この手を離したならば[1]「てめえは誰のもんか、分かってんだろうなあ?」
情けねえ台詞を吐いた自覚はあった。
いい年こいた大人の男が言うことじゃねえ。
これじゃまるで、ただの生意気なくそ餓鬼だ。
そう、頭では理解していた。
だが、身体は勝手に動いた。
ついでに言葉も脳みそを素通りし、下らねえ台詞となって口から飛び出した。
てめえはいつから、こんな腑抜けた男になったのか。
全部、ナマエのせいだった。
最初は、ただの部下だった。
ちょっとドジで、要領が悪くて、気を揉んだ。
だが心配半分呆れ半分でその姿を目で追っているうちに、仕事に対する真摯な姿勢を知った。
どれだけ時間が掛かろうとも、それがいかに難題であっても。
必ず真正面から取り組み、決して途中で放り出したりしねえ。
そんな、ひたむきな姿に。
気が付けば、心を奪われていた。
監視、確認。
そんな意味を込めていたはずの視線は、いつの間にか恋情にすり替わった。
どんな物を好み、どうやって笑い、誰とどんな会話をするのか。
一から十までが気になった。
随分と長い期間、ただ見ていた。
自信がなかったわけじゃねえ。
てめえで言うのも何だが、別にルックスは悪くねえし金も地位もある。
職場の連中に言わせりゃ性格に難ありだが、それに関しちゃ悪いのは俺じゃねえ。
落とそうと思えば落とせる。
そう確信していたし、そのチャンスもあった。
だがどうしてか、手が出せなかった。
今更、女の口説き方を知らねえわけじゃねえ。
さほど女遊びが激しかったとは思わねえが、まあそれなりに場数を踏んだ。
こう言っちゃなんだが、ナマエはまだ初心だろう。
何とでも出来る。
そう、分かっていたのに。
ずっと、何かが俺を引き止めていた。
頭の片隅で警鐘が鳴るかのように、何か見えない力に背後から引かれるかのように。
俺に、最後の一歩を踏み出させちゃくれなかった。
今となっては、分かっている。
その理由が、何だったのか。
嫌というほど、理解している。
だが、あの時はまだ正しく理解出来ちゃいなかった。
そして今更気付いたとて、もう手遅れだ。
深く、どこまでも深く。
嵌りすぎて、抜け出せなくなるからだ、と。
かつて、ここまで一人の女にのめり込んだことがあっただろうか。
答えは否だ。
遊び人だったつもりはねえ。
ただ、淡白だった。
俗な言葉で言やあ、来る者拒まず去る者追わず。
近付いてきた女とは、あまり深く考えることなく付き合った。
だが、優先順位は限りなく低かった。
俺にとっちゃ、仕事やてめえの時間の方が大事だった。
デートだの記念日だのプレゼントだの。
そんなもんに興味はなかった。
となると当然、その期間に差こそあれ、女はやがて俺に愛想を尽かして去って行く。
それを追いかけたことは、一度もない。
そしてまた、誰か新しい女が寄ってきて、同じ道を辿る。
ずっとその繰り返しだった。
縛られるのが嫌だった。
余計な口出しも、心配も。
俺には必要なかった。
当然俺も、女を束縛するなんざあり得なかった。
それは別に、女を慮ってのことじゃねえ。
ただ、面倒だったからだ。
女が誰とどこで何をしようが、微塵も興味はなかった。
だから、想像したこともなかった。
「お前は俺だけ見てりゃいいんだよ」
こんな、馬鹿みてえな台詞を吐く日が来るなんざ。
こんな、情けねえ台詞を女に向かって言う日が来るなんざ。
てめえでも信じられねえ。
だが、どうしようもねえんだ。
お前の笑った顔も、言葉も、何もかも。
絶対に誰にも渡さねえ。
全部俺のもんにして、閉じ込めて、奪い尽くす。
深い、深い場所で。
それは狂気だと、何かが囁いた。
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