君は笑ってくれるだろうか[1]
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ナマエは物心ついた頃から、意図して受動的な姿勢を貫くことが多かった。
それは二十六歳を迎えた今も変わらず、親しい友人に言わせれば"呆れるほどやる気がない"そうだ。
ナマエとしては決して、怠惰な人生を送っているつもりはない。
しかし、基本的には誰しもが持つとされる自己主張が他者より極端に少ないことは自覚していた。
己とその意思を尊ぶという概念が、ナマエにはまるでない。
相手の挙動を見てから自身の行動を選択し、周囲の反応を確かめてから身の振り方を提示する。
それはナマエが臆病であるだとか、意思や積極性がないだとか、そういう理由ではない。
実際、ナマエは動こうと思えば誰よりも早く先手を取ることが出来た。
必要に応じてナマエが立案する作戦の攻勢は、あの宗像をして「敵に回したくない」と言わしめる。
ナマエはただ、一般的な人間が抱く自らの意思を尊重したいという願望を大きく上回るほど、状況を客観視し愉しむという癖が強すぎるだけのことだった。



さて、今夜はどうしたものだろうか。

ナマエは文字通り状況を客観的に把握した後、目を閉じたまま自らに問いかける。
睡眠を途中で遮られたので正確には分からないが、体内時計が狂っていなければ時刻は午前二時を回った頃だろう。
鼻孔を擽るのは、煙草の匂いだった。
本来、人がたとえ何もせず立っているだけでも滲み出る気配というものを、相変わらず欠片も感じ取ることが出来ない。
流石、と賞賛するべきか。
否、その見事なスキルを不法侵入に使われている時点で、ナマエに相手を讃える必要はないだろう。
上司である宗像礼司の"訪問"を、ナマエは内心でだけ苦笑した。
果たしてこれで何度目だろうか。

宗像の一回目の"不法侵入"は、ひと月ほど前のことだった。
ナマエを眠りから引きずり出した、ごく僅かなドアの開閉音と空気の流れ。
ナマエは身動ぎ一つせず、意識だけでベッドと壁の隙間に潜ませたナイフの位置を確認した。
そのまま、聴覚だけで闖入者の動向を探る。
全くの無音、人間の気配は皆無。
ナマエは内心で舌を巻いた。
最初に捉えたドアの音が気のせいだったのではないか、と自分を疑いたくなるほどだ。
しかし、確実に誰かが、何かがいる。
それは、勘に近かった。
七年もの間軍隊に身を置いていたナマエに、気配を感じ取らせない相手となると、相当の手練れか。
ナマエは思考の圧力を上げ、該当する対象を脳内でピックアップした。
決め手は、殺気が一切感じられない、ということだ。
消去法で、該当者は一人しかいなかった。
それが確信に変わったのは、ライターの着火音と、次いで漂ってくる煙草の匂い。
ナマエは"不法侵入"を果たした相手を違うことなく悟った。
なるほど青の王の手に掛かれば、何も難しいことではないだろう。
マスターキーもピッキングも必要ない。
ナマエは一度現場で、宗像が青の力をドアノブから流し込み、鍵を開ける姿を見たことがあった。
曰く、秩序のベクトルをほんの少しずらすだけ、だそうだ。
王の力を"不法侵入"に、しかも部下の部屋に正当な理由なく無断で入るために使うなんて、淡島が知ったら卒倒しかねないな、とナマエはその時も内心で苦笑した。
さて用件は何かとナマエは眠り続ける振りをしながら宗像の出方を待ったが、宗像は煙草を一本吸い終えるとそれを空き缶に落として部屋から出て行った。
我らが王様は、部下の部屋を喫煙所か何かと勘違いしているのだろうか。
ドアが閉められたきっかり一分後、ナマエは上体を起こして常夜灯に照らされた室内をざっと見渡した。
失くなったのは、ローテーブルの上にあったはずの空き缶のみ。
代わりに、目に見えない煙草の匂いがはっきりと残されていた。

二度目の"不法侵入"は、その三日後だった。
基本的には、初回と何も変わらない。
気配はなく、接触もなく、宗像はただ煙草を燻らせるのみ。
異なったのは、その煙草の末路だけだった。
というのも、二回目の際はローテーブルの上にコーヒーの缶がなかったのだ。
宗像は、窓を開けた。
聴覚でそれを察したナマエは、脳内でぼんやりと考えた。
果たして宗像は、ナマエが実は目を覚ましているということに、気付いているのだろうか。
もし答えが否ならば、随分と舐められたものだ。
勝手に部屋の窓を開けられても気が付かない軍人など、恐らくどこにもいない。
その答えをナマエに与えることなく、宗像は煙草を処理した。
聴覚から得た情報だけを頼りに説明するならば、宗像は窓の外に吸いさしを弾き、そこに青の力をかけて分解し霧散させた。
何ともダイナミックなポイ捨てである。
世界で七人しかいない王の一人の麾下からすると、その使い所は何とも居た堪れない。
その日のうちに、ナマエは屯所の備品庫で未使用の灰皿を物色した。

