口付けに祈りを込めて[2]
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知らなかった。
ナマエが、飲食店や食堂で注文するものを除き、宗像以外の誰かが用意したものを口に含む姿を、初めて見た。
あのマグカップに何が入っていたのか宗像には分からなかったが、ナマエが好んで飲むということは恐らくココアだろう。
ココア一杯に大袈裟な表現かもしれないが、しかしあれは"手作り"だ。
缶に入った既製品ではない。
弁財が、給湯室で手ずから淹れたものだ。
それをナマエが、匂いも温度も確かめず、何の躊躇いもなく飲む。
それはナマエの弁財に対する信頼と、二人が築き上げてきた日常の証拠に他ならなかった。

執務室に戻った宗像は、しかし仕事をする気にならず、茶室に腰を下ろしてぼんやりと畳を眺める。
脳裏には、僅かに口角を上げて弁財に礼を言ったナマエの姿が焼き付いていた。

これは間違いなく、とても良いことなのだと、宗像は理解している。
他人に怯え、何も信じられず、全てを拒絶していたナマエが、居場所を見つけ、仲間を信頼し、向けられる厚意を受け入れるようになった。
以前のナマエであれば確実に、人から渡された飲食物など安易に口にしなかっただろう。
受け入れられる味覚の許容範囲が極端に狭いナマエは不味いと感じるものが多く、そもそも先に毒物の混入さえ疑ったはずだ。
しかし、先ほどナマエはそれをしなかった。
宗像の知らぬ間に、弁財の淹れる飲み物、というものを信頼するようになっていたのだ。
ナマエは、一般的には過度だと思われるほど甘く温いココアを好む。
弁財はすでに、そのナマエの好みを的確に把握しているということだろう。
宗像の胸臆に、再び暗雲が立ち込めた。


昼休憩の時間になり、宗像は執務室を出た。
目当ては言うまでもなくナマエだ。
普段はわざわざ屯所内でナマエを探して共に昼食をとる、ということまではしないが、今は早くその顔が見たかった。
数時間ぶりに情報室を覗き込むと、そこに探し求めていた姿はない。

「伏見君、ミョウジ君はどちらですか?」
「ミョウジならメシ食いに行きましたけど」

唯一室内に残っていた伏見に問うと、心底面倒臭そうな口調で答えが返ってきた。
珍しいな、と思う。
普段、ナマエがあまり積極的に食事をとらないことを、宗像は知っている。
ナマエは人よりも圧倒的に食欲が少なく、放っておけば一日二日平気で食事を抜いてしまう。
宗像がナマエのデスクに勝手に菓子を常備しているのは、少しでもカロリーを摂取してほしいからだ。
そのナマエが自ら昼食をとりに行ったのか、と宗像が首を傾げれば、疑問を察したらしい伏見が舌打ちを一つ零してから補足した。

「道明寺と日高の馬鹿コンビが強引に連れて行きましたよ」

その言葉に、宗像の眉がぴくりと跳ねる。
しかしそれ以上関わる気はないのか、伏見はもう何も言わずに仕事を再開した。
宗像は形式だけで伏見に労いの言葉をかけてから、足早に食堂へと足を運ぶ。
その歩調が乱れていることにも気付かないほど、宗像の内心はそれ以上に乱れていた。

そうして顔を出した食堂で、日高と道明寺はその背の高さや存在感の大きさもあってか、そこそこ混み合った中でもすぐさま見つかった。
四人掛けのテーブル、ナマエの隣に日高が、向かいには道明寺が腰を下ろしている。
背の高い男二人に囲まれたナマエは一層小さく見えたが、その顔に不安や不快といったマイナスの感情は見受けられなかった。
道明寺と日高が大盛りの定食をテーブルに並べる側で、ナマエは小振りの丼一つに箸をつけている。
どうやらうどんを食べているらしい。
どう見ても成人女性の一食分としてはカロリーも栄養素も不足しているだろうが、何も食べないよりはずっとましだ。
道明寺と日高が楽しげに何かを話し、時折話を振られたナマエは、ほとんど表情を変えることなく、しかし必ず顔を上げて何か言葉を返している。
それに対し二人は笑い、また何か喋り出す。
端から見れば仲の良さそうな、微笑ましい光景だろう。
だが生憎と、宗像はとてもじゃないがそれを素直に喜ぶことなど出来そうもなかった。

少しずつ、気付いてはいたのだ。
ここ最近、ナマエの口から特務隊の隊員の名前が出ることが増えていた。
以前のナマエは、宗像といる時に他人の話など決してしなかった。
そもそもナマエにとってセプター4の隊員はあくまで職務上関わらざるを得ない人間、程度の認識であり、仕事が終わればその存在が思考に上ることもなかったように見受けられる。
それが変化していったのは、恐らくつい最近のことだろう。
時折、宗像といる時に特務隊の隊員の話をするようになった。
それは別に、深刻な話というわけではない。
日高のミスの処理が手間だっただの、布施が彼女と喧嘩をしたらしいだの、その程度の些細なことだ。
だからこそ、宗像は驚いたのだ。
そんな、言ってしまえばさして重要でもない瑣末なことを、就業後に本人のいないところで思い出して会話に混ぜるほど、ナマエが特務隊に馴染んでいる、ということに。
そして、手間がかかっただの、どうでもいいだのと呆れたように評しながらも、ナマエが満更でもなさそうな表情をしている、ということに。


宗像の視線の先、日高が定食のセットだったらしいプリンをナマエに差し出す。
ナマエは僅かに目元を緩め、それを受け取った。
恐らく礼を言っているのだろう、少し俯いたナマエの口元が小さく動く。
日高は破顔一笑し、くしゃりとナマエの頭を撫でた。
まるで、兄のように、仲の良い友人のように。
そんな気安い雰囲気だった。
ナマエは抵抗の一つもすることなくそれを甘受してから、プリンにスプーンを差し込む。
そんなナマエを、日高も道明寺も柔らかな表情で見ていた。
それ以上見ていられなかったのは、またもや宗像の方だった。


ナマエの世界は、宗像が拾った頃に比べて格段にその大きさを広げた。
元は宗像が与えたはずだったこの場所は、いつの間にかナマエが実力で確保した立ち位置となった。
その中でナマエは周囲と関わることを覚え、次第に打ち解けていった。
淹れてもらったココアを飲み、食事を共にし、頭を撫でさせるまでに至った。
人に触れられることをあれほど恐れ、嫌ったナマエが、何の抵抗もなく日高の手を受け入れる姿は、宗像にとってショックとしか言いようがない光景だった。
これまでずっと、ナマエに触れられるのは宗像にだけ許された特権だったのに。
いつの間に、そうではなくなっていたのだろう。

これは、宗像が望んだことのはずだった。
ナマエが外の世界へと踏み出す手伝いをしてきたのは、こうして他者の優しさに触れてほしかったからだ。
社会で生きる術を身に付けてほしかったからだ。
閉じ込められ、虐待されて生きてきたナマエに、優しい世界があることを知ってほしかった。
怖い人間ばかりではない。
冷たい世界ばかりではない。
ナマエの居場所はここにあり、ナマエの味方はたくさんいるのだと、知ってほしかった。
だから、これは宗像の望んだ展開だ。
ナマエは今、特務隊の面々に受け入れられ、可愛がられている。
ナマエもまた、彼らを信頼し始めているのだろう。
良好な関係が築けていることを、宗像は喜ぶべきだった。

それなのに、胸裡で暗澹たる翳が蠢くのだ。
その子は、俺の、俺だけのものなのに、と。
醜い独占欲が、宗像を支配した。







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