[9]はじまりは一人
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「………え?」

それは、唐突だった。
耳の奥が一瞬だけ詰まったような、そんな感覚。
先ほどまでと変わらない林道を走っているのに、突然空気が変わったような気がした。

「気が付きましたか」

戸惑いながらも千景様の背を追って馬を走らせていると、背後から聞こえた声。
少しだけ振り向けば、暗がりの中で天霧さんが薄く笑っていた。

「何か、違和感を覚えられたでしょう」
「はい。その、上手く言えませんが、空気が変わった気がして」

そう言えば、天霧さんが一つ頷いた。

「鬼の感覚は鋭いですからね。 これは、人間には分からないでしょう」

陽が沈んでから数刻。
辺りは既に真っ暗だった。
夜目がきくのは、鬼の力だ。

「今、鬼の里に入ったのです」
「え、ここがもう、そうなんですか?」

入ったと言われても、良く分からない。
暗闇にぼんやりと浮かぶ景色は、違和感を感じる前後で何も変わっていないように見えた。

「ええ。昼間であれば、最も東の集落が見えてくる頃です」
「そうなんですね」

いくら月が明るいとはいえ、流石にそう遠くまでは見ることが出来ない。
これといった実感のないまま、私はようやく風間の里に足を踏み入れたみたいだった。

だけど結論から言えば、私はその後、風間の里に来たのだということを、実感を通り越して痛感することになった。



「御当主様、奥方様、おかえりなさいませ」

それが、風間の屋敷に足を踏み入れた瞬間に聞こえてきた第一声だった。
平伏さんばかりの勢いで頭を下げた下働きの者たちがずらりと並んだ光景は予想以上の迫力で、思わずたじろぐ。
しかも、まだ祝言を挙げていないのに、すでに呼び方が奥方様になっている。
千景様が私を里に迎え入れることについて事前に文で説明しているからなのだろうが、不意打ちを食らった心地だった。

千景様は当然、この光景を見慣れているのだろう。
特に何を気にした素振りもなく、颯爽と歩いて行く。
流石にその隣を歩くことなど出来るはずもなく、ほとんど無意識のうちに三歩下がって付いて行った。
皆が皆頭を下げているので、ついつられて頭を下げそうになる。
しかしそうしてはいけないのだということは、良く分かっていた。

「梅乃」

不意に千景様が立ち止まり、一人の女鬼を呼んだ。
梅乃と呼ばれた女が、下げていた頭を上げる。
垂れ目がちの優しげな面立ちが印象的だった。

「ナマエ、この者にお前の世話をさせる」

振り返った千景様にそう告げられ、私は頷いた。
私に仕えてくれる侍女ということだろう。

「顔合わせは明日だ。今夜は早く休め」

千景様はそう言うと、くるりと背を向けて足早に歩き出した。
先ほどまでよりもずっと速いその歩調に、もう付いて行く必要はないのだとすぐに分かった。
この里に着いた瞬間から、本当は、それよりもずっと前から。
千景様は風間家の当主であり、西の鬼の頭領だ。
これからはもう、二人きりではない。
京からずっと追ってきたその背を、私は何も言えずに見送った。


「奥方様。お初にお目にかかります、梅乃と申します」

千景様の姿が見えなくなった頃、私の前に侍女が立った。
少し緊張しているのだろうか、その声は少し震えていた。

「ナマエと申します。よろしくお願いします」

会釈すれば、梅乃は恐縮した素振りを見せる。
普通に選んだつもりだった言葉遣いが侍女に対しては丁寧過ぎたのだと自覚するまでに、少し時間がかかった。


その後案内された部屋は、驚くほど広かった。
そもそも、屋敷自体がとても大きい。
まだほんの一部しか歩いていないが、慣れるまでは迷ってしまいそうだった。

結局その夜は湯殿で一日の汚れを洗い流し、早々に下女が用意してくれた床についた。
以前は当たり前だったひとり寝が、無性に心許なく感じられる。
いつの間にか、千景様と共に眠ることに慣れてしまっていたのだろう。
隣に温もりのない布団の中、私はゆっくりと眠りの世界に意識を溶かした。








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