夜と朝の狭間で[1]それは、静かな湖面に雫が落ちた瞬間に似ていた。
波紋が広がり、小さな波が立つ。
きっかけが何であったのか分からないまま、瞼を持ち上げた。
睫毛の隙間から、霞んだ視界が広がっていく。
常夜灯に薄く照らされた世界で、まず一番に認識出来たのは間近に迫った人肌だった。
今はそうと分からないけれど、知っている。
その肌はまるで女の人のそれのように白く、肌理細かい。
でも触れてみれば、その下には男の人の硬い筋肉や骨が隠されている。
普段はスーツを着ているのに、なぜか家の中では和装を好むらしく、寝るときは大抵仕立ての良い浴衣を着ている。
その合わせが大きく肌蹴、胸元までが曝け出されていた。
掛け布団の中から右手を出し、衣擦れの音を立てないように気を付けつつ伸ばす。
目の前にある浮き出た鎖骨を指先でなぞれば、頬の下にある引き締まった腕が少し動いた気がした。
顎を上げ、顔を見上げる。
そこには穏やかな寝顔があり、目を覚ます様子はなかった。
まるで、彫刻のように整った顔立ちだ。
女としては羨ましくなってしまうほど長い睫毛、真っ直ぐに通った鼻筋、少し薄い唇。
朱を滲ませた瞳は、今は閉じられた瞼の奥。
そのせいか、常よりも少し幼い印象を受けた。
多くの人は、彼の瞳に畏怖の念を覚えるらしい。
それは、朱から血や不吉なものを連想するからなのか。
でも私にとってこの朱は、温もりの朱だ。
まるでこの寒い日に、柔らかく燃える炎のような。
冷えた指先を、とろりと溶かすような。
そんな、朱。
「……お前は俺に穴を開けようというのか」
視線の先、不意に唇が小さく蠢いた。
鼓膜を揺らす、艶のある低音。
それは寝起きのせいか、余計に低く気怠げに聞こえた。
「起きて…たのですか?」
「それほどまでに熱心に見つめられては、気がつくというものだ」
長い睫毛が揺れ、瞼の奥から瞳が覗く。
見慣れた、温かい、朱だ。
その視線が真っ直ぐに向けられるのを感じ、少し気恥ずかしさを覚えた。
「……眠れないのか」
目を覚ましてから時計を見ていないが、恐らくはまだ夜と呼べる時間だろう。
カーテンの向こうに太陽の気配はなかった。
「なぜか、目が覚めてしまって」
今更誤魔化す必要もないと素直に答えれば、そうか、と呟きが返ってくる。
「起こしてしまってすみません」
そう言えば、千景さんは僅かに口角を持ち上げた。
前髪から覗く朱が、少し細くなる。
「構わん。お前に起こされるのは、嫌いではない」
言葉と共に、千景さんの右手が私の髪を撫でた。
嫌いではない。
それが、素直ではない「好き」だと気付いたのはいつのことだったか。
長い指が髪の間に差し込まれ、流れに沿って梳くように動いた。
心地好くて、目の前の温かな身体に擦り寄る。
直接胸元に額をつければ、温もりが伝わってきた。
頭上から降ってくる、静かな呼気。
鼓膜を揺らす、胸の心音。
「………千景、さん?」
それが少し、速い気がして。
「何だ」
浴衣の合わせを掴んでいた手を、皮膚に添えた。
やはり少し、鼓動が速い。
誰にともなくそう呟いた途端、千景さんは大きく息を吐き出した。
「まったく、お前は………」
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