自分では使わない灰皿を一つ、ローテーブルに置く。
それにより、宗像の三度目の"不法侵入"は"訪問"に変わった。
一度目、二度目ともに宗像が、ナマエの意識が眠りの中になかったことを知っていたのかどうか、ナマエには分からない。
しかし灰皿を設置したことにより、 ナマエは自ら真相を明かした。
ナマエにしては珍しい、積極的な行動だった。
相変わらず深夜に忍び込んで来た宗像は、灰皿を見つけても特に何も言及することはなく、無言で煙草を吸った。
ナマエもまた、過去二回と同様に目を閉じていた。
互いに、相手の意識が自分に向けられていることを知っている。
その上で、言葉を交わすことはなかった。
煙草を吸い終えた宗像が部屋を出て行くと、室内には煙草の匂いと吸殻が一つ、残されていた。


それ以降は、ひたすらに同じことの繰り返しだ。
頻度にして、二日から五日に一度。
残されるのは、煙草の匂いと吸殻一つ。
当初は軽く漂うだけだった匂いが、今では部屋に染み付いている。
そろそろ、窓を開けて吸うように提案してみるべきだろうか。
そう自問したところで、それよりも肝心なことを失念していたことに気付き心の中で小さく笑う。
この一ヶ月間、ナマエと宗像はこの部屋でまだ一度も言葉を交わしたことがなかった。
職務中は互いに、深夜の奇妙な"訪問"などまるでなかったかのように振る舞う。
ナマエも宗像も、以前と何も変わらない。
果たして、宗像は一体何がしたいのか。
その理由も目的も掴めないまま、今夜も短い逢瀬は終わろうとしている。

ーーー 逢瀬、か。

ナマエは、何の気なしに思い浮かべた単語を反芻し、ふと考えた。
比喩表現のつもりで使ったが、強ち間違ってはいないのかもしれない。
宗像が上司としてこの部屋を訪ねているならばそれは職務の一環だろうが、その様子はない。
ただ一人の人間として、ここにいる。
とするならば、性別という大前提を忘れるわけにはいかないだろう。
男と女が深夜に、他の誰にも気付かれることなく会うならば、そこには何がしかの情がある。
なるほど、とナマエは他人事のように納得した。

その時だった。

「気が付きましたか」

一ヶ月経って初めて、この部屋で宗像が言葉を発した。
それには、流石のナマエも驚いた。
気が付いたか。
それが、目が覚めたか、という意味の問いでないことくらい、ナマエは十分に理解している。
ならば、何に、気が付いたのか。

「………ええ、まあ、」

ナマエは珍しく言葉に迷い、結局曖昧な肯定を返して瞼を持ち上げた。
常夜灯の薄明かりを背に、煙草を左手に持った宗像がナマエを見下ろしている。
逆光と、暗がりに馴染まない視力のせいでその表情を正確に把握することは出来なかったが、恐らく常変わらず微笑んでいるのだろうと察せられた。
煙草を唇に挟んだ宗像が息を吸い込み、一拍置いて白い煙を吐き出す。
ナマエは一応上司の前か、とあまりにも今更なことを考慮して、上体を起こした。

「出来れば、窓開けてほしいんですけど?」

これもまた、今更だ。
ヘッドボードに背を預け、ナマエは苦笑した。

「おや、これは失敬。匂いを君の恋人に気付かれてしまいますか?」

窓際に足を運んだ宗像が、カーテンを半分開いて窓の鍵に手を伸ばす。
窓から差し込む月明かりに照らされ、宗像の顔が鮮明に見えた。
予想通り、艶然たる微笑だ。

「それに関しては、とっくに手遅れですよ。秋山も元は軍人ですからね、一度目の時から気付いてます」

宗像が窓を開けると、生温い空気がじわりと入り込んで来る。
生憎、快適とは言い難かった。

「ふふ、そうでしょうね。お陰様で、最近秋山君からの視線がどうにも痛くて敵いませんよ」
「それは自業自得ってやつなんじゃないですかねえ」

室長、と呼べば、はい、と丁寧な返事が落とされる。
ナマエは長めの前髪を掻き上げてから、その手を宗像に差し出した。

「一本貰えます?」
「ええ、構いませんよ」

宗像がたった今まで吸っていた煙草を灰皿に押し付け、新たに二本の煙草をケースから取り出す。
一本は宗像の唇に、もう一本はナマエの手に渡された。
先に己の咥える煙草に火をつけた宗像が、そのまま上体を屈めてナマエが咥えた煙草の先端に火種を触れ合わせる。
ナマエは至近距離に宗像の顔を見つめながら、深く息を吸い込んだ。
宗像が顔を離し、再び一定の距離を取る。
二本の煙が、緩やかに立ち昇った。







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