祖母が昔を懐古し始めました
 おじいちゃんを亡くしてからのおばあちゃんは物寂しそうだった。

 長年連れ添った伴侶を見送れば、どんなに気丈な人でも肩を落とす。あったはずの温もりも、佇んでいた影もなくなるのだから、口数が減るのも当然かと深く落ち窪んでしまったその眼を一瞥した。おじいちゃんの代わりに私が隣へ腰を下ろす。おばあちゃんとの会話は最近の天気に始まり、「あんたのじいさんはいい男だったよ」ともう何度目かの惚気話で山場を迎える。仲睦まじい風景を聞くのは好きだった。けれどもう歳も歳だから、孫である私の名をうっかり間違えたり、月日を飛ばしたり、物忘れが多くなってきた彼女の言葉を心許ない思いで聞いていた。それでもおじいちゃんのことだけは、はっきりとした口調で紡いでいた。

 それは突然だった。おばあちゃんは、ふ、と懐古が空から降ってきたかのように「あの人はどうしてるんだろうねぇ」と零した。また誰かと勘違いしているのか、あの世のことを言っているのか。まさかおじいちゃんが他界した事実すらも忘れてしまったのだろうか。いや、悄気た理由がなくなってしまうから流石にそれはない。一体何の話かと問うのは物忘れを再認識させるような気がして、そうとは聞けず、堪らず私は眉を顰めた。

 暫く間を置いたのち「あそこの商店には心のやさしい店主がいてね」と。
 なんだ、知人か。ほっとした。抱いた不穏を跳ね除けるには十分だった。どこの誰かも知らないが、おじいちゃんのことではないらしい。私はおばあちゃんの記憶整理のお手伝いができるなら、と「へえ、友達?」と聞き返した。
 一旦疑問を投げると、湧き出でる水のように饒舌になっていく。

「よくお世話になった駄菓子屋さんでね」「代金よりもたくさんくれたんだよ」と今はなき、幼少期の古き良き時代を語っているようだった。過去を紡ぐたび、頬が上がって綻んで。「女学生の頃もよく通ったもんだ」「嫁ぐ前に挨拶しに行ったっきり」などと、どうやら足繁く通っていたらしい。

「名前は覚えてないの?」

 いつまでも漂う喪失感を少しでも和らげられたらなあ。近い人を亡くしてこれまでの人生を振り返りたくなったのかもしれない。懐旧に浸ってもらうことで元気が戻るなら。ただ細やかなお手伝いがしたかった。

「思い出せんねぇ、どこかも」

 ああそっか、そうだよね。本人が分からなければお手伝いは終わり。私は、うんうん、とだけ首肯いた。

「ああ、いつも物珍しい帽子をかぶっていたよ」
 私が「どんな?」と聞き返すと「深緑が渋くてね、縦縞模様の」と言った。縦縞とは、ストライプ。同じように朧げに、私も記憶を遡る。

 ──ん? まさか、いやまさかね。

 咄嗟に頭に浮かんだ、隣町の古ぼけた商店。
 一時期友人と通っていたことがある。レトロなお店だと一部には人気があった。けれどおばあちゃんが言っているのは最低でも六十年、半世紀以上も前の話だ。それにきっと思い浮かべたそれが仮にそうだったとしても同族経営だろうし。あの帽子は世襲しているのだろう。

 私はもしその駄菓子屋のことなら、と、「ねえ、浦原商店って知ってる?」おもむろに切り出した。
 その言下、おばあちゃんはハッとした顔でこちらを見た。細く垂れ下がった糸のような目が持ち上げられて上を向く。ゆっくりと外の方へ移して、瞬きを重ねた。私には分かった。彼女の視線の先には、映っていた。そのヒトが、確実に。

「……思い出したよ、喜助さんっていうんだあの御主人は」

 その名に開いた口が塞がらなかった。
 同じ名前を付けて世襲する、なんて。同姓同名か。

「冗談がお上手なひとで、いつもおんなじ作務衣を着ていたよ」
「えっ」

 こんなに合致することがあっていいのか。少しも認識の違わない共通の人物、子孫ではないとしたら。そんなはずあるわけがないのに、驚きを隠せなかった。
 おばあちゃんは、ありがとねぇ、とまなじりを垂らしたあと、

