君は笑ってくれるだろうか[2]煙草を口にするのは随分と久しぶりだった。
苦味と、肺に対する独特の圧迫感。
ナマエは決して、それが嫌いなわけではなかった。
かと言って、好んで積極的に求めるものでもない。
そこに金と購入の手間を割く必要性が感じられなかったから、吸わない。
それだけのことだった。
「灰皿、ありがとうございます。助かっていますよ」
「ああ、まあ、あんなことに王様の力を使うのもどうかと思ったんで」
手厳しいですね、と苦笑され、ナマエは内心でよく言うよ、と返した。
片手の指では到底足りない回数の"訪問"を許しておいて、手厳しいなどと評されるのは心外だ。
ナマエは注意深く、煙草を燻らせる宗像の顔を見上げる。
不意に、セプター4に転職してすぐの頃宗像に告げられた言葉を思い出した。
君は、私に似ていますね。
当時は意味が分からなかったが、今ならば多少は理解出来る。
納得も、出来る気がした。
物事を俯瞰的に眺め、他者の動向を愉しむ。
悪癖にも近い共通点が、確かに宗像にもナマエにもあった。
だがそこに、明確な差異が一つ。
ナマエは自らを含め全てを客観視しているが、当事者としてその中に立っている。
対して宗像は、渦中ではなくその上に立っているのだ。
少なくともナマエは、そう感じている。
「して、秋山君とは仲良くやっていますか?」
「王様ともあろう方が、わざわざ部下の恋愛相談に乗ってくれるんですか?」
「ふふ、そうですね。もし仮に相談事があるならば、いつでもお聞きしますよ」
「……全く、拗らせる原因を作った張本人がよく言いますよ」
掛け布団の中から抜け出してベッドの縁に座り直し、上体を屈めて灰皿の上で煙草を軽く弾く。
とん、という微かな音と共に、先端の灰が落ちた。
「おや。誤解を解こうともしない君に言われるとは心外ですね」
「室長って、なかなかにいい性格してますよねえ」
「褒め言葉として受け取らせて頂きましょう」
「そういうところとか、特に」
年下の、しかしそう感じたことはない上司を、ナマエは苦笑しながら見上げた。
壁に凭れた宗像が、花瞼を伏せて煙を吐き出す。
和装が良く似合っていた。
「まあ、秋山のあれは敬愛と恋情が混じってますからね。本人的にも、なかなか踏み込めないんじゃないですか?」
「なるほど。それに対して君は?」
有害物質を、身体の奥まで深く吸い込む。
先端の橙が明るさを増した。
「好きなようにさせてやりたいと思いますよ。ここにいたいのなら、いればいい。負担になるならやめればいい」
「ふむ。随分と達観しているのですね」
「性分ですかねえ」
生温い風に、煙が揺れる。
今更、この部屋に染み付いた煙草の匂いは消えないだろうと思った。
「いたいのなら、いればいい。それは、秋山君に限った話でしょうか」
「……というと?」
「おや、あまり意地悪をしないで下さい。私にも当てはまるのか、という質問ですよ」
吸いかけた煙が、中途半端な位置で止まる。
ナマエは、ゆっくりと宗像に焦点を当てた。
レンズの奥の紫紺が、普段よりも深い色を宿している。
月明かりに片頬を照らされた宗像は、えも言われぬ美しさがあった。
短くなった煙草を、灰皿に押し付ける。
「とりあえず、灰皿は置いておきますよ」
ナマエの答えに、宗像は目を細めて微笑った。
秋山氷杜という男を初めて認識したのは、ナマエがまだ国防軍に所属していた頃のことだ。
愚直で、摯実で、謹直な努力家。
粛然とした笑みはどこか中性的で、むさ苦しい軍隊の中では僅かに浮いていた。
出会って早々に恭順の意を態度で示してきた秋山は、あれから数年、今でもナマエに崇拝の念を向けてくる。
一体自分の何が彼にそうさせるのか、実のところナマエはあまりよく分かっていない。
ナマエは、自認するのもどうかと思うが、決して真面目な上官ではなかった。
奔放、適当、自分勝手。
ナマエの自己評価はその程度だ。
癖のある、軍の中では少数派の部下にはよく慕われたが、秋山のように忠義を尽くすタイプの人間にとってナマエは反面教師になりこそすれ、心酔の対象になるような上官ではないはずだった。
しかし何がどう作用したのか、秋山はまるで忠犬のごとくナマエを慕い、後を追って来た。
