口付けに祈りを込めて[1]
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言うなれば、それは優越感だった。

痩せて骨張った、だが毛並みは悪くない、途轍もなく愛想がないくせにどこか人を惹きつける仔猫。
ケージに閉じ込めず、リードをつけることもせず首輪一つで野放しにしておいても、その猫は他の誰にも懐くことなく宗像の元に帰って来る。
宗像にだけ甘えて喉を鳴らし、宗像の膝の上にだけ乗り、安心しきった表情で腹を見せる。
そのことは、宗像を限りない優越感に浸らせた。

元々宗像は、自身が他者よりもよほど優れていることを自覚していた。
しかしそれは純然たる事実であり、そこに優越感を覚えることはなかった。
宗像は確かに様々な点において人よりも秀でた存在だったが、だからといって周囲を見下したことはない。
たとえば宗像礼司という人間に「天才」というタグを付けるならば、他の全ての人間にも「平凡」や「凡常」というタグがつき、それは宗像にとって社会における優劣を示すものではなく、あくまでそれぞれの役割に過ぎないと考えられるものだった。
ゆえに宗像は成績が人より飛び抜けて優秀でも、スポーツが他者を圧倒するほど万能でも、優越感に浸ることはなかった。
宗像に優越感という人間らしい感情を初めて覚えさせたのは、ナマエの存在だ。
宗像が拾った、当初は薄汚れて死にかけていた仔猫。
その存在こそが、宗像を人間にした。

ナマエは生きてきた環境の影響で、とにかく人間に対し恐怖し、同時に嫌忌した。
それは無理からぬことだった。
そんなナマエを怖がらせないよう腐心し、少し距離を置いたまま手を差し伸べ、振り払われ、爪を立てられ、噛み付かれてもなお、宗像は諦めることなく叱ることもなく手を差し伸べ続けた。
怖くありませんよ。
私は君を傷付けたりしませんよ。
そう呪文のように繰り返し、害意がないことを示し続けた。
やがて絆されたのか諦めたのか、ナマエは少しずつ宗像を受け入れるようになった。
宗像が差し出す手から逃げなくなり、次にその指先を掴むようになり、そして手を握り締めるようになった。
警戒心を解いたナマエは宗像に頼ることを覚え、甘えることを知り、寄り掛かった。
動物にはとことん避けられる宗像にとって、ナマエは初めて懐いてくれた猫だった。

宗像にとってそうであるように、ナマエにとっても宗像は唯一だった。
宗像にだけ甘え、擦り寄り、身体を預け、感情を見せる。
ナマエは、他の人間には決して懐かなかった。
それどころか、宗像以外には怯える様子さえ見せた。
そんなナマエを宗像は優しく包み込み、大丈夫だと、怖いものばかりではないのだと、少しずつ世界を教えた。
何があっても守るからと言い含め、共に外の世界を歩き、人との関わり方、物の考え方を示した。
何も知らなかったナマエの手を引き、次に背を押し、優しい世界に足を踏み出す手伝いをした。
そうしてナマエは徐々に社会に適合し始め、やがてセプター4という大きな居場所を見つけた。




「おはようございます、ナマエ」

柔らかな日差しが降り注ぐ窓を背に、宗像は蕩けるような笑みを浮かべる。
宗像の隣、小さく丸まって眠っていたナマエが寝惚け目を覗かせた。

「……はよ、ございます」

寝起き特有の少し掠れた声が返ってくる。
こしこし、と目を擦る様は、さながら猫そのものだった。
宗像はくすりと喉の奥で笑い、柔らかな猫っ毛を指で梳く。
宗像の手入れが行き届いた長い黒髪は、抵抗なくシーツに流れた。
低血圧のナマエは、とことん朝に弱い。
宗像に擦り寄ったまま、三十分以上は何もせず、起きているのか微睡んでいるのか、そんな曖昧な状態で過ごすのが常だった。
宗像は寝起きが良い方だが、当然その間はナマエに付き合ってベッドの中に残る。
髪や頬を撫でながら、ナマエが完全に目を覚ますのを待つのだ。
ナマエがなかなかベッドから出られないことを考慮して起床時間を設定しているので、出勤までにはまだ時間がある。
三十分ほどベッドで過ごし、それからコーヒーと、ナマエが食べる確率は半々だが朝食を用意し、それをゆっくり食べてから支度をしても余裕があるほどだ。
何を急ぐ必要もない。
宗像はすでに覚醒した思惟の中で今日の朝食のメニューを考えながら、ゆっくりとナマエの髪を撫でた。
すると、十分ほど経ったところで、それまで欠伸をしたり目を閉じて宗像の胸に擦り寄っていたナマエが、緩慢ながらも明確な意思を持った所作でベッドから上体を起こした。

「ナマエ?」

普段に比べてあまりにも早い起床に、宗像は疑問符を浮かべて首を傾げる。

「まだ時間に余裕はありますから、もうしばらくゆっくりしていても大丈夫ですよ?」

いつもならば宗像がそろそろ、と声を掛けるまで布団から出ないのに、今朝はどうしたことか。
実際、ナマエの頭はまだ覚醒しきっていないらしく、ひどく眠そうだ。
しかしもう一度ベッドに戻る気配はなく、ナマエはそのままフローリングに足をつけて立ち上がった。

「……今日、早めに、行きたくて」
「と言うと?」

仕事に、という意味だろう。
後を追ってベッドから出た宗像が、ナマエの背に理由を訊ねる。
緊急の呼び出しがあったわけでもないのにナマエが定時前に出勤しようとするのは、宗像が知る限り初めてのことだった。

