋山はとてもじゃないがナマエと同じベッドで眠ることなど出来なかった。
クローゼットにあった冬用の布団を借り、それを床に敷いて寝た。
正確に言うと、寝転んだまままんじりともしないで夜を明かした。
それは決して、床が固かったからではない。
元軍人である秋山は、布団があろうがなかろうが、必要であれば道端の電柱に凭れ掛かって眠ることさえ出来るように訓練されている。
軍人にとって、食事や睡眠といった生命活動の根幹を成す行為は出動や訓練と同様に仕事の一つであり、寝ろと言われたらいつどこででも即座に眠ることの出来る身体を作っているのだ。
しかしその秋山が、同じ部屋にナマエが眠っているのだと思うだけで一睡も出来ないという、自分でも信じられないような状況に陥った。
流石に二度目以降は多少眠れるようになったが、それでも寝付くまでには相当な時間がかかった。

そんなことを何度か繰り返し、ようやく何とか眠れるようになったかと思えば、今度は成り行きでナマエと同じベッドに入ることになった。
最初に合鍵を使った夜、秋山はナマエに誘われてその隣に潜り込んだ。
結局明け方近くまで、秋山は隣で眠るナマエが気になって気になって眠れなかった。
寝息が聞こえそうなほど近くに、ナマエの無防備にさえ見える寝姿があるのだ。
寮の部屋なので、当然ベッドはシングルサイズである。
男子寮のスチールパイプで出来た二段ベッドよりスプリングがきいていて寝心地は良いが、そういう問題ではない。
寝返りを打とうものなら、否、少し手の位置をずらすだけで、あまりにも簡単にナマエの身体に触れてしまえるのだ。
そんな状況で落ち落ち寝ていられるほど、秋山の神経は図太くなかった。
国防軍時代の訓練など、忘却の彼方である。
五度目にして、同じベッドで眠ることにも少しずつ慣れてはきたが、やはり眠る前は奇妙な緊張感に苛まれた。

一方のナマエは、毎回そんな秋山を置き去りにあっさりと眠りに落ちた。
意識的に外界をシャットアウトし、休息という名の仕事をする。
まさに軍隊で培われたスキルだった。
秋山はいつも、先に眠ってしまうナマエの寝顔をじっと見つめる。
すぐ隣で、しかし抱き締めることも触れることもなく、ただその寝顔を見ていた。
本当は、抱き寄せて口付けてその身を深く愛したい。
同じベッドに寝転んで、その行為が許されるのかどうかナマエに聞いてみようと思ったことはあった。
抱きたい、抱かせてほしい。
しかしいざ電気を消して隣に並ぶととても願い出る度胸など持てず、結局先にナマエが眠りの中に落ちていくのを見送るばかりだった。
その後は、気配に敏感なナマエを間違っても起こしてしまわぬようにと、身動ぎ一つせずに眠気が訪れるのを待つばかり。

そうして短い眠りから覚めると、そこにあるのはナマエのいない一人きりのベッドだった。


「お待たせ」
「ありがとうございます」

部屋に戻って来たナマエに差し出されたマグカップを、両手で受け取る。
冷えた指先に、陶器越しの熱が沁みた。
湯気の立つ黒い液面に息を数回吹き掛けてから、カップの縁に唇をつける。
火傷を防ぐため啜るように飲めば、食道から胃にかけて身体の中を熱い塊が滑り落ちた。

「今日は財務省でしたよね?」
「そ。この時期からもう来年度予算の手回し。まあ、盛大に分捕らないとだからねえ」

フローリングに直接腰を下ろしたナマエが、先ほど置いたマグカップに手を伸ばす。
ナマエが朝一番で飲むカフェオレにだけは少量の砂糖が入っていると知ったのは、先週のことだった。

「……あの、」
「ん?」

ベッドの高さ分見上げられ、秋山は躊躇いがちに口を開く。

「今日、俺を連れて行って貰えませんか」

辛うじて最後まで口にして、しかしそれ以上はナマエの顔を直視出来ず顔を伏せた。

セプター4は、出先で異能者事件に巻き込まれても対応出来るよう、原則として隊員の単独行動を禁じている。
しかし今日、財務省に赴くナマエの付き添いが秋山である必要はなかった。
例えばこれが宗像の外出であれば、名ばかりではあるが護衛としての付き添いになるため、誰を選出するかはその日の勤務形態や行き先を考慮して慎重に決められる。
淡島、伏見、もしくはナマエが務めることが多い。
だがナマエ自身の外出には護衛をつける必要などないため、付き添いは言ってしまえば誰でもいいのだ。
ナマエと付き合うようになってから、秋山が直接的な公私混同をしたのはこれが初めてだった。



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