無窮の約束[2]
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宗像が唐突に感じたのは、唇に触れた低い温度と、咥内に吹き込まれる息だった。
判然としない意識の中に、烟った思考が戻って来る。
無意識のうちに妙に生暖かい空気を吸い込もうとすれば、なぜか盛大に噎せた。
唇から温もりが離れていくのを認識しながら、宗像はさらに数度咳き込む。
その咳が落ち着いたところで自身の瞼が降りていることに思い至り目を開けば、そこには喫驚と焦燥を混ぜ合わせたようなナマエの表情があり、宗像は微かに顎を傾けた。

「……ナマエ……?」

宗像の至近距離に顔を寄せたナマエは、先ほどまで腰を下ろしていた執務机の上に膝立ちになり、宗像を見下ろしている。
こほ、ともう一度咳をしてからその体勢を訝しんだ宗像が目を瞬かせると、ナマエは肺の中身を全て空にするかのような盛大な溜息を吐き出して机の上に尻をつけた。

「なに、してるんですか。ちゃんと息、してください」

心底呆れたような、しかしどこかに安堵を滲ませたような声音で譴責され、宗像はその意味を理解する前に半ば反射で謝罪を口にする。
胡乱げに目を細めたナマエが、底意を確かめるように視線を向けてきた。
そこに先刻までの刃物と見紛うような凛冽さがないことに、宗像は微かな希望を抱いてナマエの頬に手を伸ばす。
叩き落されることも覚悟していたが、その指先は何に邪魔されることもなくナマエの肌に辿り着いた。

「すみません、ナマエ」

繰り返される謝罪に、ナマエの双眸が僅かに揺らぐ。

「……何に謝ってるのか、分かってる、んですか」

やがて辿々しく落とされた問いに、宗像は慎重に言葉を探した。
冷えた指先で、ナマエの頬を柔らかくなぞる。

「今回の作戦のこと。そして、たった今の失態です」

宗像が釈明するかのごとく目を伏せて告げると、ナマエは数秒間沈黙した後に宗像に倣ってその頬に手を伸ばし、しかしナマエに触れる手とは正反対に力を込めて宗像の頬を思い切り抓った。
虚を突かれ、宗像が目を見開く。
頬を抓られるという未知の体験に唖然とする宗像を見遣り、ナマエは微かに口元を緩めた。
一頻り、満足のいくまで引っ張ってからナマエが手を離せば、宗像はぽかんと間抜けに口を開けて自らの頬に手を添える。

「……あの、ナマエ……?」

突然の奇行に呆然とした宗像が名を呼べば、ナマエは小さく鼻を鳴らした。

「何も、分かってない。なんにも」
「は、い……?」

毒々しげに吐き捨てられ、宗像は戸惑う。
言葉の真意を問い質したいと思っても、先ほどの冷え切った双眸を思い出せば迂闊に口数を増やすことは憚られた。
躊躇う宗像を他所に、ナマエは再び宗像の頬に触れる。
今度は優しく、少し辿々しく頬をなぞられ、宗像は戸惑いながらもそれを甘受した。
先ほど抓った箇所を労わるかのように、華奢な指先が往復する。
ナマエがデスクに乗っているため真正面から交わる視線の中に鋭利な光はなく、それどころか宗像にはその眼睛が僅かに滲んでいるように見えた。

「……作戦が後手に回ったのは、情報班の、私の落ち度です。……そりゃ、あのやり方に納得は、してませんけど、怒ってない、です。今のことも、他所でやったら、許しませんけど、べつに、私の前なら、いいです」