「……榎本、さんが、システムのことで、聞きたいことがあるって、言ってて。今日、あの人、夜勤だから、だったら、朝に話聞きますって、昨日言った、んです」

訥々と言葉にされ、宗像は驚いた。
機械オタクな榎本が、その道に強いナマエの知識に関心を抱いていることは前々から知っていたので、その点については特別な意外性はない。
だが、ナマエがきちんと時間を設けて質問を受けることを了承し、しかもそれが勤務時間外であるといことには、驚きを隠せなかった。

「なんか、色々聞きたい、らしくて。だったら、伏見さんも一緒に、ってことに、なって。……まあ、伏見さんは、めんどくさがって、ましたけど。でも、朝から来てくれる、って、」

宗像が寝間着として買い与えた浴衣の帯を解きながら、ふとナマエが浮かべた苦笑に、宗像は目を奪われる。
それは、熱心に知識を得ようとする榎本に向けられたものなのか。
それとも、面倒だと言いつつも結局は協力してくれる伏見に向けられたものなのか。
どちらにせよ、その笑みは宗像に向けられたものではなかった。

「……そう、ですか」

宗像は、ぽつりと落ちた自身の声があまりに温度を失くしていることに気付き、慌てて取り繕う。

「ふふ、榎本君も熱心で結構ですね。情報処理はセプター4の要ですから、しっかり扱いてあげて下さい」

眼鏡のブリッジを押し上げ、宗像は微笑んだ。
一つ頷いたナマエはそのまま、手早くとは言えないもののそれなりに急いで支度を済ませ、宗像の部屋から出て行った。
まだ、いつもならばベッドから出るか出ないかという時刻だった。


ナマエに遅れること一時間、宗像はいつもの通りに出勤する。
月初めのため、淡島を従えて、室長執務室ではなく特務隊の情報処理室に顔を出した。
朝の引き継ぎはすでに済んでおり、日勤の隊員たちが揃って立ち上がる。
ナマエと伏見は椅子に腰掛けたままだったが、宗像にとってそれはさしたる問題ではなかった。
淡島から二、三、訓示があり、それを聞く隊員たちを宗像は微笑を浮かべたまま眺める。
いつもならば清々しい気分になれる朝の風景だが、先ほどの出来事に拘泥しているせいか、宗像は穏やかたり得なかった。
ちらりとナマエに視線をやれば、ぼんやりと淡島の言葉に耳を傾けている。
特に、普段と変わった点は見受けられなかった。

朝礼が終わり、各々が割り振られた業務のために動き出す。
常ならば宗像は執務室に戻るところだが、何となく後ろ髪を引かれる思いがあり、そのまま室内に留まった。

「……あの、室長?何か、」

隣に立っていた淡島が、そんな宗像を不審がって戸惑ったように声を掛けてくる。
その声に、動き始めていた隊員たちも手を止めて宗像の方を伺った。

「ああ、いえ、私のことは気にせず業務に取り掛かって下さい」

右手を軽く振って促せば、隊員たちは少し頬を引き攣らせ、しかし何を言うこともなく仕事を再開した。
何人か、その挙動にぎこちなさが見受けられるが、それは宗像の意味深長な視線がある以上仕方のないことだろう。
宗像は決して畏怖の対象にされたいわけではないのだが、自身がただ立っているだけで部下に与えてしまう影響力というものは自覚していた。
訝しげな顔をしつつ、淡島も宗像の側を離れてデスクにつく。
伏見から盛大な舌打ちが見舞われたが、宗像は気にせず微笑んだまま部屋を見渡した。
パソコンに向き合う淡島。
それぞれ、キーボードを叩いている伏見とナマエ。
日高と道明寺は資料を手に何事か話し合っており、少し離れた位置で秋山と弁財も一つのモニターを覗き込んでいる。
特段珍しくもない、いつも通りの空間だ。
宗像は邪魔にならないよう部屋の隅に佇み、十分ほどその光景を眺めた。
皆、勿論宗像の視線があるから、という理由は大きいだろうが、無駄なく作業を進めている。
働き者の優秀な部下たちだ。
宗像は、先ほどまで内心に蠢いていた奇妙な不快感が徐々に払拭されていくのを感じ、満足げに微笑む。
そろそろ、ナマエか伏見に怒られる前に仕事をしようか、と踵を返しかけたところで、不意に宗像は意識を引かれた。
先ほど豪奢な扉から出て行った弁財が、その手にマグカップを一つ持って戻って来る。

「ミョウジ」

てっきり弁財本人の分のコーヒーか何かかと思えば、弁財はそれをナマエに差し出した。
タイピングの手を止めたナマエが顔を上げ、弁財の顔とマグカップとを交互に見る。
そして、ふと口許を緩めると、両手でそのカップを受け取った。
それだけでも宗像にとっては十分に驚くべき光景であったのに、あろうことかナマエは、匂いを嗅ぐことも息を吹きかけることもせず、マグカップの縁に口をつける。
ナマエはそのまま一口飲み込み、まるで見守るかのように立っていた弁財を見上げた。

「……ありがと、ございます」

それは小さな、小さな声だったが、宗像は聞き漏らさなかった。
照れ臭そうな、ばつの悪そうな、しかしどことなく嬉しそうにも聞こえる感謝の言葉。
弁財は満足げに微笑み、あとはまるで何事もなかったかのように自分の席へと戻って行った。
それが、このやり取りがこれまでに何度も繰り返されてきた"当たり前"なのだということを物語っている。
宗像は、ほとんど無意識のうちにふらりと情報室を後にした。




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