「どうして知ってたんだい?」

 大切な記憶をようやく掬い上げられたような、喜びに満ちた口元。幸せそうに弧を描いては、失くしものを見つけた子供みたいに嬉しそうで。こっちが恥ずかしくなるくらいに頬を赤らめて。

「ど、どうしてって……」

 その先は告げられなかった。
 ──もし、もし同じあの店長さんなら。そのひと、変わらず三ツ宮にいるよ、たぶん今もずっと。


§



「ちょっと冷えてきたね、衣紋掛けから襟巻き持ってきてくれるかい」

 そうおばあちゃんから頼まれた私は和室の隅に立つ。
 はいはいハンガーね、と習慣で固有名詞を変換。線香というか畳というか、昔の人の、おじいちゃんとおばあちゃん二人の匂いが自分の周りに絡みつく。もちろん嫌いな類じゃないが馴染みは薄い。母が綺麗にしているから湿気やカビ臭さはなかった。

 箪笥の横にかけてある服たちを覗き込む。襟巻き、襟巻き。マフラーはどこだ。目的の単語を唱えてみても、なかなか見当たらない。私は察した。さてはおばあちゃん、襟巻きはハンガーじゃなくて箪笥のどこかにしまったのでしょう。

 見つけてきてと頼まれたものが出てこないのは日常茶飯事だった。それもそのはず、正しい置き場所を忘れてしまっているのだから。そんなことには慣れていたし、別に物忘れをどうとも思わない。母は時々残念そうに小言を零すけれど、それを支えて互いにいい気持ちで終えられたらそれでいいと思っている。

 きっと他の服と一緒に畳んでしまったんだろうなあ、と上から手当たり次第、引き出しを開けた。小物が並んでいて、中には宝石のようなものも置いてあった。宝物置き場だったらしい。彼女の見てはいけないものを盗み見した気がして、私はすぐに閉めようとした。ところが、ガタン。奥の方で何かが引っかかって押し込めない。暗がりの奥を覗き込めば、木製のものが箪笥にあたっていた。それを取り出してみると、もう何十年も前と思われる薄っぺらい木箱が出てきた。

 中を見てはいけないと分かっていたものの、半分ずれてる蓋が好奇心を掻き立てる。きっとおじいちゃんとの思い出とか臍の緒とかそんなのだろうと、一気に蓋を開けた。

「わ、」

 ──おじいちゃんじゃない、誰この男。
 色褪せた白黒写真。隣に立つ女学生、かれこれ最低でも六十年は経っているはずだ。この八の字眉で笑む長身かつ長髪男性の横が、若かりし頃のおばあちゃん。あどけない面持ちで、いつも笑顔の絶えない彼女からは想像もつかないほど表情筋が強張っており、古い制服に身を包んでいた。

 だが右隣のこの男は自分の祖父ではない。ついこの間亡くなった寡黙で仏頂面のおじいちゃんではなかった。むしろ真逆に口元を緩ませ、和服の着こなしはだらしがなく、無精髭も手入れせず、見方によっては浮浪者にも。いや、育ちがそれなりの祖母がそんな人と連むわけがない。この男性は白黒模様の帽子を胸にあて、言葉するなら、あはは、と声を上げたような表情だった。

 おじいちゃんの前に知り合った秘密の男性なのだろうか。こんなに大事にしておくなんて、墓場まで持っていくつもりだったのか。

 ──ああ、人のものなんて勝手に見るもんじゃなかったわ。

 後悔したところで知ってしまったら気になってしまう、おばあちゃんの軌跡。おばあちゃんの歴史と言ったらもう我が家の歴史も同然、と自分の中で僅かに行為が正当化されるも、これを嬉々として祖母に聞くわけにもいかず、結局手に持った木箱に蓋をした。


