紫煙に滲ませて愛を残す
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気配を完全に消して、無断で室内に足を踏み入れる。
それは、午前三時に部下の、しかも異性の部屋を訪問する方法としては大いに間違っているだろう。
宗像は薄っすらと自嘲に唇を歪めながら、音もなくドアを閉めた。
常夜灯ひとつがぼんやりと浮かんだ部屋は薄暗いが、どこに何があるのかを把握出来る程度の明度は保たれている。
敢えて間取りを説明するのならば、1Kということになるのだろう。
簡易キッチンの脇を通り過ぎ、一つしかない部屋を覗き込んだ。

セプター4の男子寮は二人一部屋を原則としているが、女子寮は一人につき一部屋が与えられている。
それは、寮住まいを強制される撃剣機動課に所属する女性が、男性に比べ圧倒的に少ないという単純な理由に他ならない。
部屋の大きさこそ男子寮のそれと大差はないものの、女子寮には各部屋にバスルームとエアコンが完備されており、男性陣が多少の不満を訴える程度には優遇されていた。

シンプルな部屋だ。
ベッドとデスク、床にはローテーブルと小さなクッション。
収納はクローゼットのみ。
置物といえばテーブルの上の時計くらいで、他に目立った装飾はない。
ファンシーなぬいぐるみに囲まれた淡島の部屋とは大違いで、何とも殺風景だ。
あくまで機能面を重視した、生活に必要な最低限だけを整えた部屋。
その奥に鎮座するベッドの上で、部屋の主が眠っていた。

宗像はローテーブルを回り込み、ベッドに近づく。
枕元に、充電器を差したままのタンマツが一つ。
橙の常夜灯に照らされた寝顔を、宗像はそっと覗き込んだ。
普段からエチケットとしての化粧のみで、ほとんど素顔を晒しているため、顔の造形は見慣れたものだ。
しかしそれでも完全に化粧を落とした顔、さらに瞼を伏せた寝顔というのは常よりもあどけなく見える。
胸元までを覆う掛け布団、どうやら寝相は良いらしく、両手はその中に仕舞われていた。
枕を使う習慣がないのか、黒い髪はそのまま直接シーツに散らばっている。
仰向けの体勢で穏やかな呼吸を繰り返す様を、宗像はじっと見下ろした。

女性といえども、立派に戦闘要員の一人だ。
仮にここで宗像が気配を滲ませれば、即座に眠りから飛び起きるだろう。
宗像でなければ、気付かれずに侵入することなど出来なかったはずだ。
宗像は音を立てないよう気を付けながら、ベッド脇の床に膝をついた。
物理的な距離が縮まったことにより、寝息がほんの僅かに鼓膜を掠める。
静かに繰り返される単調な呼吸音が、深夜の清冽とした空気に溶けていった。

その距離は僅か三十センチ。
仮に手を伸ばせば、容易に触れることが出来るだろう。
だが、間には見えない障壁があった。
触ることで起こしてしまってはいけない、という尤もな建前の奥に潜む、本当の理由。
宗像は目を眇め、穏やかな寝顔を見つめた。
伏せられた瞼を縁取る、長い睫毛。
今は橙に照らされて見えるが、本当は白磁のような色合いの頬。
紙一枚分ほどの隙間を空けた、少し薄めの唇。
流れるようにシーツへと垂れて散らばる、艶やかな髪。
華奢な首と、寝間着の襟元から覗く浮いた鎖骨。
何もかもが、触れられない宗像には目の毒でしかないのに、そこから視線を逸らすことも出来なかった。

不意に思い浮かぶ、優秀な部下の顔。
穏やかで優しい、愚直で誠実な男の顔。
あの男はきっと、恋人という肩書きを持っているにも関わらず、この部屋に無断で足を踏み入れたりはしないのだろう。
伏せられた瞼の下に眠る瞳は、どのような輝きを以てあの男を見つめるのだろうか。
滑らかな頬は、あの男からの愛に色付くのだろうか。
この唇は、あの男にどのような言葉で愛を囁くのだろうか。
彼女が公私混同を良しとしないため、宗像は何一つ特別な表情を見たことがない。
だが恐らく、宗像の知らない顔を、あの男だけは知っているのだろう。
あの男は、いま宗像がどれほど触れたくとも触れられない頬に簡単に手を添え、唇を奪い、首筋に舌を這わせ、この布団をめくって寝間着の下を暴くことが赦されているのだ。
その時にきっと、この穏やかな寝息は甘やかな吐息へと変わり、静謐な空間には途切れ途切れの嬌声が響くのだろう。
好きだ、と。
愛している、と。
宗像が言葉に出来ない想いを、あの男は何の躊躇いもなく吐き出せる。
それを、受け止めてもらえる。
そして恐らく、同じだけの言葉を返してもらえるのだ。


