煙に抓まれる
 千切雲のかかる月。過ごしやすい適温に、縁側でだらんと足を放り出していると、僅かに欠けた輪郭だけがこちらを覗いていた。その朧げな月影をベールに包むようにして昇っていく白煙が、独特な馨りを伴う。細く揺蕩う一縷の糸、その始まりへ目をちらと向ける。

「ふう、」

 彼の口から吐き出された息は白かった。手元の煙管からちりちりと上がっていく燻りは、馴染みのある灰の刺激臭ではなく、仄かに甘くて、野原で草いきれに満ちた新緑みたいな、あまり嗅いだことのない煙。煙草や葉巻を嗜まないわたしは、その味を知らない。
 鼻腔を擽るこれが、心地よい馨りなのか害悪なものかも正直よく分からない。この人と出逢うまでは無関心だったから。自分でも思う、つまらない女だなって。

「それって美味しいんですか?」

 半分は興味本位で、もう半分はあなたの好む物を知りたくて。ほんとうは吸う気なんか更々ないくせに、でもやっぱりほんの少しだけ味わってみたくて訊いてみた。

「試してみます?」

 浦原さんは、すっと煙管を差し出した。
 口、つけていいのかな。訊ねておいて、困惑した。
 触れたところでどうすればいいんだろう、はいともいいえとも言えずに無言で目を落としていると、浦原さんは「無理しなくていいんスよ、なまえサン」と、愉快げに喉を鳴らした。無理、はしていないのだけれど、多分。あなたの好きな物を知りたかったので、なんて事は言えやしないので嘘っぱちの平気を盾にした。

「だ、大丈夫です、失礼します」

 渡された煙管に指をかける。そのまま唇を寄せようとすると、わたしの指の上からひと回り太い無骨な人差し指と親指が、誘導するように挟み込む。
 あと少し、咥えたら息を吸えばいいのだろう。それが正解なのかは知らないが、見様見真似で試してみる。強張る己の表情筋が、初体験を露呈していて恥ずかしい。意を決し、唇を窄めて円筒の吸口へ近づける、と──。わたしの指を覆っていた浦原さんの指が、ぐっと力を込めて煙管を掻っ攫っていった。

「あ、」

 せっかく吸ってみようとしたのに。浦原さんは、まるで意地悪をする子供みたいに、目前で意気揚揚と煙管を口に含んで嗜みはじめた。その横顔はさっきと同様、口元が緩んで狡猾だった。なんだ、揶揄われた。
 結局吸えなくて、意味もなく残念がったのも束の間。突然、わたしの口は浦原さんのそれで塞がれた。

「っ、んん」

 生温い舌でこじ開けられて浦原さんが侵入してくる。同時に口内で広がる、苦いような、甘いような、なんだこれ。これが煙管の、葉っぱの燃えた匂いなのか。同僚が纏う煙草とは違って、お線香の煙みたいな色香は悪くなかった。なんて考えてるうちに息が苦しくなって、トントンと浦原さんの胸板を叩くと、薄い唇は糸を引いて離れる。そして器用に舌先で絡め取るさまを魅せつけられた。

「……お味、わかりました?」

 わたしは荒れた呼吸を整えながらそっと睨め上げる。一回でも首肯いてしまったら今の行為を肯定している気がして。

「わ、わかりませんっ、こんな、」
「ありゃ。おかしいっスねぇ、一番分かりやすいかと思ったんスけど」

 浦原さんは傾げてもう一服。煙管を口に近づけた。

「んじゃ、もう一度確かめましょっか」

 え、と驚愕している間に彼はすうっと息を吸う。
 
「や、あの、これは、もう」

 わかりましたから、なんて言ったらさっきのそれが嘘だったことになる。齟齬、矛盾、言い訳。舌に残る、憶えたての苦味と頭に埋め尽くされた言葉たち。結局噤んだまま、悪くなっていく立場がその先の声を掻き消した。

 浦原さんの大きくて骨張った左手が後頭部を包み込むと同時に、口が塞がれた。わたしもわたしで待っていたように目を瞑って受け入れる。知ったばかりの味をもう一度求めるみたいにして。
 合わせあった唇の隙間から白濁色の煙が洩れる。鼻腔を刺激しては、つんとする。舌に絡まる浦原さんのそれとあの甘くて深い草の香り。背後に動こうとしても広げられた五指ががっしりと頭部を支えていて逃げる事すら許されない。わたしが「わからない」なんて言ったから、まるで「分かるまで教えてあげますよ」と舌先でぐりぐりと示されている気がした。もう一度確かめようなんて優しい言い方して、もう、味なんて。思考が蕩けてふやけそうだ。歯列をなぞって暫く内部を掻き乱された挙句、お邪魔しましたとでも言うように、ちゅ、と侵入口へ音を残してから離れた。
 は、は、短い呼吸で肩を上げると支えていた手でくしゃくしゃと髪を撫でられる。

「ど、して、こんな、」
「どうしてって、あの一回でお味がわからないなんて言うんですもん。本当に分からなかったならちゃんと教えてあげないと、ねぇ」
「も、もうわかりました、から」
「ならいいんです。ま、ものは試しってことで、一緒にアタシと吸うのも悪くないでしょ」
「……ええ、まあ……」

 続けて、良かったです、と答えるのは行為自体に対してだと思われそうなので返事は濁した。濁したところで、あの一回で味がわかっていた事も、本能的に二回目を求めてしまっていた事も浦原さんには筒抜けなのだろう。
 次こそは煙管を吸えるのか、本物の味がどうなのかなんて、この火照りと昂りが邪魔をして。もうすっかりどうでもよくなってしまった。


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