捻くれ者の確信的戦略[1]「室長、ミョウジです」
先日東管区で起きたストレインによる傷害事件の報告書を手に、ナマエは宗像の執務室を訪ねた。
連日事件続きでなかなか事務仕事にまで手が回らない中、ようやく仕上がった報告書である。
「どうぞ」
ベータクラスのストレインが関わった事件もいくつかあったため、宗像にもそれなりに影響を及ぼしたはずだが、相変わらずその声には一点の曇りもない。
ナマエは寝不足で疲弊した目を、瞼の上に指を当てて軽くマッサージしてから執務室のドアを開けた。
「ご苦労様です」
宗像から掛けられた言葉の意味を直接受け止めればそれは労いなのだろうが、生憎デスクの上に広がる雑誌のせいで効力は半減だ。
どうせクロスワードパズルだろう。
ナマエは肺の底から空気を吐き出し、宗像のデスクに近付いた。
「……室長、仕事して下さいよ……」
文句を言うことすら億劫で、テンプレートな一言しか出て来ない。
当然そんな言葉が宗像にダメージを与えるはずもなく、綺麗な微笑に受け流された。
しかし今は、宗像の仕事の進捗状況などどうでもいい。
大事なのは、ナマエ自身の仕事をいかに早く終わらせるかということだった。
「二日前に東管区で起きた傷害事件の報告書です。目を通しておいて下さい」
事務的に告げ、わざとクロスワードパズルの載ったページの上に書類を提出する。
宗像はそれを咎めることもなく、分かりました、と頷いた。
必要なことは全て書面に起こしてある。
この事件で現場の指揮を執ったのは宗像なので、今更口頭説明も必要ないだろう。
そう判断したナマエは、余計なことを言われる前にと早口で捲し立てた。
「じゃあ今日はもう上がりますお疲れ様でした失礼します」
徹夜後の、さらに午後八時半である。
このくらいの適当さは許されるはずだ。
ナマエは脳内でそれらしい言い訳を並べ立てながら、おざなりな一礼をして踵を返した。
「ああ、少しいいですかミョウジ君」
が、残念なことに宗像はナマエの心情及び体調を慮ってはくれないらしい。
呼び止められてしまえば無視をすることも出来ず、ナマエは取り繕うことなく不愉快な表情を浮かべ振り返った。
「実は、君の力を貸してほしいのですが、」
少し困ったように微笑まれ、ナマエは追加の仕事かとげんなりした。
「……はあ、何ですか」
もう口調を整える気力も失せ、いい加減な返事をする。
「助かります」
宗像はそう言って、先ほどナマエが置いた書類を取り上げた。
不備はなかったはずだ、と訝しんだナマエの視線の先、疲労と戦いながら必死で作った書類は脇に置かれ、代わりに宗像は雑誌を持ち上げる。
「主に男性が女性に対して行う、壁に手をついて相手を追い詰める行為、とは何でしょうか。四文字で、最後が"ん"です」
ナマエは一瞬、何を言われたのか分からなかった。
そしてやがてそれがクロスワードパズルの問だと理解するや否や、頬を引き攣らせる。
仕事しろって言っただろうが、という上司に向けるには不適切な怒鳴り声が口から飛び出さなかったのは、理性が働いたからなのかそれとも極度の疲労状態にあるからなのか。
「先ほどからずっと考えているのですが、これだけ答えが分からなくて困っているのです」
困っているのはこっちだ。
ナマエは頭の痛みを誤魔化そうと、蟀谷に曲げた指の関節を押し当てた。
「………本当に……もう……なんでそう………ああ、もういいです。ほんと、もういいです……」
怒りなのか呆れなのか、最早ナマエ自身も判別がつかない。
ぶつぶつと漏れた独り言を、宗像は聞き取れなかったことにしたらしい。
にこりと綺麗な笑みに答えを促され、ナマエは舌打ちを繰り返す伏見の気持ちが分かった気がした。
「……かべどん、です。壁ドン」
大体、そんな出題がされる時点で、宗像にしては随分と低俗な雑誌のチョイスなのではないだろうか。
高尚なクロスワードパズルというものが存在するのかどうかナマエには分からないが、少なくともこんな下らない雑誌のパズルを仕事中に解かれていたのかと思うと心底腹立たしい。
「かべどん、ですか?」
明らかに正しく変換しきれなかった抑揚で繰り返され、ナマエは溜息を吐いた。
「男の人が女の人を壁際に追い込んで、その壁に手をつくんですよ。壁にドンと手をつく、で壁ドンです」
馬鹿馬鹿しい。
こんなことを宗像に説明しているという、この状況が。
「……なるほど、それで壁ドンですか。所謂、若者言葉というものなのでしょうか、難しいですね」
報告書を提出した時よりも真剣な表情で考え込まれ、ナマエは苛立ち紛れの適当な相槌を打った。
宗像もまだ若者の括りに入れて然るべき年齢のはずだが、相変わらずの浮世離れだ。
確かに、宗像が壁ドンという単語を知っていた方が違和感を覚えるかもしれない。
「その壁ドンとは、どのような状況において必要とされるのでしょうか」
本格的な考察に入ってしまった宗像を、ナマエは放置して出て行きたい衝動に駆られたが、部下としての根性で何とか思い留まる。
「……要は、恋愛のスパイスですよ。例えば、友達以上恋人未満な男女がいるとします。女の方は、口では嫌がりつつも、内心ではその男を悪くないと思っている。そこで、男が壁際にその女を追い込み強引に口説く。雄の激しいアピールに、雌は弱い。そういう仕組みです」
果たして、ここまで懇切丁寧に説明する必要があったのだろうか。
喋り終えてから、ナマエは後悔した。
恐らく、疲労で思考能力が低下しているのだろう。
「なるほど。それはなかなか興味深いですね。つまりその壁ドンとは、女性が男性に対しある一定の好意を抱いていなければ成立しない、ということでしょうか」
「……さあ。まあ、人それぞれかと思いますけど、傾向としてはそうなんじゃないですか」
話全体としては馬鹿馬鹿しいほどこの場に不釣り合いだが、宗像の解釈自体は的を射ていると言えるだろう。
ナマエは世の一般女性の意見など知らないが、恐らくそういうものだろうとは思えた。
「解決しましたか。じゃあもういいですよね失礼しま、」
「ミョウジ君」
今度はまさかの途中で遮断だ。
いよいよ機嫌を損ねたナマエに向かって、宗像は晴れやかな笑みと共にこう提案した。
「物事を真に理解するには実践あるのみです。試してみましょう」
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