宗像は立ち上がり、壁に凭れ掛かると懐から煙草のケースを取り出した。
中から一本引き抜き、ライターで火をつける。
カチリ、と小さな音がしたが、ベッドの上で眠る身体は身動ぎ一つしなかった。
窓を開けることも換気扇を回すこともなく、煙草の煙を漂わせる。
脳裏に浮かぶ男の顔に吹きかけるイメージで、宗像は肺の中身を深く吐き出した。

奪ってしまう方法が、ないわけではない。
青の王、セプター4の室長。
王権も職権も、宗像の手の内には何枚ものカードがある。
合意など得なくとも、強引に自らの手中に収めることは出来た。
だが宗像は、そうしなかった。
無理矢理抱き込み、鎖で繋いでしまうことが、出来なかった。
怖かったのだ。
宗像礼司ともあろう男が、怯えたのだ。
他者を弄び、反抗する様子を上から眺めて愉しむことを趣味とする宗像が、ただ一人、どうしても畏れられることを恐れた。
憎まれることが怖かった。
二度と笑顔を見せてくれなくなるのでは、という危惧と憂慮が、宗像の手からカードを奪った。
ゆえに、宗像は傍観者の立場に立たされたのだ。

白く烟った煙が、天井へと昇っていく。
無造作に、ローテーブルの上に残されていたコーヒーの缶に灰を落とした。
ちらりと確認したコーヒーは、カフェオレではなくブラックで。
それは、あの男が好んで飲むメーカーのものだった。
思わず漏れかけた舌打ちを、ニコチンを含むことで飲み下す。
細胞に染み渡る煙草が、驚くほど不味かった。
舌の先端が不快に疼く。
だが、まだ長さのある吸いさしを缶の中に落とそうとは思わなかった。
煙を吐き出し、再び煙草を咥えて吸い込む。
その動作を、機械的に何度も繰り返した。

ベッドの上では相変わらず、穏やかな寝顔が晒されている。
無防備に、無感情に。
そこには当然、宗像に対する拒絶はなく、そして許容もなかった。
明日の朝になればまたいつものように、部下の顔をして宗像の前に現れるだろう。
迅速に執務をこなし、場合によっては前線に出てサーベルを振るい、そして夜になると恋人の愛に応える。
そのどこにも、宗像が関与する場所はなかった。

宗像は短くなった煙草を缶の中に落とす。
僅かに中身が残っていたのか、水分によって火の消える音がした。
こんな風に呆気なく、いとも簡単に消える感情ならばよかった。
水に沈んで、二度と燃えることのない吸殻のように。
ふやけ、流され、捨てた本人でさえ思い出すことのない、ただのごみになってしまえばよかったのに。
厄介なものだと、宗像は嗤った。

最後にもう一度、寝姿に視線を落とす。
宗像は想像した。
静かな呼吸を繰り返す無防備な唇に噛み付き、深く口付けて舌を絡め取る。
目を覚ませば、無論抵抗されるだろう。
それを押さえ付け、衣服を乱し、肌という肌に鬱血痕を残し、身体を暴く。
必死になって、無駄だと分かっていても抵抗するのだろうか。
怒り、嫌悪し、睨み付けてくるのだろうか。
それとも、ただただ泣いてやめてと懇願するのだろうか。
宗像には分からなかった。
だが恐らく、反応がどうであったとしても、一度触れてしまえば最後まで止まれないだろう。
最奥を犯し、あの男の残した愛を上書きするほどに欲望を叩きつけ、そして壊してしまうのだろう。

宗像は目を伏せ、眼鏡のブリッジを押し上げた。

思惟を埋め尽くした残虐なイメージを、強引に掻き消す。
何度か静かに深呼吸を繰り返し、やがて瞼を持ち上げた。
宗像が脳裏で犯したひとが、何にも気付かず静かに眠っている。
宗像は指一本たりとも触れることなく、その姿に背を向けた。
ローテーブルの上からコーヒーの缶を回収し、部屋を後にする。


室内には、煙草の匂いだけが残された。






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