笑ってよ、俺のために[1]お前のことが好きだと告げたあの日、返ってくる答えは予め分かっていた。
困らせたかったわけではない。
もちろん同情でもない。
振り向いてはもらえないと知っていて、それでも伝えた。
それは、知っておいてほしかったからだ。
ここに、お前を想う男が一人でもいるのだと。
「土方さん、もう帰れますか?」
明るく、甘やかな声。
雪村はそう言って、土方さんのデスクに近付いた。
「いや……悪い。まだ掛かりそうだ」
「そう、なんですか……」
土方さんが相変わらず眉間に皺を寄せたまま答えれば、雪村が分かりやすく落ち込んだ様子を見せる。
「今日は先に上がれ、雪村」
「でも……」
バッグを両手で持って俯く雪村に、土方さんは苦笑する。
事情を知らない人からすればそれは、女の部下の扱いに困った男の上司、に見えるのかもしれない。
「部長、大丈夫ですよ」
そこに、第三者の声が静かに割り込んだ。
土方さんが振り向いた視線の先には、ナマエの姿。
「会議資料は纏めておきます。なので、今日はもうお帰りになって下さい」
「いや、だが、」
「すぐ終わりますから、大丈夫です」
そう言って微笑むナマエに、土方さんは躊躇するような素振りを見せた。
申し出はありがたいが、部下に仕事を押し付けて帰るわけにはいかないと、そんなことを考えているのだろう。
「行きましょう、土方さん」
だが結局、雪村に促され土方さんは椅子から立ち上がった。
気恥ずかしそうな、居心地悪そうな顔をして、わざとらしく咳払い。
「悪いな。じゃあ、後は任せるぞ」
「はい、お疲れ様でした」
土方さんから手渡された書類を受け取ったナマエはにこりと笑い、そのまま雪村にも会釈する。
土方さんと雪村、二人は俺にも軽い挨拶を残し、揃ってオフィスを出て行った。
「………お人好しすぎるだろ」
残ったのは俺とナマエの二人だけ。
思わず零れた言葉に、ナマエが小さく笑った。
「何のことですか、原田さん」
まるで何事もなかったかのような顔で、ナマエは書類を捲り始める。
だが、ナマエは知っている。
雪村、と呼んだ土方さんが、会社を出ればその呼び方を千鶴に変えることを。
土方さん、と呼んだ雪村が、本当は歳三さんと呼んでいることを。
「……いいや、何でもねえよ」
後ろ頭を掻き混ぜながら溜息を吐けば、僅かに顔を上げたナマエが微かに苦笑した。
その笑みが酷く寂しげに見えて、俺は思わず目を逸らす。
ナマエは何を言うこともなく、再び紙面に視線を落とした。
好きだと自覚したのは、いつのことだっただろう。
いい女だと、そう思った。
決して、派手な美しさや眩しさはない。
どちらかと言えば控えめで目立たず、物静かなタイプだ。
だが、仕事に対する責任感や一本筋の通った考え方は男から見ても格好良く、誰に気付かれずとも周囲をフォローする心配りには好感が持てた。
最初は何となく気になる存在だったはずが、その姿を目で追い続けるうちに、それは好意へとすり替わった。
日陰でそっと咲く小さな花のようなナマエを、何よりも大切に想うようになった。
だがナマエは、俺に手折られてはくれなかった。
ナマエの想い人が土方さんだと知った時は、大層悔しかった。
しかし同時に、納得もしていた。
土方さんには敵わないと、そう感じた。
だから、俺の中で芽生えた恋心はそこで終わるはずだったのに。
ナマエが何のアクションも起こさないうちに、土方さんは雪村に告白され、そのまま付き合ってしまった。
もちろん、誰が悪いわけでもない。
付き合う付き合わないは土方さんの自由だし、雪村の行動だって何も間違っていない。
ただ、強いて言うならば、運が悪かったということになるのだろうか。
お似合い、ですよね。
それを知った時のナマエの微笑に胸を締め付けられたのは、俺だけの秘密だ。
ナマエが、それでもなお土方さんを想っていると知った上で、好きだと告げた。
毎日、寂しそうに笑うから。
何もかも諦めたかのように、切なげに目を伏せて、それでも口元の笑みを絶やさないから。
叶わないと知っていても、伝えたかった。
予想通り、ナマエが俺の想いに応えてくれることはなかった。
それでよかった。
報われたかったわけではない。
ただ、少しでも、想われることの幸せを感じてほしかったから。
だが、ナマエはそれからも、ずっと寂しそうに笑う。
俺なんかじゃ到底、土方さんの代わりになどなれないのだろう。
ナマエの心にぽっかりと空いた穴を埋めることも叶わないまま、日々は虚しく過ぎていった。
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