約束の果て[2]ちゃぷん、たぷん、と。
普段一人で浸かる時は気にも留めないお湯の音が、どうしてか耳に響くバスタブの中。
向かい合って入ることに恥ずかしがった私を、歳三さんは一頻り揶揄った。
結局、歳三さんに背中を預ける形に落ち着いた私を背後から抱きしめる逞しい腕は優しく、私のお腹の前で組まれている。
私の肩に歳三さんの顎が乗っていて、耳元を擽る吐息が妙に擽ったかった。
「……その、何か、あったんですか?」
緩く組まれた大きな手を見つめながら、背後に問い掛ける。
「いや、別にそういうわけじゃねえんだが、」
右耳に直接入り込んでくる低い声に、鼓膜が甘く震えた。
そういえば入社直後からこの声が好きだったと、不意にそんなことを思い出す。
出逢ってから4年と半年。
本当に、色々なことがあった。
最初に抱いたのは、仕事に対する真摯な姿勢への尊敬だった。
そんな人から想いを告げられ、憧れは恋へと変わった。
一度、上手くいかずに別れてしまったこともある。
今思えば、私の弱さや自信のなさが招いた逃避だった。
それでも歳三さんは、この手を離さないでいてくれた。
逃げた私を追い掛けて、もう一度抱きしめてくれた。
それからはお互いに、きちんと思いを伝え合うようになった。
嬉しいこと、悲しいこと、願うこと、好きなこと。
何でも言葉にして伝えるようになった。
恋は愛へと形を変え、恋人という関係は夫婦という関係へと変わった。
「……なあ、ナマエ」
首筋に、歳三さんの濡れた髪が当たる。
私は、スーツの上からでは分からない鍛えられた胸元に背中を預けたまま「はい」と返した。
「その…な、」
歯切れ悪く、歳三さんは何度か私の耳の後ろに鼻先を擦り付けたあと、ゆっくりと話し始めた。
「お前がな、この仕事を好きなのは知っている。責任感とやり甲斐をもって取り組んでることも、分かってる」
突然何の話をし出したのか分からず、私は黙ったまま続きを待った。
「今のままが、嫌だってわけじゃねえんだ。お前と一緒に働いて、一緒に帰って来て。俺は……その、なんだ……すげえ幸せだと思ってる」
「はい、私も幸せですよ」
良く分からないままそう返せば、歳三さんが背後で笑う気配がした。
「ああ。……だがな、ナマエ。これは強制じゃねえ。お前の好きなようにしていい。……だけどな、ナマエ。お前、仕事を辞める気はねえか?」
「…………え?」
仕事を辞める。
唐突な提案に戸惑って後ろを振り返ろうとすれば、歳三さんはそれを遮るように私の首筋に顔を埋めた。
「辞めろって言ってるんじゃねえからな、誤解すんなよ。ただな、お前に楽、させてやりてえんだ。まあそんなもん、男のエゴだって言われちまえばそれまでなんだが」
歳三さんが顔を上げ、まだ乾いたままの私の髪に優しく触れた。
濡れた手が、そっと髪を撫でる。
「俺に付き合って残業して、お前はちっと働き過ぎた。それに、いくら俺が手伝ったって、家のことはどうしてもお前の方が負担が大きくなっちまう」
耳元に零される言葉には、心底私を気遣う思いがこもっていた。
この人はいつだって、私に優しすぎるのだ。
「別に家のことに全部やれって言ってるんじゃねえんだ。お前が専業主婦になったって、俺も手伝う。だが、もうフルタイムでみっちり働かせんのは嫌なんだよ」
きっと、ずっと気にしてくれていたのだろう。
もしかしたら本当は、結婚と同時の寿退社も考えてくれていたのかもしれない。
「でも、それだとお仕事が、」
確かに、仕事は好きだ。
楽しいし、やり甲斐もある。
でも私が結婚後も仕事を続けている理由は、歳三さんの支えになりたいと思っていたからだ。
仕事上で頼りにされていると、実感していたからだ。
「ああ、まあな。上司としちゃ、優秀な右腕を失うのは痛えよ。お前は本当に、良くやってくれてるからな」
そう言って、歳三さんは再び私を抱きしめてから。
「でもな。その……毎晩お前の待つ家に帰るってのも、いいもんだろうなあってな、」
思っちまったんだ、と。
歳三さんは、照れ臭そうに呟いた。
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