SIDE:B
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ココアパウダーを、スプーンで二杯。
そこに、砂糖をスプーンで四杯。
少量のお湯で伸ばし、最後に温い牛乳を注ぐ。
どう考えても甘すぎるココアの入ったマグカップを持って、弁財は情報室に戻った。

豪奢な部屋の窓際に置かれたテーブルの前に、いつもその姿はある。
それは、青い猫だ。
背中を丸め、ブーツを履いたまま椅子の上に三角座りをしている。
これが基本姿勢で、余程のことがない限りこの体勢は一日中崩れない。
足が完全に椅子の上に乗っているため、腰に佩いたサーベルだけがぶらりと垂れ下がっている。
猫は両膝の上に肘をつく形で腕を伸ばし、テーブルの上にあるキーボードを叩いていた。
本人にとっては当たり前の動作なのだろうが、端から見ていると理解の範疇外なスピードだ。
ついでに、画面に表示される文字列についてもさっぱり意味が分からない。
分からないが、何か意味のある作業なのだということだけは分かっている。

打鍵の音だけが響く室内で、弁財はマグカップを手にナマエへと近付いた。
腰辺りまである長い髪が、窓から差し込む光に照らされている。

「ミョウジ」

斜め後ろから声を掛けると、一拍置いてナマエが視線だけを弁財へと移した。
黒目がちな瞳が、何、と問う。
弁財は最後の一歩を詰めて椅子に腰掛けるナマエの隣に立ち、テーブルにマグカップを置いた。
二台のPCと積み上げられた書類の隙間を縫って置かれたそれに、ナマエの視線が注がれる。
ナマエはしばらく黙り込んだあと、ゆっくりとマグカップに手を伸ばした。

ナマエの制服は、弁財が着用しているものとは意匠が異なる。
かといって、同性である淡島のものとも同じではない。
ナマエの制服がスカートではなくタイトなスラックスなのは、本人の座り方を考えれば当然のことだろう。
また、本来は折るべき上着の袖を伸ばしたまま着用しているため、少し長めになっている。
袖口に隠した掌と細い指とが、マグカップを包み込む。
そのまま両手で持ち上げ、ナマエはマグカップを顔の側に近付けると、すん、と匂いを嗅いだ。
湯気など立たないココアの匂いを確かめたナマエが、恐る恐るといった様子でマグカップに唇をつける。
やがて弁財の視線の先、細いベルトのようなチョーカーの上で喉が微かな動きを見せた。
ナマエの横顔が僅かに緩む瞬間を、弁財は不思議な気持ちで見守る。

「…………ありがと、ございます」

これまた長い沈黙の後に零された小さな音に、弁財は今度こそふっと笑った。



きっかけは、ナマエが秋山の淹れるコーヒーを拒否したことだった。

特務隊発足の翌日。
不意に秋山が、軽い息抜きと称して情報室にいる全員にコーヒーを淹れたことがあった。
普通そういうことは年齢の若い者が率先して行うものだが、セプター4、特に特務隊においては年功序列という概念が存在しない。
ついでに言っておくならば、男女の性差も関係ない。
セプター4は完全なる実力主義だ。
元々世話焼きな気質の秋山がコーヒーを淹れたとて、弁財にとっては不思議でも何でもなかった。

すまないな、ありがとうございます、頂きます、助かるよ。
個々に多少の差はあれど、弁財ら特務隊の面々はコーヒーの入ったマグカップを受け取って秋山に感謝し、それをありがたく口にした。
例外は、たったの一人だけだった。

「…………いらない、です」

秋山が差し出したマグカップに一瞥を投げた後、ミョウジナマエはそう呟いてすぐさま視線をPCに戻した。
それは小さな声だったが、なぜか部屋全体に充満し、室温を数度下げた。

「……あ、っと、じゃあ、置いておきますね」

気が向いたら飲んで下さい、と。
素気無く淹れたコーヒーを拒否された秋山が、マグカップをナマエの前のテーブルに置く。
それに対してナマエからの返事はなく、そしてその日、マグカップに口が付けられることは終ぞなかった。

その日から、秋山の挑戦が始まった。

翌日は、初めブラックだったコーヒーにミルクが入った。
その翌日は、ミルクの他に砂糖も入った。
そのまた翌日は、コーヒーではなく紅茶になった。
そのまた翌日は紅茶にミルクが入り、そのまた翌日には砂糖も足された。
しかしナマエは、決してそれらに手を付けようとはしなかった。
時間の経過と共に冷め切ったコーヒーやら紅茶やらは、夜になると淹れた本人の手によって流しに捨てられた。
弁財がここまで詳しく内容を知っているのは、同室である秋山の相談を受けていたからだ。
どうすれば、飲んでもらえるだろうか、と。
秋山は試行錯誤を繰り返したが、淹れたコーヒーや紅茶をナマエが飲むことはなかった。

