四月の睦言
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「しつちょー。私、セプター4辞めたいんですけど」

その瞬間、執務室の空気は凍り付いた。


「……………はい?」

薄っすらとした笑みを張り付けたまま宗像が固まり、特務隊の面々があんぐりと口を開けて顎を落とす。
ごん、という音と共に淡島の手にあった餡子の缶が落ちる中、伏見だけが唇の端を歪めて笑った。


原因を端的に述べるならば、疲労だ。


青服、と忌避され時代錯誤なサーベルなんてものを振り回していても、セプター4は所詮お役所仕事。
月末ともなれば、書類仕事が山のように積み重ねられる。
その上、春の暖かさが災いしたのか頭のおかしい輩が増え、虫が涌くかのごとくストレイン犯罪が多発した。
その対応だけでも手一杯だというのに七面倒臭い後始末やら手続きやらが重なり、文字通り不眠不休の状態だった。

三月末日、定時から優に四時間を過ぎてもなお終わらない仕事に、ナマエは発狂寸前だった。
最後にいつ眠ったのかも、最後にいつ食事を摂ったのかも思い出せない。
目の前には未処理の書類の山がいくつも積み重なり、今にも雪崩を起こしそうな有様。
もう嫌だ、と悲鳴を上げたところで、少し離れたテーブルで同じく残業をしていた伏見が舌を鳴らした。
それでも、あまりの惨状を見兼ねた伏見がしょうがねえから手伝ってやるよと、ナマエの書類の山を半分掻き寄せた。
神様仏様伏見様、と半泣きで縋ったナマエに再び舌打ちを見舞いながら、後でペナルティは課すからな、と伏見は猛然と書類を捌く。
二人きりの薄暗い執務室に響く、打鍵音と紙を捲る音と舌打ちと泣き言。
結局、テーブルの上の山が平地に戻ったのは、日付を跨いでから六時間後のことだった。

ぐったりとそれぞれの椅子に背中を預け、忌々しいと朝日から目を背ける。
手伝ってもらったことへの感謝を述べつつ、ペナルティは何か、と訊ねたナマエに対し、伏見は僅かな思案の後にこう答えた。

室長に、仕事辞めたいって言え。今日、エイプリルフールだろ。

そうすれば、少しくらいは超過勤務の見直しでもしてもらえるんじゃねえの、と。
≪青の王≫宗像礼司に対し、エイプリルフールの虚言をかませと命じたのだ。

そう、伏見も疲れていたのだ。
原因は、それに尽きる。

正常な状態であったならば、伏見はそんなことを言わなかっただろうし、ナマエとて承服しなかっただろう。
少し考えれば、いや、考えずとも、判断出来たはずだ。
あの宗像に対しそんなふざけた真似をすれば、どうなるか、など。

宗像礼司という男は、その外見や話し方、そして肩書きから、お堅い人間という印象が強い。
だが実際のところはそうでもない、というのは、特務隊の面々ならばよく知っている事実だ。
仕事を趣味と称し、就業時間中でもジグソーパズルに興じ、飲み会では部下に隠し芸の披露を強制するような、ちょっとおかしな男なのだ。
規律を重んじる秩序の王であることは事実だが、そこには遊びの幅があり、決して全てを雁字搦めに縛り付けることはない。

だから部下がエイプリルフールに便乗して嘘をついたとて、宗像はそれを怒りはしないだろう。
しかし、やんわりと窘める程度で終わらせるような男でもない。
あの王は、面白い余興だと宣い、さらに斜め上を行く勢いで面倒なことをおっ始める。
部下のちょっとした意趣返しやおふざけは、何十倍にもなって跳ね返ってくる。
そう、身を以て知っていたはずなのに。

二人とも、数日間に渡る徹夜のせいで心身ともに疲れ果て、限界を超えていたのだ。

だから、やってしまった。

その後、始業時間前に特務隊の面々が顔を出し、月初だからと宗像、淡島までもが揃った執務室で。
ナマエは椅子の背凭れに寄り掛かったまま気怠げに、冒頭の台詞を吐き出した。


ひっ、と悲鳴を上げたのか飲み込んだのか判別しきれないような声を上げたのは誰だったか。
宗像に視線を向けることなく椅子に沈み込むナマエは見ていなかったが、それ以外は皆、宗像の薄っすらとした笑みが能面のように消え失せる瞬間を目撃した。
特務隊の面々の、心の声は一つだった。