 おばあちゃんは居間でみかんを剥いていた。

「はい、マフラー。首元あっためて、風邪ひかないようにね」

 悪いね、と言って手を止めようとするので、私がそのまま巻いてあげることにした。

「どう、苦しくない?」
「あったかいよ、じきにぐっと冷え込むからあんたもあったかくしなさいね」

 か細い声で気遣う。私は基礎体力に自信があるのでまだ寒くはないが、それに「うん、そろそろ衣替えするよ」と返した。

「ところでさ、おばあちゃんが学生の頃っておじいちゃんとは知り合ってないよね?」

 平然と質問を投げてみる。

「ああ、じいさんとはご縁でね。見合いの話をもらってね、女学生の頃じゃできん」
「だよね。学生の時に先生とか大人の誰かを好きになったことある?」
「はっ、ないない。女学生の頃はそれどころじゃあないよ」

 大きく吹き出した。これは嘘ではなさそうだ。あんまり変な質問すると心臓をびっくりさせてしまうので、そっか、と潔く諦めた。

「あ、でもねぇ、」

 おばあちゃんは剥き終わったみかんを私へ、はい、と分け与えて言った。

「一方的に憧れてたようなひとはいたかもねぇ、じいさんと出会う前だけども」

 思いがけない回答。それだよそれ、聞きたかったことは。身を乗り出しそうになる話題にぐっと堪えて「へえ、いたんだ」と何でもないように相槌を打つ。一体誰なの、どんなひと、と矢継ぎ早に重ねたかったけれど、内緒の思い出を独り占めしているおばあちゃんの心底嬉しそうな横顔に、私は聞くことができなかった。おじいちゃんと知り合う前の、女性の秘密を掘り返すのは野暮なような気がして。

「みかん美味しかったよ、ありがとね」

 もやつきが消えて、腑に落ちるというか溜飲が下がる心持ちだ。居間を出ると晴れやかになった。女学生時代に憧れの一人や二人いたっておかしくはないし、おじいちゃんとのお見合い前だから特別なのだろう。私は最後にもう一度だけ、おばあちゃんが憧憬の念を抱いた彼を拝んでおこうと先ほどの箪笥まで戻った。覚えている場所から木箱を取り出す。祖母も恥じらう乙女と言ったところか。見てるこちらが照れてしまう。

 少し眺めるうちに、ふと、鼻から下の半分の面影が見覚えあると脳裏を掠めた。六十年以上も経った写真、そんなことあるわけがないのに、──と先日の祖母との会話が重なった瞬間、彼女が口にしたあの人物が浮かんだ。

 まさかと思い、指の腹で男の顔半分を隠してみると、「あっ」胸にあてる白黒帽へ目を落とせば、これはひょっとして。予想が確信に変わった。

 ──おばあちゃんが憧れていたこの人、やっぱり私は知っている。


§



 ががが、がら。引き戸が何かに乗り上げて開けきらない。
 仕方なく反対の戸を引いて古めかしい店へ入ると、今では聞き慣れないカラコロと木を打つ音で迎えられた。

「はぁい、いらっしゃい」

 この男だ。おばあちゃんと知り合いだった人。なのに同じく私も学生時代に訪ねたことがある、浦原商店の店主。まるで生きたお化けと対峙するかのように、それでも物怖じしないように「こんにちは」とお辞儀した。店長は小さく何かを呟いたが私には聞こえなかった。独り言かと聞き返すこともしなかった。

「……へぇ、よく似てらっしゃいますねぇ、みょうじサンとこの」

 真正面まで来ての第一声がそれだった。直後、ぞわりと肌が粟立つ。名字を知っていることも、祖母か祖父を意図した物言いも、恐怖だった。
 そして何かを言いながら顔周りをじっくりと、見せ物みたいに眺められて。やっぱり薄気味が悪い、なんで顔が変わらないのこの人。虫唾が走りそうになったところで、歩みをぴたりと止めた。

 気になっていることを全て訊ねたら存在を抹消されたりするんじゃないかって、馬鹿らしくも御伽噺みたいなことがよぎる。後先考えずにここへ来てしまったことには猛省しつつ、腹を括った私は鞄からスマホを取り出した。


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