両腕に抱える幸福[3]
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「……ふとした瞬間に、不安になるんです」

どのくらい、そうしていただろうか。
不意に零されたナマエの言葉に、千景は黙って耳を傾けた。

「これで、合ってるのか。ちゃんと出来ているのか。分からなく、なってしまって……」

ああ、と短く相槌を打つ。

「赤ちゃんは、泣くのが仕事で、それが普通なのも分かってるんですけど。抱っこして、それでも泣いていて、何か、私が駄目なのかなっていう気がしてきてしまって、」

ああ。

「……すみません、何、言ってるのかな。やっぱりちょっと、今日は疲れてるのかもしれませんね」

苦笑して流そうとしたナマエの唇に指先を当て、気にしないで下さい、と言いかけた言葉を遮った。
身体が疲れれば、当然精神も疲弊する。
その上、何もかもが初めてで、決められた正解はなく手探りなのだ。
出口のない迷路に迷い込んだような心地なのだろう。
心細くて当たり前だった。

元々ナマエは、毎日職場で人に会い、会話をし、友人も多かった。
それが今は、毎日家で言葉を話せず理解も出来ない赤ん坊と二人きりだ。
まだ外に連れ出せるような時期でもない。
外の空気、人とのコミュニケーションが圧倒的に不足しているのだろう。
友人とメールのやり取りはしているようだが、これまでのように気軽に会ったり電話をしたりは出来なくなってしまった。
もちろんそれに対し不満があるわけではないのだろうが、脳が勝手に孤独を感じてしまうのは無理のないことだ。

「分かっている。……分かっているから、大丈夫だ」

口にして、何と薄っぺらい言葉だろうかと千景は胸の内で自嘲した。
大丈夫ではないからナマエは不安定になっているというのに、千景にはそう言うことしか出来ない。
分かっていると言ったが、果たして本当に理解していると言えるのか。
恐らくは言えないのだろう。
どれほど分かろうと努めても、悩みや不安は当人にしか味わえない。
余すところなく全てを理解するなど不可能なのだ。

「何も、おかしくはない。何も間違ってはいない。だから、自分を責める必要はない」

だが、寄り添いたいと思った。
例え何も出来ないのだとしても、せめてナマエが落ち込んで俯いた時に、手を差し伸べられる場所にいたかった。

「大きくなっている。元気に育っている。それは当たり前のことではない。お前が毎日頑張ってくれたからだろう。だからもっと、自分を褒めてやれ」

少し、痩せただろうか。
千景は、ナマエの身体を抱きしめて思う。
母乳を与えるために頑張って食事をとっているようだが、その量が消費されていくカロリーに追いつけていないようだった。

こくり、と頷くナマエの背を、千景はゆっくりと撫でた。
労わるように、褒めるように、慈しむ。
この小さな身体から子が産まれ、この小さな身体が子を育てているのだと改めて感じると、どこか不思議な心地だった。

「……千景さん、は?」
「なんだ」
「千景さんは、疲れてないですか?」

この状況で自分のことを心配してくるナマエに、千景は少し呆れる。
だが確かに、昔からナマエはそういう女だった。

「ふん。……俺は、これさえあれば問題ない」

小さく鼻を鳴らしてから、千景はナマエの唇にキスを落とした。
少し、久しぶりかもしれない。
柔らかく触れ合った温もりに、初めて口付けを交わした時のような新鮮な感覚を思い出した。
唇を離して視線を合わせれば、ナマエも同じように感じたのだと悟る。
恐らく、妙に気恥ずかしくなったのだろう。
ナマエが顔を背けようとしたが、千景はそれを許さなかった。

「俺の心配をしていたのだろう?」

目を細めれば、ナマエが視線を彷徨わせる。
胸の内の葛藤が全て見える気がして、千景は笑った。


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