[9]雨の中に散る青冷たい、ナイフのような雨だ。
太陽の姿を飲み込んで広がる、濃い灰色の雲。
夜になって気温がさらに下がれば恐らく、雨は雪に変わるだろう。
そう思わせるほど、降り注ぐ雨は冷たく鋭かった。
制服の青色が、その濃さを増す。
水分を多量に含んだ生地は重く、ぬかるんだ地面に飲み込まれてしまいそうな錯覚さえ感じられた。
重い灰色の、不明瞭な視界。
低い空を見上げて佇む男の視線の先に、一本の剣が浮かんでいた。
刀身はひび割れ、装飾は剥がれ落ち、今にも瓦解してしまいそうな脆い剣。
その弱々しい光とは裏腹に存分な脅威を孕んだそれを、見上げる。
時間はもう、残されていなかった。
「…………あんたって、雨男なんですね」
冷えた唇から漏れた声は、雨に混じって空気を揺らす。
最期、という感慨は確かにあった。
その上で選んだ言葉としては、不相応だという自覚もあった。
だが、かといって適した言葉など見つかるはずもなく、そして沈黙に耐えきることも出来なかった。
「おや、そうでしょうか」
対して、少し離れた位置に立つ宗像の口調は常と変わらず穏やかだった。
その声質には寸分の狂いもなく、見つめてくる視線も真っ直ぐだ。
「……無色を追ったスタジアムでも、御柱タワーの襲撃事件でも、雨でしたよ」
全てを俯瞰し、絶対的な存在感で周囲を圧倒した。
世界をまるで盤面のように見下ろし、自らの意のままにゲームメイクした。
そんな宗像でも、天候を操ることは出来なかったのか。
それとも、この雨さえ宗像の意図したものなのか。
「ふふ。伏見君はよく覚えていますね」
レンズの奥、全てを見てきた宗像の目が細まる。
そこに、感情という人間らしさは見つけられなかった。
頭上から、不快な音が降ってくる。
金属が軋むような、威圧的で本能に危機感を呼び起こす音だ。
水滴のついたレンズ越しに見上げた剣が、先程よりも少し低い空に漂っているように思えた。
「…………伏見、……抜刀」
左腰で、サーベルのロックが外れる。
いつの日か、目の前の男に差し出された一振りの剣だ。
そういえばあの日も雨だったと思い出す。
もしかすると、雨男は自分の方なのかもしれない。
そんな場違いなことを考えながら、引き抜いたサーベルを身体の正面に構えた。
磨き上げられた刀身が、鈍く輝く。
身の内の青がざわりと、その性質に相応しくない騒ぎ方をした。
不意に、サーベルの柄を握る己の手が震えていることに気付く。
この男と相対して身体が震えたのは初めてだった。
ぐ、と唇を噛み締める。
目敏い宗像は、それを見逃さなかった。
「……大丈夫ですよ」
ぞっとするほど優しい声で、宗像は言う。
何度か聞いたことのある科白だった。
だが、いつだってその言葉に安心したことはなかった。
その言葉に救いを求めたこともなかった。
だが今はそれを信じたいと、そんな馬鹿馬鹿しいことを思った。
「大丈夫。全て私の計算通りです」
この男にしては珍しい、安すぎる挑発だった。
喉の奥が、一度震える。
は、と吐き出した息は、あの雪の日と同様に白かった。
「………貧乏くじを引かせてしまって、すみません」
その計算は、いつから始まっていたのだろう。
初めて視線が交わった日だろうか。
初めてジグソーパズルを間に挟んで対峙した日だろうか。
それとも。
「……謝る気があるんなら、その顔やめてもらえますか」
穏やかに笑う宗像に、舌打ちさえ零せなかった。
知らず、サーベルを握る手に力がこもる。
「ふむ。では、どのような顔をすれば満足してもらえるのでしょう」
相変わらずの、嫌がらせのように真っ直ぐな問いかけ。
心底嫌いな視線。
今度こそ、舌打ちが漏れた。
「……なんでもないですよ」
仮に申し訳なさそうな顔をされたとしても、苦しそうな顔をされたとしても、泣きそうな顔をされたとしても。
満足など、するはずがなかった。
「ふふ。相変わらず君は優しいですね、伏見君」
ああ、本当に嫌な男だ。
だから嫌いなんだ。
思わず胸の内で罵れば、宗像はそれを見透かしたかのように微笑んだ。
「……さあ、お喋りはお終いにしましょうか」
瓦解の音が、近くなる。
サーベルの向こうで、男が両手を広げた。
その仕草は王の名に相応しく優雅で、同時に諦念に満ちていた。
おいで、と言っているように見えた。
そして、来て下さい、と希っているようにも見えた。
ぐっとサーベルを握り直したその時。
感覚でずっと捉えていた頭上の青が、瞬くように消えた。
咄嗟に上げた視線の先、剣の柄に嵌った青い光が静かに色を失くす。
そして、剣は重力に従うようにその高度を下げた。
息を飲んだのは、どちらだったのか。
次の瞬間、脚がぬかるんだ地面を強く蹴っていた。
それは、反射だった。
何もかもを置き去りに、身体だけが前へと突き進む。
そして、両手で構えたサーベルの切っ先は、王の心臓を貫いた。
宗像が最期に見せたのは、目を伏せ、口許に微かな笑みを浮かべた表情だった。
大量の血が飛び散り、雨に混じって地面を赤く染める。
踏み込んだ姿勢のまま動きを止めれば、肩に負荷が掛かった。
その正体を、頭の片隅で理解する。
「………どうか、………幸せに………」
雨音に紛れるように、鼓膜を揺らした声。
かつて聞いたことのない、悲痛な音。
最後に添えられた名前に、伏見は黙って目を閉じた。
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