ゼロセンチのその先へ[1]
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金曜日、20時40分。

残念ながら、目の前にはまだ片付けなければならない案件が山のように積み上げられていた。
大成功を収めたプロジェクトが幕を下ろしてから三週間。
プロジェクトが終われば少しはマシになるかと思っていた忙しさは、生憎緩和されることなく。
むしろ、スケジュールはより過密になりつつあった。

キーボードに指を走らせていると、僅かに感じる向けられた視線。
それが誰からのものかなんて、勿論分かっている。
件のプロジェクトが終わった翌日から付き合い始めた、眉目秀麗才色兼備な年下の恋人だ。

入社してきた当初から、いい仕事をする子だと思っていた。
一を聞いて十を知る、優れた理解力と素早い機転。
大卒一年目だというのに、若者特有の軽佻浮薄な雰囲気はなく、落ち着いた話し方と洗練された物腰。
何か武道を嗜んでいるのかと思わせる、真っ直ぐに伸びた背筋が印象的だった。
男の子にしては随分と綺麗な顔立ちをしていて、斎藤君の入社直後、主に女性社員の間は彼の話題で持ち切りだったと思う。
だが肝心の斎藤君は女に全く興味がないのか、誰がアプローチを仕掛けても一向に応える素振りはなく。
そんな硬派なところがまた、私の中では好感度の向上に繋がった。

最初の頃は間違いなく、優秀で信頼のおける部下、という存在だったはずなのに。
いつからだろう、斎藤君のことを、異性として見るようになったのは。
恐らくは、彼と雪村さんの仲に気付いた頃からだったと思う。
ちなみにそれは先日、私の誤解だったと判明したのだけれど。
斎藤君と、彼によく懐いていた新人の雪村さんはどう見てもお似合いで。
その姿にちくりと痛みを覚えた時、私はようやく恋心を自覚させられた。

そしてどうやら斎藤君も、なぜか私と左之の仲を誤解していたらしく。
先日お互いの誤解が解け、晴れて私たちは恋人という仲になったのだけれど。
プロジェクトの成功を受けて私の仕事は一気にその量を増し、なかなか彼と一緒に過ごす時間が取れないでいた。
想いを確かめ合った土曜日の夜、そのまま斎藤君の家に泊まって。
翌日の日曜日は、一日中二人で色々な話をして過ごした。
それから、まもなく丸三週間。
実は、彼と二人きりで過ごした時間はあの日曜日以降一度もない。

平日は、私が毎日残業続き。
それでも仕事が片付かず、先週先々週とどちらも土曜日まで出社した。
その上日曜日は友人の結婚式と大学の同窓会という断りきれない予定に二回とも潰れ、斎藤君と会う時間が全く取れなかった。
もちろん、月曜日から金曜日まで、週に五回はオフィスで顔を合わす。
当然話しもする。
だが、流石にオフィスで公私混同するわけにもいかないから、当然それらしい雰囲気が出るはずもなく。
ここではただの、上司と部下だ。
徹底して隠そうとまでは思わないけれど、交際を堂々と匂わせるようなことはしなくない。

斎藤君はこの状況に対し、何も言ってこなかった。
私としては正直、とても助かっている。
生憎私は、仕事よりも恋人が大切、などという恋愛体質ではないのだ。
俺と仕事どっちが大事なんだ、なんて今時女でも言わないような馬鹿馬鹿しい台詞に呆れて男と別れたことも数知れず。
斎藤君がそんなことを言うとは思っていないけれど、何の不満も態度に出してこないのは流石だと思う。

でもね。
私、気付いてるんだよ。

斎藤君のことを、無表情で何を考えているのか分からない、と言う人は多い。
確かに彼の表情は一般と比べて変化に乏しく、薄い方だとは思う。
けれど、決して無表情ではない。
そして何より、あの目だ。
目は口ほどに物を言う、という言葉があるけれど、彼の場合、目は口よりも物を言う。
何の文句も言わない口とは裏腹に、彼の目は私に訴えかけているのだ。

寂しい、と。
不安だ、と。

分かっていた。
言葉に出来ない思いを抱えて私を見ているのだと、気付いていた。
今日だって。
本当はもう、自分の仕事なんてとっくに終わっているくせに。
やらなくていい仕事を口実に、私を待っているのだ。

目の前の文字を追いながら、意識の端で斎藤君の様子を伺う。
先程まで響いていたタイピングの音が止み、やがてPCをシャットダウンする微かな音が聞こえた。
流石にもうやれることがないと、諦めたのだろう。
何事も素早く迅速に熟す彼らしくない緩慢な動作で、帰り支度を整えている。
どこまでも、健気で一途な子だ。
少しくらい、文句を言ってもいいのに。
会いたいと、一緒にいたいと、言えばいいのに。
今までであれば、絶対に抱かなかったような感情。
そんなことを考える時点で、私もきっと彼との時間を欲しているのだろう。

私は素早く、オフィスの中に視線を巡らせた。
残っている社員は、私と斎藤君を含めて四人。

仕事を放り出すわけには、いかないけれど。
でも私だって、君と一緒にいたいんだよ。

「斎藤君、ちょっといい?」

PCに視線を向けたまま、名前を呼んだ。
あくまで上司として、部下の名前を。

「っ、はい」

丁度椅子から立ち上がったところだった彼は、随分と驚いた様子で。
ビジネスバッグをデスクに置き、慌てて近付いて来た。
私はデスクの上に無造作に置かれていたメモ帳を一枚引きちぎり、ペンを走らせる。
そして、鍵のついたデスクの引き出しから取り出したものと一緒に斎藤君に手渡した。

「ごめんね、帰り間際に。これ、週明けまでに確認しておいてもらっていいかな」

一瞬だけ上げた視線の先、斎藤君が目を瞠って息を呑んだ。
それには気付かないふりをして、再びPCに向き直る。

「…承知、しました」

視界の端、斎藤君はそう言って一礼し、私に背を向けた。
その後ろ姿に顔を向ければ、斎藤君は私の自宅の住所を記したメモとそこの鍵を、大事そうにポケットに仕舞い込んでオフィスを出て行くところだった。


先に行って待ってて。
今夜は一緒にいよう。






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