降り積む想いの果てに[1]風間千景は、幼い頃から気配というものに敏感だった。
鬼は総じて感覚が優れているものだが、その中でも千景のそれは群を抜いていた。
生まれもってのものでもあり、その能力ゆえに幼少期から幾度も襲われた経験により培われた能力でもある。
その鋭い感覚を以て、千景は近付いてくる気配を早々に捉えた。
数は一、女鬼だ。
距離が詰まるにつれ、段々とその気配の特徴が掴めてくる。
それが自らにとって悪くない相手であることを悟り、千景は小さく口角を上げた。
板張りの廊下が、微かな足音を伝えてくる。
そろそろか、と振り返ることなく背後の状況を把握したところで、静かな声が降ってきた。
「御当主様」
落ち着き払った、静かな声。
千景は仰々しく溜息を吐き出し、肩越しに振り向いた。
「その呼び方はやめろと言ったはずだが」
淡い色の着物に身を包んだ姿を睨み上げれば、浮かぶ苦笑。
風間家に仕える名家の一つ、ミョウジ家の長女は千景の昔馴染みだ。
「よもや、この俺を呼び捨てた挙句、散々小童扱いしたことを忘れたわけではあるまい」
ミョウジナマエは千景の睥睨を笑みで受け流し、ふふ、と空気を揺らす。
「また随分と昔の話をされるのですね、千景様」
訂正された呼び名に、千景はふんと鼻を鳴らした。
もう、千景がナマエに呼び捨てられることはないだろう。
幼い頃、まだ世界が今よりも狭かった頃の、懐かしい記憶だ。
「……昔を、思い出していた」
「昔、ですか」
雨のせいだ、と千景は呟く。
朝から里全体を覆うように降り続ける雨は、夕刻になってもやむ兆しを見せなかった。
「この時期は雨が多いですからね」
庭の景色に視線をやったまま黙り込んだ千景の背後に、ナマエは音を立てることなく腰を下ろす。
庭先の緑が雨に霞んでいた。
「雨の日に……森ではぐれたことがあったな」
「ああ、懐かしいですね」
視線を前方に固定したまま、千景が微かに口元を緩める。
千景の言う雨の日と同じ記憶を見つけ出し、ナマエも目を細めた。
鬼という存在、風間という家柄、周囲から向けられる視線。
全てを悟った上で、それでもまだ童心を持っていた頃。
ナマエは、千景が風間家の次期当主としてではなく、風間千景個人として振る舞える唯一の相手だった。
生まれ落ちた時から、千景は知っていた。
己の中に宿る、強大な力。
それ故に何度も命を狙われ、千景はその度に孤高へと近付いた。
孤独だった。
それが、風間家の嫡男として正しい生き方だった。
例外は、たったの一つだ。
「散歩に行ったら途中で雨が降ってきてしまって、急いで屋敷に戻ろうとするあまりにお互いを見失ってしまって、」
背後で柔らかく語られる、懐かしい思い出。
「はぐれてしまった千景様を、私は必死で探したんですよ」
「はぐれたのはお前だ」
言葉の選択には気を付けろ、と千景が唸れば、ナマエがくすりと喉を鳴らす。
風間千景を相手にそんなことが出来るのは、今も昔もナマエだけだ。
「ええ、そうでしたね。そうして二人、ずぶ濡れになって帰ったんですよね」
「……確か、お前は風邪を引いたな」
「はい、そうでした。千景様が、わざわざ様子を見に来て下さって。早く良くならないと斬り捨てる、と。物騒なお見舞いでしたね」
何の話だ、と千景が空惚ければ、ナマエは鈴を転がしたように笑った。
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