いづみの朝は早かった。
爆睡のお陰で疲れも十分に取れたのか、昨日とは逆で先に目が覚め。辺りはまだ朝ぼらけ。ゴロンと横になったまま相変わらず邪魔そうな喜助の髪の毛をいじる。一向に起きる気配はない。ツンツンと飛び出た髭をざらっと撫ぜては、父親には生えていないそれを初めて体感し面白かった。暇を持て余したいづみは「ねー」と一応は囁く声量で様子を窺う。

「ひっぱっちゃえ」

髭ってなんだろうかと興味本位で顎下あたりの一本を引っ張った。

「…顎が痛い!」突如叫んで目を開けた喜助に、いづみの肩がビクッと跳ねた。髭は髪と同じで引っ張ると痛いのか、と「あっきすけさん、いたかった?」と覗き込む。

「そりゃ痛いっスよ。起きて欲しいなら、喜助さん起きてって言わないと。ヒトの髪や髭で遊んだらダメっスよ」

怒気はないが叱られてしゅんとした。そういうつもりじゃなかったのに、といづみは想像しなかった喜助の反応で眉尻を下げ、「はい、ごめんなさい」と素直に反省の色を示した。

「でも、ちゃんと謝れて偉い。それとあともう一つ言うことがあるでしょう」

不安げに見つけ返すいづみに、喜助はふわぁ、と欠伸をしながら「お陰でボクは起きたっス」と頬を緩める。それにいづみは、ふふふ、と微笑み返した。

「おはよっす、きすけさん」
「はい、おはよっス」

こうして彼との数奇な夏旅が三日目に差し掛かる。
今日も喜助は山へ向かうと言う。それに対していづみは「わかった」と答えるだけで自身の我が儘は告げない。
昨日の一件があってか、いづみはこれまでのように「きょうはかえれるの」とか「おうちにかえりたい」などと駄々をこねる事を控え始めていた。帰った先にまたあの状況に直面したらと思うと口にする事へ億劫になるのだ。それは致し方ないことで、逆に喜助も彼女の心持ちを察し、帰る云々の話はしないよう努めた。

いづみは思い返していた。
嫌だ離してと泣きじゃくる中、『まだ帰れないんスよー、難しいっスけど分かってください』と告げられたこと。

(きすけさんは、まだかえれないっていってた、だから、がまん)

我慢には慣れていた。まだ帰れないという言葉もよく母親や父親から発せられたものと同じだったからだ。その後に愚図れば、大人を困らせるだけなのだと嫌々ながらに学んでいた。彼らに「いつかえってくるの」なんて質問は日常で使い果たすほど。おまけに喜助は魔法を使える上に優しいひと。一生懸命になってくれる。状況は真逆でも似た質問を喜助にすることはしたくなかった。

(がまんしたら、おかしがもらえるし)

そんな約束は交わしていないが、喜助にせがんだらラムネや飴がもらえる。いづみは我慢に対する褒美を勝手に安直にすり替え始めていた。そんな事を彼女なりに考え、せっせと用意を済ませてから「行くよ」の一言でいづみは立ち上がる。

しかし、宿を出たら喜助はすぐに裏道へと入った。「こっち」と言われ、その後を追ういづみは不思議そうに「おやまにいかないの?」と尋ねる。

「山へ行きますよ、今回は時間が惜しいんで近道っス」

喜助はまた軽々といづみを抱き上げた。いづみは彼の抱っこが心地良かった。高い目線の楽しさより、間近に感じられるひとの温もりが寂しさを取っ払ってくれて、「わあい」と大きく口を開けて笑った。

近道という割に、動かない喜助に目を向ければ、「昨日みたいにしっかり掴まってて」と指示され、いづみは首裏に腕を回してぎゅっと目を瞑った。
動いた、と思ったが今回は光に包まれず、すぐにおさまり。視覚が眩しく感じないのでパッと目を開けると、なんとそこは山の中、──しめ縄の大樹の目の前だった。一瞬の出来事に頭は追いつかなかったが、喜助は何か特別な事をしたのだと理解した。

「えっ、おやまについたの、すごーい!」

いづみは興奮気味に喜んだ。

「やっぱり、まほうつかいなんだ!」

目をキラキラと輝かせて確信する。喜助は「まあ今はそれでもいいっスけど」と昨晩の会話を受け入れていた。

「でもね。山には来たけど、まだ下には昨日の…違うお婆さんがいるから戻れないよ」

喜助は困ったように真実を告げる。

「うん。きのうのひとは、ばあばじゃない」

まるで自分は分かっている、とはっきりと返したいづみに喜助は驚いたように顔を見合わせる。いづみ、と名を落としてからその小さな体を抱きしめた。
「きすけさん、おひげがちくちくする」頬の当たる位置で密着させてしまい、ごめんごめん、と擦れる箇所をずらした。

「今からもう一回だけ移動するから、また強く掴んでてもらえるかな」
「わかった、つぎはまぶしいやつ?」
「そう、これ使うからね」

喜助は懐から玩具のような装置を取り出す。昨日は掌中に握られてあまりしっかりとは見えなかったが、親指をボタンの上に引っ掛けて押すようなものだった。その機械には漢数字が点滅しており、小学生に満たないいづみには読めなかったが、二本の棒が書かれているのだけは分かった。他にはなにか別の文字のような記号のような。これはきっと魔法の暗号かも。押すだけで辺りの世界は一変してしまう現象が起こるのだから、いづみはやっぱり魔法使いだ、と思った。

