両腕に抱える幸福[1]
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人はそれを、幸福と呼ぶのだ。


玄関の鍵を殊更ゆっくりと回し、音を立てないよう慎重にドアを開けた。
必要最小限の隙間から身体を滑り込ませ、これまた静かにドアと鍵を閉める。
センサーにより自動で明るくなった玄関で耳をそばだて、家の中が静まり返っていることを確認すると、そっと革靴から足を抜いた。
足音を殺して廊下を進み、ゆっくりとリビングのドアを引く。
そこには予想通りの光景があって、千景はふっと息を零した。

リビングの床に敷かれたラグの上で眠る、ナマエの姿。
恐らく寝てしまうつもりはなかったのだろう。
リビングの照明はついたまま、ナマエは上に何も掛けずに眠っていた。
千景はビジネスバッグと共に提げていたビニール袋を床に置き、半開きの引き戸で仕切られた隣の部屋を覗き込む。
ベビーベッドの真ん中で気持ち良さそうに眠る娘の姿をもっとよく見ようと、千景は部屋に足を踏み入れた。
仰向けで眠る赤ん坊の上に掛けられたタオルケットが、呼吸に合わせて上下する。
薄っすらと開いた唇、柔らかそうな頬、顔の横で握り込まれた小さな手。
千景は起こさないよう慎重に娘の頭を撫でてから、リビングに戻った。
いくらラグマットの上とはいえ、床で寝ていれば身体が痛くなるだろう。
せめてソファの上に、と千景が膝をついたところで、気配に気付いたのかナマエが瞼を震わせた。

「目が覚めたか」

ぼんやりと目を開いたナマエを覗き込み、千景が小さく声を掛ける。
しばらく寝ぼけていたらしいナマエは、やがて状況を理解するなり慌てて起き上がった。

「お帰りなさいっ。すみません、私、寝ちゃって、」

あたふたと焦る様子に、千景は小さく喉を鳴らしす。
落ち着け、とばかりにその頭に片手を乗せた。

「構わん。起こすつもりはなかったが……もう起きるか?このままベッドに運んでも構わんが、」
「起きます……っ」

互いに声を潜めながら、こそこそと言葉を交わす。
ナマエがちらりと隣の部屋に目を向けたので、千景は大丈夫だと頭を撫でた。

「よく眠っていた」
「そう、ですか。今何時ですか?」

腕時計に視線を落とし七時すぎだと答えれば、ナマエは困ったように眉を下げる。

「すみません、すぐに夕飯の支度をしますね」

そう言って立ち上がろうとするので、千景はナマエの肩に少し力を掛けてそれを押し留めた。
きょとん、と不思議そうな目を向けられる。

「弁当を買ってきた。いいから、少しゆっくりしていろ」
「え……?」
「今から帰るというメールに返信がなかったので、寝ているのだろうと思ってな」

正解だったな、と千景が口角を上げれば、ナマエは申し訳なさそうに微笑んだ。
ありがとうございますと、礼が小さく落ちる。

「とりあえず、床ではなくソファに座れ。身体を冷やすな」

千景に促され、ナマエは素直に立ち上がるとソファに腰掛けた。
同じように立ち上がった千景がスーツの上着を脱いでソファの背に掛け、片手でネクタイを緩める。
そのままナマエの隣に腰を下ろし、背凭れに背中を預けた。
ナマエはうたた寝してしまったことを恥じているのか、座面に浅く座って俯いたままだ。
千景は小さく嘆息し、片手をナマエの肩に回して引き寄せた。

「千景、さん?」

胸元に落ちてきた頭を撫で、その天辺に唇を落とす。
いつものナマエならば恥ずかしがって逃げようとするはずなのに今はされるがままなところを見る限り、よほど疲れが溜まっているのだろう。
千景はもう一度溜息を吐き出し、少し乱暴に髪を掻き混ぜた。

「あまり無理をしすぎるな。お前が倒れては元も子もないだろう」

え、と見上げてきた瞳に、千景は薄く微笑んだ。




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