別に、それが煩わしかったという話ではない。
ただ、ナマエには不思議でならなかった。
当初は尊敬、敬愛、崇拝、そのような温度で向けられていた視線に色が混じり始めたことを察したのは、いつ頃のことだったか。
出会ってから、そう時は経っていなかったはずだ。
向けられる好意を認識したナマエは、しかし特に何も態度を変えなかった。
ナマエはその性格の通り恋愛事に関してもさしたる拘りがなく、悪い気がしなければ誘いには乗ったし、枷にならなければ交際もした。
人生で自分から人を好きになったことはなく、当然告白をしたこともない。
ついでに言うと、余程面倒な事態にならない限り、自分から付き合いを打ち切ったこともない。
恋愛という面においても、ナマエは受動的だった。
数年の時を経て秋山に好きだと言われた日、ナマエはそれを意外に感じた。
秋山の想いは疾うに把握していたが、それを告げてくるとは思っていなかったのだ。
実際にはだだ漏れなのだが、本人の認識としては心の奥に仕舞ったままにしておくつもりだろう、と予想していた。
アルコールのせいだ、という一言では誤魔化しきれないほど頬を真っ赤に染めた秋山は、今にも羞恥で消え入りそうな様相を呈し、仔犬のように震えて俯いた。
それで、私にどうしてほしいの。
ナマエの問いに、秋山は泣きそうな声で乞うた。
もし嫌でなければ、お付き合いをして下さい、と。
改めて考えるまでもなく、ナマエに嫌悪感はなかった。
その当時、他に交際をしている相手もいなかった。
だから首肯を返せば、秋山は半泣きになりながらありがとうございます、と頭を下げてきた。
年下の男を泣かせる悪い女みたいだ、と頭の片隅で抱いた所感は、強ち間違いではなかったのかもしれない。
いま、目の前に広がる光景に、ナマエは四ヶ月前の出来事を思い返して少しばかり自嘲した。
話は十分ほど前に遡る。
秋山との定期巡回中、不意打ちのようなストレイン犯罪に遭遇したナマエは、職務上放っておくことも出来ずにその場で緊急抜刀し、ストレインを取り押さえた。
その報告のため、秋山を従えて室長室を訪れた。
ここまでは、制服が少し汚れた以外何も問題はなかった。
報告を終え、もちろん緊急抜刀の正当性も認められ、退室しようとした矢先。
唐突に放たれた宗像の台詞に、場の空気が凍った。
「時に秋山君。君に少し相談があるのですが、今週末、ミョウジ君をお借りしても構いませんか?」
厄介が過ぎる、とナマエが零した溜息が、凍て付いた室内に落ちる。
良くも悪くも、言外に仄めかされた意味を汲み取れないほど秋山は馬鹿ではなかった。
今週末、ナマエは非番だ。
宗像の言葉が休日出勤の要請でないことなど、それが秋山に向けられた時点で明白だろう。
ちらりと確認した隣、秋山の、彼が自らの王に向けるにはあまりに不穏当な視線が宗像を射抜いている。
なぜ今ここでわざわざ面倒な事態を引き起こしたのか、ナマエは上司の性格の悪さを呪った。
「室長。それ、先に私の都合を確認してくれませんかねえ」
言葉を失くした秋山の代わりに、ナマエは嫌々ながらも間に割って入った。
まさか秋山が宗像に殴り掛かるなど万に一つも起こり得ない事態だろうが、血の気を失くして白くなるほど握り締められた拳を横目で確認する限り、その口から不適切な言葉が出てもおかしくはない。
その場の勢いに任せた発言を、冷静になってから後悔するのは秋山だ。
それはあまりにも不憫だろう。
「生憎そう暇じゃないもので、休日出勤なら遠慮したいんですけど?」
敢えて的外れな返答をすれば、デスクに肘をついて両手を組んだ宗像が、目を眇めて苦笑する。
「ミョウジ君はつれないですね」
それが、退室の許可だった。
ナマエは軽く一礼し、踵を返す。
その段になっても宗像を見据えたまま動かない秋山の脚に、ナマエはサーベルの鞘を軽く当てた。
「秋山、」
小さな衝撃と呼び掛けに、秋山はようやく自失状態から我に返ったらしい。
油の切れた人形のような動きで頭を下げた秋山が今度は後ろに付いて来ることを確かめ、ナマエは室長室を後にした。
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