ゼロセンチのその先へ[2]
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「ただいま」

斎藤君に手渡したスペアキーと全く同じ形の鍵で、ドアを開けた。
自動で照明がつき、玄関を照らす。
そこには男物の革靴が、彼の性格をそのまま表すかのようにきちんと揃えて置かれていて、思わず笑みが漏れた。
特に連絡がなかったから心配はしていなかったけれど、ちゃんと辿り着けたらしい。
我が家はそこそこ大きなマンションだから、ネットで検索すれば一発で位置が表示される。
駅徒歩三分の一本道。
初めてでも迷うことはなかったはずだ。

パンプスを脱いでフローリングの上に上がり、廊下の奥を見ればリビングから明かりが漏れている。
出迎えてくれるかと思っていたが、その気配はない。

残念。
出迎えてくれたら、飛び付いてキスをしてあげようかと思っていたのに。

そんなことを思いながら廊下を進み、リビングへと続くドアを開け放った。
そして、固まった。
それなりに広いリビング。
ふかふかのクッションを乗せた、大きなソファだってちゃんとあるのに。
毛足の長いアイボリーのラグも、座り心地は良いはずなのに。
斎藤君はなぜか、硬いフローリングの上に正座をしていた。

「………えっと、」

別に、どこに座って何をしていようと、そんなことは彼の自由なんだけれども。
よりにもよって最も硬いフローリングの上で正座をし、握りしめた両手を膝の上に置いているのは、どうしてなんだろう。
どう見ても、寛いでいる、という様子ではない。
それともこれは、先日知ったことだが、剣道を嗜む彼にとっての一番疲れにくい体勢なのだろうか。
いや、だけど、せめてスーツのジャケットを脱いでネクタイを緩めるくらいはしてもよかったと思う。

疑問に思うことは、色々とあった。
だけど、迷子になった子どもみたいな表情で見上げられて、何も言葉にならなかった。
とりあえずここは、あまり深く考えないことにしよう。

「遅くなってごめんね、お腹すいてる?」

後ろ手にドアを閉め、バッグを適当に置いてジャケットを脱ぐ。

「…い、いや、その……大丈夫だ」

何とも要領を得ない返答に斎藤君を見下ろせば、彼は不自然に視線を泳がせた。
会社にいる時は、驚くほどはっきりと意見を言う子なのに。
プライベートになった途端にこうも変わるのは、何だか不思議だ。

「じゃあお酒と適当なおつまみで大丈夫?」
「あ、ああ。…問題ない」

分かったと頷き、ラバトリーで手を洗ってからキッチンの冷蔵庫を開けた。
缶ビールが数本冷えているので、とりあえずはこれでいいだろう。
生ハムと胡瓜の浅漬け、あとは豆腐があるから冷奴にしよう。
全く色気のない取り合わせだが、そこは勘弁してもらおう。
それらをダイニングテーブルに運ぼうとして、思い留まった。
床に座っていた方が楽なら、リビングのローテーブルに並べた方がいいだろう。

パックの生ハムを皿にあけ、豆腐を切って葱と生姜を乗せる。
浅漬けの入った器を並べ、箸を添える。
最後にグラスを二つと缶ビールを二本持って行っても、斎藤君はまだフローリングの上で固まったままだった。

「とりあえず、スーツ脱いだら?」

クローゼットから出してきたハンガーを手にそう言えば、初めて斎藤君が立ち上がる。

「すまぬ、」

恐る恐る差し出されたジャケットをハンガーに掛ければ、心底申し訳なさそうな声がした。
そこまで恐縮することだろうか。
なんというかこれでは、彼女の家に来た彼氏というよりも、上司の家に来た部下の図だ。
いや、それも間違いではないのだけれど。
私としては、仕事は仕事、プライベートはプライベートだ。
終業後まで、部下の態度を貫かれたくはないから。

「はじめ」

名前を、呼んでみた。
反応は、顕著だった。

「な……っ、」

斎藤君、いや、はじめは真っ赤になって絶句した。
その隙に近付き、首元で一分の隙もなく締められたネクタイに指を掛ける。

「ねえ、もう仕事は終わりでしょう?」

くい、とネクタイを引き下げ、ご丁寧に一番上まで留められたワイシャツのボタンに手を伸ばした。

「ミョウジさ…っ」
「ナマエ」

ひとつ。

「……ナマエ、」
「そう」

ふたつ。

「今はもう、恋人の時間、でしょ?」

項に両手を回して身体を引き寄せ、頬に唇を押し付ける。
耳まで真っ赤に染めたはじめは、やがてこくりと頷いた。


ローテーブルを前に、ラグの上に並んで座る。
先ほどまでと違って、はじめは胡座を掻いていた。
どうやら少しは寛ぐ気になったらしい。
お互いのグラスにビールを注ぎ合い、乾杯する。
私に酌をするはじめの手が震えていたことには、気付かなかったふりをしてあげた。
ついでに、手先は器用なはずのはじめが、箸で豆腐を掴むことに苦戦していたことも。
途中で確実に二回はビールグラスと醤油差しを間違えて口元に運んだことも。
全部、見なかったふりをしておいた。





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