無窮の約束[1]
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椿門に帰投した宗像は、執務室のドアを開けた途端に突き刺さった殺気と紛うほど鋭く砥がれた気配に条件反射で脚を止めた。
咄嗟に左腰に佩いたサーベルの柄に手を伸ばし、レンズの奥で双眸を細める。
しかし素早く見渡した室内に宗像の意表を突くものは何もなく、そこには当初予想していた通りの光景だけが広がっていた。
一連の、日常的に戦いの中に身を置く者としての反射的な行動は、この場所では不要だ。
宗像は意識してゆっくりと口許に弧を描き、硬い金属の感触から指先を解いた。
だが、気を緩めるにはまだ早い。
宗像にとって眼前に広がる状況は、むしろ不法侵入を果たした賊と対峙する方がよほど気が楽だと思えるほどに切迫していた。
大変なのはここからだと、宗像は音もなく息を吸い込む。
そして、苦笑するように眉根を僅かに寄せた。

「ただいま戻りました。………ナマエ」

呼び方一つが致命傷に繋がると正しく理解している宗像は、敢えて普段この場所では呼ばない名前を唇に乗せる。
それが正解だったのか否か。
鎮座する執務机の上に横向きに腰掛けたナマエは、何も言葉を発することなく凛冽たる睥睨で以て宗像を出迎えた。
その眼睛に浮かぶのは、間違いなく怒りだろう。
宗像は止めていた脚を二歩前まで踏み出し、後ろ手にドアを閉めた。
首を捻ったナマエの鋭利な視線が、宗像を真っ直ぐに貫いている。
まさに、不機嫌を絵に描いたような様子だ。
想像以上に厄介なことになったと、宗像は己の認識の甘さを痛感した。
次の言葉選びを思案する宗像の視線の先で、ナマエの履くブーツの踵がデスクの側面を叩く。
緩慢に繰り返されるその仕草が、まるで不機嫌な猫が尻尾を叩き付ける様に酷似していて、宗像は微かに目元を緩めた。
それが余程お気に召さなかったのか、ナマエの視線がより凄然なものへと遷移する。
宗像は表情を引き締め、意を決してデスクまで脚を運んだ。

「怒っていますか?」

それでも核心に触れることが出来ず、直接的に聞こえて実は最も遠い位置から曖昧な問いを投げる。
突破口を探ろうとした宗像の意図などお見通しなのだろう、顔を背けたナマエの唇は微動だにしなかった。

「すみません。他に手段がありませんでした、というのは言い訳になってしまいますが。私としても、様々な観点から考慮した末の結論だったのですよ」

およそ二時間前、宗像はヴァイスマン偏差をヴァーティカル・オーバーさせ、碧落にダモクレスの剣を現出させた。
緑のクランから仕掛けられた悪趣味かつ緻密なゲームを突破するには、他に方法がなかったのだ。
伏見に発見させたチップ普及範囲の中心地にて、青の力を拡散。
東京都区分全体に散ったチップを無効化し、比水流の目論む改変を一斉に元の秩序へと正した。
被害を未然に防ぐためには、必要な措置だったと言えるだろう。
しかしながら、それはどうやらナマエの逆鱗に触れたらしい。
多少怒られるだろうとは思っていたが、ここまでの憤懣を顕にされるとは想定外だった。

「ナマエ、今回のことは謝ります。こうなる前に対処すべきでした」

事実として、宗像にとってはこれが最速の対応だった。
jungleはどうにも掴み所がなく、容易に尻尾を見せてくれない。
どうしても後手に回ってしまうのだ。
だが今のナマエにそんな正論を説いたところで火に油を注ぐだけだろうし、そもそもナマエとてそれは理解しているはずである。
特務隊情報班の一員として伏見と共に緑を追い続けているのは、何を隠そうナマエ本人だ。
この状況がやむを得なかったということを一番理解しているのもナマエ本人のはずだった。

「……ナマエ、」

恐らく、理性と感情が綯い交ぜになっているのだろう。
茶室の方を見据えたままのナマエは、宗像の言葉に一切の反応を示さない。
何の表情も浮かばない横顔を見つめ、宗像は途方に暮れた。

「ナマエ。今回のことはどうか水に流してもらえませんか?……さあ、そんな所にずっと座っていては身体を痛めますよ。事後処理は粗方片付きましたし、もう部屋に、」
「室長」

一縷の温度もない声で発せられた音に、宗像は息を呑んだ。
まさかここで官職名を呼ばれるとは思ってもみなかった宗像が、レンズの奥で紫紺を見開く。

「……ご機嫌取りなら、いりません」

それは、明確な拒絶だった。
まさに話を逸らそうとしていた宗像は、二の句が継げずに愕然と黙り込む。
黒髪の奥から刺衝せんとばかりに向けられる視線は、無言のままに宗像を糾弾しているかのようだった。
初めて見せられる苛烈な瞋恚に、宗像は無意識のうちに津液を飲み下す。
数秒か、それとも数分か。
二人の視線は無言のままに交わり、やがてナマエの方が先に目を逸らした。
沈黙を扱い兼ね、宗像の胸裏に焦燥が生まれる。
宗像は咄嗟に右手を上げ、ずれてもいない眼鏡のブリッジを押し上げた。

拗ねる、呆れる、その延長で戯れのように怒る。
喜怒哀楽の表現が人よりも極端に微弱なナマエがごく稀に見せる怒りは、宗像の知る限りその程度だった。
何度か、言葉数少なく静かな怒りを滲ませることはあったが、それも片手で数えられる程度の回数で、剰え今のように宗像を拒絶することなど決してあり得なかった。
苦笑し、嘆息し、それでもナマエは必ず宗像に寄り添うことをやめなかったし、宗像がナマエの傍にいることを常に赦していた。
そのナマエが宗像との間に作り上げた障壁に、外側に立たされた宗像は茫然とするしかない。
手を伸ばせば問答無用で弾かれそうで、宗像は指一本動かすことが出来なかった。

暗澹たる寂寞は、宗像の思惟を埋め尽くす。
向けられない視線、与えられない温度。
見限られた、のか。
宗像は凍えた指先を握り締めて戦慄した。
まるで晦冥の海に飛び込んだかのように、視界が暗くなる。
あまりの息苦しさに、宗像は喘ぐような呼気を漏らした。
ナマエという存在は、宗像にとって唯一無二だ。
家族でもなく、恋人でもなく、友人でもない。
世俗的な関係性の名称など当て嵌まらない、自らの半身と呼んでも過言ではない存在だった。
常に傍にあり、いついかなる時も心を共有する。
それはまるで酸素のように当たり前としてそこにあり、同時に、生きていくために必要不可欠なものだった。
それを失うということは、宗像にとって文字通り酸素を失うことと同義である。

ああ、息が苦しい。

宗像は、酩酊する思考の中に浮かんだ言葉を認識し、自らが人間であることを実感した。
いつだって、それを感じさせてくれるのはナマエだった。
ならば、そのナマエを失えば宗像はどうなるのだろうか。
人間でなくなるとすれば、宗像に残るものはあと一つだけだ。
宗像は、先刻頭上に掲げた青藍の剣を思い出し、唇を歪めた。

息が、苦しい。

意識が薄れていく。
前後左右、感覚が遠のいていく。
最後に残ったのは、静謐な剣でもなければ向けられる炯々とした視線でもなく、脳髄に焼き付いた不器用であどけない笑顔だった。











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