宗像の頬から離した指を掌に握り締めたナマエが、微かに俯いて訥々と言葉を零していく。
消え入りそうな声を一字一句聞き漏らさぬようにと、宗像は耳をそばだてた。

「でも、………でも、置いて行ったことは、怒って、ます」
「………え?」

心髄の真ん中に、放たれた言葉。

「……なんで、私のいない所で、剣、出したんですか」

宗像は紫紺を見開き、語尾を震わせたナマエを見つめた。
窓から差し込む光で、俯いた白磁の頬に睫毛の影が落ちている。
その睫毛を微かに揺らし、ナマエは宗像を謗った。

「もう、赤の王の時とは違う、んですよ。何があるか、分からない。それなのに、なんで……っ、なんで、私のいない時に……!」

勢い良く顔を上げたナマエの双眸、その眦に浮かんだものの正体を正確に理解し、宗像の心臓は引き絞られるような痛みに呻吟した。
ナマエが何に憤っていたのか、今になってようやく思い知る。
そして、その真相は宗像の胸中をこの上なく掻き乱した。

宗像が現場に伏見を連れて行ったのは、決してナマエでは力不足だったからという理由ではない。
緑からのサイバー攻撃が続いている以上、作戦遂行中も屯所を手薄にするわけにはいかず、その役目には特に守りに強いナマエが適任だ。
宗像はその判断に基づき、ナマエを椿門に残した。
ただそれだけの理由だった。

「……もう、猶予は、ないんですよ……?」

宗像のヴァイスマン偏差は、常にナマエが監視し続けている。
周防の最期ほどではないにしても、決して安定しているとは言い難い数値を弾き出していることは、当然宗像も理解していた。

「私がいない、ときに、もし、」

もしも、ダモクレスの剣が堕ちたら。

続く言葉がナマエの唇から紡がれることはなかったが、宗像には違うことなく伝わった。
ぐっと薄い唇を噛み締めたナマエを見つめ、宗像は言いようのない情念に思考を乱される。
それは焦慮であり、忸怩でもあり、そして場違いにも欣喜ですらあった。

「ナマエ、」

宗像は、ゆるりと目を細める。
死なば諸共、などという陳腐な言葉が脳裏を過った。
両腕を伸ばしてナマエの腋窩に手を差し込み、宗像はその痩躯を軽々と、だが丁重に抱き上げる。
青の意匠に包まれた身体を抱き締め、そのまま机を背凭れに絨毯の上へと座り込んだ。
太腿の上にナマエを降ろし、胸元へと頭を引き寄せる。
宗像の脳裏に、制服に皺が寄るだとか、そんな瑣末なことは一片も浮かばなかった。
まるで鼓動を確かめるかのごとく、ナマエが宗像の心臓の上に耳を押し当てる。
胸臆から迫り上がる激情を持て余し、宗像はナマエの身体を掻き抱いた。
一ミリの隙間も作らないよう、パズルのピースを合わせるかのごとく抱き寄せれば、宗像の背にナマエの手が回される。
制服に阻まれることが、ひどくもどかしかった。

しがみついてくるナマエに何か言葉をかけたくて、宗像は思考を巡らせる。
しかし、何を言えばいいのか分からなかった。
ナマエの求めているものが謝罪ではないことなど、すでに理解している。
思惟を埋め尽くすのは狂おしいほどの愛しさばかりで、宗像は早々に言葉選びを放棄した。

「ナマエ、」

それならば、残されたのは大切な名を呼ぶことだけで、宗像は感情のままにその音を紡ぐ。
希求と喜悦、矛盾した想いで呼んだ比類なき名前。

「……ごめん、なさい」

返ってきたのは慮外にも悲愴感に満ちた謝辞で、宗像はナマエの旋毛を見下ろす。
数拍の後、宗像はその意味を正しく悟って苦笑した。

「君が謝ることなど何一つありませんよ」

気休めなどではない、本心からの言葉に宗像は笑声を織り交ぜた。
柔らかな猫っ毛を優しく撫でる。

「ナマエ、」

それは懇願だった。
渇望と言ってもよいだろう。
宗像が求めるのは、ただ一つだけだった。
そしてナマエは、それを違うことなく、そして余すことなく受け止めた。

「……おかえり、なさい。……礼司さん」

ナマエが、ゆるりと顔を上げる。
甘く滲んだ瞳に見上げられ、宗像は蕩けるように微笑った。







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- 君を置いては逝かない、と -








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