半ば諦めの境地に至った秋山に代わり、次に給湯室に立ったのは弁財だった。

なぜ、と聞かれると答えは難しい。
恐らく弁財は、自身の妹とナマエを重ね合わせたのだ。
弁財を含む特務隊の面々はまだ、ミョウジナマエという少女のことを何も理解していなかった。
生い立ちも経歴も、性格も趣味嗜好も。
ただ、掴み所のない少女だと感じていた。
弁財自身も、妹とナマエとの間に共通項など見出せず、恐らくは全く異なる性質の人種なのだろうという予感もあった。
だが確かに、年下の女の子という点だけで以って、心のどこかで二人を重ねたのだ。

その日弁財は、妹が幼い頃に良く飲んでいたココアを淹れてナマエのテーブルに置いた。
湯気の立つマグカップに、ちらりとナマエの視線が移る。
しかし手を伸ばそうとはしなかった。
やはり駄目か、と弁財は嘆息する。
どうやらこの少女は人が用意した飲み物を飲む、ということを良しとしないらしい。
そう判断し踵を返しかけたところで、弁財は動きを止めた。
ナマエがキーボードから手を離し、その手をマグカップに伸ばしたのだ。
長い袖で覆うようにマグカップを両手で掴み、口元へと引き寄せる。
その動作を、弁財は呆気に取られたような心境で見守った。
しかし結論から言えば、ナマエがココアを飲むことはなかった。
ナマエはマグカップを見下ろしてすん、と匂いを嗅ぎ、唇をつけることなくマグカップをテーブルに戻した。
あまりにも露骨な駄目出しである。
しかし、全く手にも取られなかったコーヒーや紅茶よりはましだったということではないか。

どうやらココアに興味を持ってもらえたらしい、と気付いた弁財は、翌日から少しずつ配合を調整し始めた。
牛乳の量を増やしてみたり、ココアパウダーの量を減らしてみたりと工夫した。
しかし毎回ナマエは匂いを確認するところまではいくものの、飲むには至らない。
そこで弁財は、思い切って砂糖の量を増やし、かなり甘いココアを用意してみた。

「どうぞ」

いつもと同様に、一言だけ声を掛けてマグカップを置く。
これまたいつも通り、ナマエはマグカップを引き寄せて匂いを嗅いだ。
しかしやはりと言えばやはり、ナマエがそれを飲むことはなかった。
今回も違ったらしい、と弁財は肩を落とす。
そのままデスクに戻り、明日はどうしようかと考えを巡らせながら、PCに向き合った。

異変は、その一時間後のことだった。

ふと画面から顔を上げた弁財の視界に、ナマエの姿が映る。
弁財の座る位置からだと、ナマエの横顔が見えていた。
ナマエの打鍵音が不意に止まり、何かを考えるようにして折り曲げた両膝を抱え込む。
そしてその手が、置きっ放しになっていたマグカップへと伸ばされた。
え、と目を瞠った弁財の視線の先、ナマエは口元に引き寄せたマグカップに何度も息を吹きかけると、やがて恐る恐る縁に口をつけ、んく、と一口飲み込んだ。

飲んだ、と。

弁財は半ば呆然と、その姿を見つめる。
人が飲み物をマグカップから飲む動作など意識しなければ当たり前の光景なのだが、それがナマエだと思うと、弁財にとっては信じられない出来事だった。
結局その日一日をかけて、ナマエはマグカップの中身を全て飲み干した。

その翌日、弁財は再びココアを淹れてナマエに差し出した。
前日との違いは一点、温度だ。
かなり温く作った、湯気など立たないココアを見て、ナマエはいつもの通りにその匂いを確かめて。
そしてそれをテーブルに戻すことなく、ゆっくりと飲み込んだ。
マグカップを両手で包み込んだナマエが、ふ、と表情を緩める。
そして隣に立ったままの弁財をちらりと見上げ、居心地悪そうに呟いた。

「………………ありがと、ござい、ます」

ああ、警戒心の強い野良猫を手懐けたみたいだ、と。
弁財は柔らかく笑った。


それ以来、特務隊でナマエのココアを淹れるのはずっと、弁財の役目だ。





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