あ、詰んだわこれ。

怒鳴るなんてことはしない。
宗像は、そんな短絡的な男ではない。
お綺麗な顔に酷薄な笑みを浮かべ、慇懃無礼に嫌味を並べ立てるか。
それとも、新しい玩具を手に入れた子供のように全員を巻き込んで面倒な遊びを提案するのか。
身構えた面々の前で、しかし予想は百八十度正反対に裏切られた。

「……………どういう、ことですか……」

その場にいた誰もが一瞬、誰が言葉を発したのか理解し損なった。
宗像の唇が動いたのは確かなのに、そこから漏れた声だと頭が認識しない。
それほどまでに、呆然とした、頼りなさげな声だった。
いつもの、弦楽器を鳴らしたような低く落ち着いた声はどこにいったのか。
掠れ、震えた声は次の瞬間、さらに宗像らしくないものへと変わった。

「……君はもう、私の傍には居てくれないと……っ、そういうことですか………!」

悲痛、の二文字がぴたりと当て嵌まる。
薄いレンズの奥に泣き出しそうな双眸を認め、特務隊の面々はもう一度馬鹿みたいに口を開けた。
今度は伏見でさえ目を見開いて宗像を凝視している。
誰だ、これ、と。
全員が心の中で絶叫した。

ナマエがゆるりと気怠げに、宗像へと視線を移す。
宗像は紫紺を潤ませ、全く威力のない睥睨で以てナマエを見据えた。
その段階になってようやく、ナマエの疲弊した脳でさえ違和感を認識した。

「…………しつちょ?」

なに、泣いてるんですか。
ここ数日、迫り来る度に気力で押し退けていた睡魔に何とか抗いながら、ナマエが首を傾げる。

「泣いてなど、いませんっ」

幼い子供のように首を振って否定され、はあ、と曖昧な言葉を返す。
その間にも宗像はナマエとの距離を詰め、ナマエが座る椅子の前に跪いた。
隊員たちはもう絶句だ。

「何が不満ですか?私が仕事をしないことですか。パズルばかりしているからですか。それとも昨日のお茶が苦かったですか。それとも、」

切羽詰まった調子で吐き出される言葉に、ああ、自覚あったんだ、と誰かが呟く。
しかし宗像の耳には入らないらしく、宗像はなおもあれやこれやと挙げてはナマエの顔色を窺っている。
ちなみに顔色は、疲労と寝不足と空腹とで、最悪の血色だ。

「仕事内容に不満があるのでしたら言って下さい。私の権限で何とでもします。私自身に不満があるのでしたら、話し合いましょう。君の期待に応えられるよう私は、」
「しつちょ、」

ぶらりと放り出されていたナマエの手を取って切々と訴えかける様は、もはやどこぞの貴族の求婚のようだ。
そんな宗像の言葉を、眠たげな声が遮る。
はい、と律儀に返事をした宗像を見下ろしながら、ナマエはついに限界を迎えた。

「も、寝て、いいですか………」
「…………は?」

次の瞬間、ナマエの身体が大きく傾き、宗像の方へと崩れ落ちた。
その身体を、宗像が咄嗟に両手で抱き留める。

「ナマエ?!」

慌てて顔を覗き込めば、ナマエは眠っていた。


恐ろしいほど気まずい沈黙が、執務室を満たす。
最初に静寂を破ったのは、同じく限界を自覚した伏見だった。

「室長、俺ももう限界なんで仮眠とってきます」

タブレットを小脇に抱えて立ち上がり、ふらつく足取りでドアへと向かう。
そして、廊下に出る直前で部屋を振り返り、未だナマエを抱き締めたまま固まっている宗像に向かって小さく舌を鳴らした。

「………四月馬鹿、ですよ」

ぱたり、とドアが閉まる。

宗像がその言葉の意味を理解するまで、十秒と少し。

奇妙な沈黙は、今度は宗像の鼻を啜る音で破られたとか、ナマエの「れいしさん」という寝言で破られたとか、淡島の溜息で破られた等、諸説あった。






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- 仕置きにキスを、何度でも -





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