そうして再び「行くよ」と、──響いたその時。
喜助の肩口に顔を埋めるいづみは、怖いもの見たさで片目を開けた。
刺すような閃光が煌びやかに耀いて、目前の巨樹をも包み込み。白くちらちらと反射しながら消えていく様がこの世のものとは思えない程、とてもとても美しかった。いづみは息を呑んで片目にその光景を焼き付けていた。


「きえたのに、またおなじばしょだね」

移り変わる景色を眺めていたはずのいづみは、解せないという声を上げた。

「いづみは目を開けてたんだね、眩しかったでしょ」
「うん、でもすっごくきれいなまほう!」
「そりゃよかった」

そう言って喜助が装置に目を落とせば、ほっと息を落としてから眦を下げた。

「……いづみ、帰れるよ」

帰れる、それは今まで一番聞きたかった言葉。
──なのに。彼の零した声色とその表情はどこか寂しそうに見えた。両親や祖母が離れ際によくしていた色と重なって。いづみの喜ぼうとした歓声は、どうしてか喉を通らなかった。







昨日と同様。喜助の山を下りよう、という提案に抱えられながら「うん」と頷く。また違うお婆さんだったらどうしようという不安や、本当に帰れたのかもしれないという喜びが入り混じって、いづみは言葉数少なくじっとしていた。

「どうしたの、嬉しくないの」

その様子に気づいた喜助に、いづみは地面を見つめながら、うれしいのによくわかんない、と正直な感想を述べた。

「きっと不安なんスよ、でももう大丈夫。一時はどうなるかと思ったっスけどね、この旅はこれで終わり。……残念ながら今回記換神機を持ってないんでアナタの記憶は消せませんが、幸い、幼いが故に憶えていることも少ないでしょう」

また喜助は難しい事を口にする。
言われた全ての言葉は理解できなかったものの、もう終わるのだ、と喜助の安堵した声色は感じとれた。

暫くすると、山の中間部に差し掛かり、平屋造りの古民家が遠目に見えてくる。
「あっ、!」いづみは昨日のことがあってか、率先して飛び降りようとはしなかった。喜助は「此処は正しいはずだから、行っていいっスよ」そう言っていづみを腕から降ろそうとした、その時。

「ねぇ、きすけさん」

腕に抱えられたまま、彼女は言った。

「…もりにかえるの? いっしょにばあばのところにくる?」

喜助は申し訳なさげに、いいや、と首を横に振る。

「あーほら、魔法使いは誰にも言っちゃいけないし、ボクは一緒には居られないっス。あと駄菓子屋もあるんで」
「いづみ、ひみつにするし、おかしやさんにいくっていった」
「ああ、うーん……その約束は守れそうにないなあ、ごめんね」

いづみは喜助の告げた『今度遊びにおいで』というお誘いを盾にした。が、彼女も幼いながらに心の奥底では断られると分かっていた。

「おてがみは? いづみ、しょうがくせいになったら、おてがみかけるようになるよ」

あれはどう? これは? と問う度にいづみの目は潤みを増していく。
見兼ねた喜助は、「いづみは賢いから分かってるでしょ」そう言い聞かせる。それでも、うっ、と涙を堪える姿に、喜助は懐に忍ばせた袋から鷲掴みにしたお菓子たちをいづみの服のポケットへ突っ込んだ。

「お菓子と玩具を置いてくから、それでも満足しなかったら、また遊びにくるよ」

ポケットから溢れんばかりのチョコやラムネを宝石のように手に取り、彼女は声を呑む。こぼれ落ちそうな物たちはいづみの背負うリュックへと移した。

「わ、おかしがたくさん…! ありがとう、きすけさん!」

泣きそうな顔から一変、いづみを破顔させた喜助は「いえいえ、喜んでもらえて嬉しいっスよ」ほっと胸を撫で下ろし、ようやく彼女を地面へと立たせる。

久しぶりに会える祖母。いづみは元気いっぱいの足取りで駆けていく。
喜助は後方で昨日と同じように見守っていた。ただその眼差しは柔らかなものだった。

「ばあば、ただいま! いづみ、かえってきたよ!」玄関口で叫べば、
「おやぁ、いづみちゃん。今日は帰りが早かったねぇ」とよたよたと老女が現れる。

いづみは安堵したのか「あのね、あのねっ、」と言い募るも、言葉にならないまま早々に泣き始めていた。玄関口で立ったまま顔を覆う孫に、祖母はどうしたんだい急に、何があったのかと慌てふためいている。
いづみは『誰にも言わない』という約束を律儀に守っているのか、それともただ言葉が上手く出てこないだけなのか、これまでの奇妙な体験については今この場では口外していなかった。仮に言ったところで喜助の場が悪くなることはないのだが。


久しぶりに愛しい祖母からあやされたいづみは、家へ入る直前にハッと我に返る。────きすけさん! 姿の見えない魔法使いの名を外に響かせながら、こうして、六才の数奇な夏旅は幕を下ろした。

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