さよなら哀しい恋[2]
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「私昨日、彼と飲みに行ってたんですよ〜」

わずか15分ほどの短い残業を終えてタイムカードを切り休憩室に入ると、ロッカーの向こうから聞こえてきた千鶴ちゃんの声。
私は思わず立ち止まった。

「あ、そうなの?」

先に上がったスタッフ同士で、話をしているのだろう。
誰かが相槌を打つ声がした。

「結構良い雰囲気になって、でも昨日はそのまま帰ったんですけど、」

千鶴ちゃんの高い声が、脳内に反響する。
彼女の言う「彼」が誰のことなのか、私はすぐに思い至ってしまった。

悪い、今日は後輩と飲みに行くから連絡出来ねえかもしれねえ。

昨日、左之さんは私に向かってそう言ったから。

呼吸が苦しくなる。
息を吸っているのに、酸素が足りないような感覚。
首に巻いたスカーフをむしり取るように外した、その指が震えていた。

やがて、少しずつ落ち着いてきた呼吸。
最後にもう一度ゆっくりと息を吸って、固まってしまった足を前に踏み出した。
ロッカーで作られた角を曲がれば、千鶴ちゃんともう一人のスタッフの姿が視界に飛び込んでくる。

「お疲れ様」

条件反射のようにそう声を掛ければ、二人が振り向いた。

「お疲れ様でーす」

二人分の、無邪気な笑顔と挨拶。
でも、千鶴ちゃんの目は笑っていなかった。


その後も、千鶴ちゃんの左之さんに対するアタックは止まらなかった。

今日は彼が休みだから、このあとデートなんです。
昨日家まで送ってもらったんです。

そう、あちこちで言い触らす千鶴ちゃん。
左之さんの名前は出てこない。
けれど確かに、仄めかされていた。


そしてついに。

「休憩頂きました」

深夜のフロントバック。
シフトに入っているのは、私と千鶴ちゃんと土方さん。
チェックインも片付いた午前1時、丁度土方さんが館内の巡回に出ている時だった。
フロントのモニターを時々確認しつつ、裏でデータ入力をしていたら、千鶴ちゃんが休憩から戻って来た。

「おかえりなさい」

振り返れば、千鶴ちゃんが私の方に歩いてきて、デスクに缶コーヒーを置いた。

「これ、好きでしたよね?」
「え……あ、ありがとう」

嫌われていると思っていた。
だからその差し入れはあまりに意外で、間抜けな反応を返してしまう。
それでもありがたく貰おうと缶に手を伸ばした時、立ったままの千鶴ちゃんが私を見下ろして言った。

「私、知ってるんですよ」

抑揚のない、いつもよりも低い声。
何を、と聞く前に。

「ミョウジさんと、原田さんのこと」

ざわり、と胃の下辺りが騒いだ気がした。
何の話、ととぼけることすら出来なかった。
私の返答なんて、きっと求めてはいなかったのだろう。

「でも、そんなこと関係ないですから」

そう言い捨てて、千鶴ちゃんはフロントバックを出て行った。
カウンターを映すモニターに、千鶴ちゃんの姿が見える。

小さくて、可愛らしくて、まだ若くて。
男の人にとってはきっと、守りたくなるような、大切にしたくなるような、そんな女の子。

左之さんは、否定したけれど。
本当はどうだったのだろう。
飲みに行った、デートをした、家まで送ってもらった。
千鶴ちゃんはいつも、嬉しそうに話していた。
もしかしたら二人は本当に、そういう仲になっているのだろうか。

「……浮気、されてるの……?」

信じたい。
そんなことないって、信じていたい。
でも、脳裏を過る左之さんの優しい笑顔が、千鶴ちゃんの冷たい瞳に掻き消される。

いやだ。
邪魔をしないで。

「……左之、さん……っ」

でも、本当は。
邪魔なのは、私の方だとしたら。
いらないのは、私の方だとしたら。


苦しい、と思った時にはもう、手遅れだった。
荒くなる呼吸、取り込みきれない酸素。
デスクの上についた手が、動かなくて。

私はそのまま、椅子から落ちて床に倒れ込んだ。

「おい! ミョウジ!」

最後に聞こえたのは、土方さんの焦ったような叫び声だった。






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