ガトーショコラよりも甘く[1]
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その日は朝から最悪の気分だった。

主な原因は、前夜にそれはもう盛大に繰り広げた彼氏との喧嘩だと思う。
付き合って半年。
少しずつ遠慮がなくなり、お互いに相手の悪いところや気が合わないところが見え始めた時期だった。
きっかけはもう思い出せないから、多分些細なことだったのだと思う。
相槌が適当だったとか、言い方が気に入らなかったとか、そんなところだろう。
どちらが先に喧嘩腰になったのかも、最早覚えていない。
とにかく気が付けば口論になっていて、私はもう知らない、なんて捨て台詞を吐いて彼氏の家を飛び出した。
本当なら泊まっていくはずだったのに、生憎甘い一夜は消え去り自宅のベッドで枕とお友達。
電話で友人に愚痴を言うだけ言って、怒り疲れて寝てしまった。
そんな夜が明けてみれば、当然ご機嫌なはずもなく、寝起きから気分は最悪だ。
おまけに化粧をしたまま寝てしまったせいで肌は荒れてカサカサ、朝からシャワーを浴びてその不機嫌な肌と格闘したせいで無駄に時間を食ってしまい、バイトは遅刻ギリギリで店長の嫌味を頂戴するところからスタートした。
残念ながら自分が悪いことは自覚しているので正当な怒りをぶつける先なんてあるはずもなく、心の中で彼氏に八つ当たり。
朝起きて、彼氏からメールや着信が一件もなかったという事実が、余計に私のささくれ立った気分に拍車をかけた。


「本日のケーキセットを二つですね、かしこまりました。お飲物は紅茶とコーヒーからお選び頂けますが、どちらがよろしいですか?」

平日の夕方と土曜日にシフトを入れてもらっているカフェのバイトは、かれこれ三年目。
チェーン店ではなく、店長が個人で経営している小さいながらも評判の良い店だ。
土曜日ということもあって、今日は午前中からそれなりの客足だった。
憂鬱な気分を胸の底に仕舞い隠して笑顔を振りまく。
こんな時、接客業が少しだけ嫌になる。
ちっとも笑える気分ではないのに笑顔を張り付けてニコニコニコニコ、もう一人の自分が馬鹿みたいと嘲笑う。
休憩中にタンマツを確認しても彼氏からの連絡はなく、苛立ちが増すばかりだった。

ランチタイムになり、店内が空いてくる。
この店はサンドイッチのような軽食はなくケーキが専門なので、ランチには向かないのだ。
あと一時間もすればまたお客様が増えるだろう。
それまでに陳列棚の整理をしておこうかと思いながらテーブルを拭いていると、チャリン、とドアベルが鳴った。
反射的に振り返って口にしようとした「いらっしゃいませ」は、しかしそこにあった姿を見て喉に引っかかる。
思わず胸の内でうわあ、と感嘆の声を漏らした。

「い、らっしゃいませ……っ」

馬鹿みたいに上擦った声が中途半端な音になったが、これはもう仕方なかったと思いたい。
そこには、世界的なモデルか何かですかむしろ本当に私と同じ人間ですかと問い質したくなるような美青年が立っていた。
パッと見で、百八十センチオーバーは確実だろう。
それだけでも充分なステータスなのに、さらに腰の位置がびっくりするくらい高いから脚が長い。
スラリとした手足、細身の身体、その上に精巧な人形か何かかと見紛うほど綺麗な小顔が乗っていた。

「お一人様でしょうか?」

なんとか店員としての意識を引き戻し、接客する。
はい、と短く答えた声はまるで弦楽器のように低く艶やかで、くらりと眩暈を起こしそうだった。

「こちらにどうぞ」

店内は他に一組のお客様がいるだけで空いていたので、ゆったりとした造りの二人席に案内する。
すっと音もなく椅子に腰を下ろす所作は、優雅としか言いようがなかった。
水の入ったグラスとおしぼりを用意し、テーブルに置いてあるメニューを指し示しながら本日のケーキが抹茶のシフォンケーキであることを説明する。
何十回と言い慣れたテンプレな台詞を二回噛んだのは、その美青年がメニューではなく私の顔を見ていたからだということにしておきたい。
理知的なリムレスフレームの眼鏡と、そのレンズの奥にはアメジストみたいな綺麗な瞳。
これまでにお目にかかった中で一番美しい男性にそんなものを向けられて平静を保っていられる女がいるならば、ぜひとも秘訣を教えてほしい。

「では、本日のケーキセットを頂けますか。飲み物はホットコーヒーでお願いします」

丁寧な口調の注文を、私は震えそうになる手で必死にオーダー伝票へと書き付けた。
そして一礼し、縺れそうになる足を何とか動かしてその場を離れる。
店長にオーダーを通したところで、ようやく肩の力を抜いた。
こんなに心臓に悪いお客様は初めてだ。
ちらりと背後を振り向けば、その男性はパラパラとメニューを捲ってケーキの写真を眺めていた。
甘いものなどあまり好まないように見えるが、わざわざこんなカフェに来るくらいだからそれなりに好きなのだろう。
少し意外な気がした。
男性客が珍しいというわけではないが、恋人に連れられて来たという様子の人が多く、男性の一人客というのは滅多にいない。
私は他のテーブルを拭きながら、その美青年をチラチラと観察した。
空いている席のテーブルはもう全て拭き終わっているとか、そういうことは気にしない。

年齢は二十代後半だろうか。
間近で見るととても若々しい肌つやだったが、物腰や服装はとても落ち着いている。
学生とは思えないから、社会人なのだろう。
黒のスリムパンツにダークグレーのジャケット、インナーはVネックの白いシャツ。
足元は少しカジュアルな遊びのある革靴。
シンプルだが質の良さそうなものを身に付けている。
中身があれだけ整っていれば、服はシンプルであればあるほど良いのかもしれない。
今日は私服のようだが、普段スーツを着ているのならば確実に似合うだろうと予想出来た。
黒のスーツにネクタイ、それだけで充分様になりそうだ。

「お待たせ致しました、本日のケーキセットでございます」

店長に合図され、ケーキとコーヒーを持って行く。
その男性を前にすると収まりかけていた緊張が再び高まってきて、音を立てないように皿を置くのは困難極まりない作業だった。

「ありがとうございます。ああ、美味しそうですね」

薄めの唇に浮かんだ微笑は、何から何まで計算し尽くされたかのように美しい。
深い藍色をした髪の揺れ方まで完璧で、まるで最高の技術を結集させたCGのようだ。

「ごゆっくりどうぞ」

バクバクと煩い心臓を胸の上から押さえ付けながら、ぺこりと頭を下げる。
青年がコーヒーカップに伸ばした白い手は、爪の先まで艶やかで造り物のように美しかった。

何だかもう、一生分のイケメンを見た気がする。
いや、あの人は「イケてるMEN」などという低俗なカテゴリーに分類してはいけないのだろう。
そんな、どこにでもいるようなありふれた存在ではない。
格好良いだとか、そういう次元ではないのだ。
人間ではなく神ですと言われた方がよほど納得出来る、そんな神聖さがあった。
この世にはこんな人もいるのか、凄まじい発見だ。
この店でバイトをしていて良かった、今日は最悪な気分だからとサボらなくて良かった。
心底そう思う。
ミーハーに写真を撮らせて下さいなどと軽々しく言えるような相手ではないため、目に焼き付けておくしかないのだろう。
私はすでに二回拭き上げたテーブルを、もう一度拭くことにして布巾を手に取った。




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