[10]錯綜する記憶
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菱ヶ谷にある製薬会社は、事前に地図で確認していた通り、広大な敷地面積を有していた。
闇夜に乗じ、伏見とナマエはその敷地内に足を踏み入れる。
正攻法で捜査令状を取り付けることも出来たが、ストレインが関与しているのであれば、真正面からの突入は何の意味も為さない。
そして、正面突破ならばそれは淡島の役目だ。

すでに宗像から、抜刀許可は得ている。
有事の際は実力行使も可とのお墨付きに、伏見としても異論はない。
敷地内に忍び込み、慎重に辺りを窺いながら歩を進めた。

「異能の気配はないな」
「……そう、ですね。建物の中、入ってみましょうか」

非常灯すらなく、不気味なほど静まり返った建物。
隊服に忍ばせた暗器を感覚で確かめながら、廊下を進む。

異変は突然、そして、想定外だった。

「……………や、だ………っ」

だから一瞬、伏見はその声の出処すら捉えきれなかった。
は、と我に返り、向けた視線の先。
それまで慎重に、だが特に気負った様子も怯えた様子もなく伏見の隣を歩いていたナマエが、凍り付いたように立ち止まっていた。

「おい、どうした」

何を見た、何を感じた。
そう問いかけた伏見の声に、ナマエは答えない。
訝しんだ伏見は、ナマエの顔を間近に確認して驚いた。
その顔が、恐怖に歪んでいたのだ。

「…や、いやだ………っ、ここ、いや……!」

暗闇の中でも認識出来るほど、ナマエの身体が震え出す。
両腕で自分の身体を抱き締めるように崩れ落ちたナマエを見て、伏見は焦った。
周囲に視線を走らせるが、先ほどまでと何も変化はない。
ストレインの能力かと考えてみるが、伏見自身の身体にも異変はない。

「……やだ、やだあ……っ、……やだ、ごめんなさ……っ、いたいの、いやあああ!!」

普段、何があっても取り乱さないどころか、ほとんど表情すら変えないナマエが、何かに怯えて悲鳴を上げる。
幻覚か、幻聴か。
ストレインの能力により、五感に何かを強制的に与えられているのか。
しかし伏見に異変がない以上、確かめる術がない。

「おい!ミョウジ!」

伏見はナマエの前に膝をつき、その肩を揺さぶろうと手を伸ばした。
しかしナマエはその手にまで怯え、震える身体で後退ろうとする。

「やだ、やめて……っ、いた、いたいっ、……や、やだ……っ、たすけ、……れー、し……さ……っ」

嫌だ、痛い、やめて。
途切れ途切れな悲鳴の中に、不意に混ざった名前。

「……れいし?……室長か?」

そこからの、伏見の行動は素早かった。
立ち上がり、一瞬でナマエの背後に回ると手刀をその首に振り下ろして気絶させる。
倒れ込んだ身体を担ぎ上げ、伏見はその場から駆け出した。
敷地の外に出、さらに距離を取るべく走り続ける。
数百メートルほど遠ざかり、追っ手がないことを確かめてから、伏見は路上に座り込んだ。

「……は、……くそ、」

ナマエは、軽かった。
細身の伏見でも難なく担ぐことが出来るほど軽かった。
しかし、いくら軽いとはいえども人一人抱えて全力疾走は体力を激しく消耗する。
伏見は荒い息を何度も吐き出しながら、汗に濡れた上着を脱ぎ捨て、その上にナマエを寝かせた。
タンマツを取り出し、特務隊の執務室に電話をかける。
対応したのは、夜勤の秋山だった。

「秋山。いまから場所を送るから、大至急車回せ。あと、室長叩き起こせ。……あ?いいから起こせ、ミョウジが倒れた。……ああ、急げよ」

用件を早口で伝え、通話を切る。
そのままタンマツを操作し、GPS情報を添えて現在地を秋山のタンマツに送り付けた。

「……くそ、何だったんだ」

何の違和感もなかった。
赤の時代も含めると、伏見はかなり長い期間クランズマンをやっている。
ストレインと関わることも多かった。
彼らは何か、感覚に訴えかけてくるものがあるのだ。
第六感とでもいうのだろうか。
来る、と感じることが出来る。
だが今回、伏見は何も感じ取ることが出来なかった。
異能の発現には、何かしら視覚的兆候が出ることも多いが、それもなかった。
本当に突然、ナマエは我を失った。

いやだ、痛い、やめて。

叫ばれた内容から推測するに、何かしらの幻覚を強制的に見させられたのだろうか。
しかし、なぜか伏見にはその力がかからなかった。
ナマエだけが狙われたのか、それとも伏見に何らかの耐性があったのか。
考えたところで分からない。
とりあえずナマエが目覚めるのを待つしかないか、と伏見が横たわるナマエに視線を落としたところで、伏見の感覚が急速に近付いてくる青を捉えた。

「秋山か?……早いな」

まだ、電話を切ってから五分と経っていない。
仕事が早いな、と場違いにも少し感心しかけたところで、伏見は自らの思い違いに気付いた。
この、強烈な青は。
世界の全てを覆い尽くしていまいそうな青は、いちクランズマンのものではない。

「室長……?!」

伏見が思わず立ち上がった瞬間、目の前に青い人影が降ってきた。
青の力を足場として、空を駆けて来たのだろう。
そこに、宗像礼司その人が立っていた。
スラックスとシャツとベストだけで、スカーフも上着も身に付けていない。
剰え、サーベルまで佩いていない。

「ナマエ!」

王様がアスファルトに膝をつき、臣下の様子を窺う様を、伏見は唖然と見下ろす。
いや、飼い主が怪我をした猫の容態を確認する様、というべきか。

「……すいません、気絶させたのは俺です」

決して間違った判断ではなかったと思うのだが、どうにも居心地が悪くなり、伏見は先手を取って形だけの謝罪を向けた。
宗像が顔を上げる。
その目に明らかな焦りが浮かんでいて、この人もこんな顔をするのか、と伏見は場違いにも少し笑いそうになった。

「報告を」

常よりも厳しい声に促され、伏見は嫌々ながらも姿勢を正した。

「件の製薬会社の調査のため、伏見、ミョウジ両名で建物内部に侵入。そこで突如ミョウジが錯乱したため、やむを得ず気絶させ、撤退しました」
「錯乱とは?」
「………俺にも、よく分かりません。突然、いやだ、やめて、痛い、と叫んで」

は、と宗像の息を飲む音が、闇夜に響いた。

「……ストレインの能力かとも思いましたが、その兆しはなく、俺には何の異変もありませんでした」
「………なるほど、分かりました」

伏見の報告に、宗像が頷く。
宗像が再び視線を下げ、横たわるナマエを見つめた。
宗像の旋毛を見下ろすという滅多にない体験をしながら、伏見はもう一つ、と口を開く。
遠くから、車の走行音が近付いて来ていた。

「……名前を、呼んだんです」
「はい?」
「………ミョウジが、あんたの名前を呼んだんですよ。礼司さん、って」

だから、叩き起こせって言ったんです。
そう告げた伏見の前で、宗像は目を閉じた。
地面に膝をつき目を閉じるその格好が、まるで懺悔のように見えて、伏見は視線を逸らす。

「室長!伏見さん!」

沈黙を破ったのは、法定速度を完全に無視した運転で車を乗り付けた秋山の叫び声だった。




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