[8]二人で過ごす最後の夜今日はこの町に泊まる、と言われたのは、まだお日様が真上から少し傾き始めた頃のことだった。
「ここで、ですか?」
いつもは日が暮れる直前まで移動していたのに、と首を傾げれば、天霧さんが頷いて。
「この先に、もう人間の町はありません」
「え……?じゃあ、」
もう、この先に人がいない、ということは。
「明日朝早くにここを発つ。どれほど急ごうとも、里に着くのは宵五ツを越えるだろう」
この先に、鬼の里があるということ。
人間の目から隠すべく作られたという里が、町から遠いのは当たり前のことで。
だから今宵はここで休み、明日の強行軍に備えるということなのだろう。
「分かりました」
私たちは旅籠に入り、部屋を二間借り受けた。
その日の夕餉の席で、天霧さんは私に鬼の里について詳しく教えてくれた。
何でもこれから向かう風間の里は五つの集落に分かれているそうで、それぞれが自治を行っているという。
その中で最も大きなものが、中心部にある千景様の暮らす集落なのだそうだ。
つまりそこが人間界でいうところの都にあたり、周りが諸藩というわけだ。
千景様は西国の頭領として、その五つの集落を取り纏めているのだという。
小さな村にこぢんまりと暮らす様子を想像していた私は、聞かされた話に驚いた。
予想していたよりもずっと、西国の里は大きなものらしい。
ミョウジの里は、もっと小さかった。
風間の縁者だけでなく、西国の鬼たちを一所に集めた結果だろう。
そのような所へ嫁ぐのかと思うと、改めて身の引き締まる思いだった。
夕餉のあと、天霧さんはもう一つの部屋に戻っていった。
私は千景様に酌をしながら、今し方天霧さんに聞いた話を反芻していた。
想像よりもずっと大きそうな、風間の里。
その頂点に君臨し、全てを統治する千景様。
その正妻になる、私。
もちろん、里の大きさで態度や心持ちを変えるつもりなんてこれっぽっちもないけれど。
やはり、感じる圧力は重さを増した気がした。
「何を考えている、」
は、と顔を上げれば、不機嫌そうに私を見ている千景様と目が合って。
その双紅に全てを見透かされてしまいそうで、私は慌てて首を振った。
「いえ。その、いよいよなんだな、と」
そう答えれば、千景様は小さく鼻を鳴らした。
そのまま無言で空になった盃を差し出され、私も黙したまま酒を注ぐ。
姫様の屋敷にいた頃は毎晩銚子を三本空けていたが、西へ向かうこの行路では一晩に二本までとしている。
それは千景様の身体を心配して私自らが言い出したことで、千景様は不満げな様子ながらもこの提案を受け入れてくれた。
注いだ酒を半分ほど一息に飲み下してから、不意に千景様が私を見据え。
「恐れるな」
重厚な低音が、空気を揺らした。
「お前はただ、俺の傍で笑っているだけで良い。それが務めだ」
それは、いよいよ明日に迫った里の鬼たちと顔を合わせる席での心得なのか。
それとも、里での暮らしについてまでをも含んでいるのか。
それは分からないけれど。
「……はい、」
千景様がそう言うならば、そうしよう。
私は鬼の実情も政も、世のあり方も分からない。
出来ることはただ一つ、千景様の願う通りに振る舞う妻でいることだけだ。
その千景様が、笑顔でいろと言う。
それならば私は、笑っていよう。
「何も案ずるな。お前がお前でいる限り、俺には何の憂慮もない」
私らしく、笑っていよう。
「はい、千景様」
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