「ばあばー、あーそーぼー!」

朝ご飯をめいっぱい食べてから、玄関越しに大声で叫ぶ。いづみは夏休みのほとんどを祖母の家で過ごしていた。そしてその始まりが六才、小学生へ上がる前の年だった。保育園のうちから祖母の家に慣らしておきたかった、という両親の意向らしい。

「ごめんねぇ、いづみちゃん。午前はひとりで遊べるかい? 昨日みたいにお山のてっぺんにあるお稲荷さん拝んで挨拶しといで」
「うん、わかった! キツネさんのとこいってくる!」

祖母の住む山のてっぺん付近には、大きいとは言えないがお社が祀られていた。平屋の裏からトコトコと、道なりに登っていくと数分もしないうちに辿り着く。
当時、お稲荷さんも何もよく分からずに目指した狐の石像。それらは古ぼけた赤い鳥居の両端に鎮座していた。その下では決まって、リュックから玩具や指人形を取り出して、会話もどきの独り遊び。

「キツネさん、キツネさん。きょうはなにしてあそびましょう」
「そうだなあ、おままごとでもしましょう」
「そうしましょう」

対話は全て指人形で演じるいづみ自身である。
連日このような遊びを続け、大好きな祖母から貰ったお手製のおままごとセットをシートの上へ広げる。玩具の野菜を切ったり集めた木の実を食べるような仕草、飯事は立派なお遊びだ。
独り遊びは色んな楽しみ方があって好きだった。祖母や友達と遊ぶ事ももちろん大好きだったが、自分の世界を指で体現したり、ごっこをして理想の夢を叶えたり。寂しさはあまり感じなかった。



ぐう、ぎゅるる。
腹時計とはよく言ったもんだ。いづみの腹虫は実に正直なもので、お腹が鳴ったら帰るのだ、ということはよく分かっていた。
まだ時間感覚すら理解できない年齢なのだから、時計など持っておらず、もちろん針の見方も知らない。喉も渇いていたいづみはそろそろお家に戻ろうと、狐と鳥居へ「またね、ばいばい」とお辞儀をしたあと、またトコトコと軽快に裏山を下っていく。
これがいづみの夏休み。あとはお昼寝をしてばあばとあそぶんだ、と意気揚々と足を進めた、はずだった。

──ところが、この日だけは違った。

「…あれ、あれ?」

きょろきょろと。様子がおかしい、変だ。慣れてきた道を戻ってきたはずなのに、見たことのない川へ出てきてしまった。「なんで? おうちどこ?」そう問いかけても、返事は草木のざわめきと蝉の合唱のみ。外は明るいのに、目の前が真っ暗になりそうだった。

「お、おうちがないよ、あれ? ばあばは?」

ばあば、ばあば、大声で呼んでいた名も次第に弱々しく。涙声が混じる。いづみは困った。焦って、怖くて、遂にはわんわんと泣き喚いてしまった。

(まよっちゃった、なんで)

小さく流れる川沿いを走って歩いて。「ばあばどこ、」と呟いていると急に出てきた広い場所。目の前には一本の木。まだ身体の幼いいづみにとっては、あまりに大きなものが立ちはだかったように思えた。
そこにあったのは、白い札としめ縄で括られた巨樹だった。

ぴた、と足を止めると同時に涙滴も一時停止。この大樹に圧倒されたのか、どうしてか、わからない事だらけで呆然と立ち尽くしていた。
すると、ぐしゃ、と木の葉を踏む音がどこかから聞こえてきた。

「…ありゃりゃ、今回はヘマをしちゃいましたかねぇ」

失敗っスか? と太い樹の後ろから、全身緑色の服の大男が。これには、落ち着き始めたいづみも大層驚いて、「ひえ、」と再び涙を溢れさせてしまった。

「おや、こんな処にヒトがいたなんて、しかも子供」

髭を生やしたおじさんは、へんてこりんな帽子に棒を持っている。ふ、と落とされた視線に怖気が襲う。いづみは驚きの上に恐怖を重ね、助けを乞うように天を仰ぐ。わあわあと赤ん坊の如くギャン泣きが響いた。

「ぎゃああ!」

泣けば泣くほど近づいてくる男に、足が固まってその場から動けず。いづみは阿鼻叫喚し大粒の涙を落とし続けた。

「…あーあー、泣かない泣かない」

彼は頭にぽん、と手のひらを乗せ屈む。ひ、と上がった声と共に恐る恐る目を見開けば、帽子の下から男の顔がはっきりと。優しく、温かく、微笑んでいた。その垂れた目尻に、祖母の朗らかな笑みが見えた気がした。

「う……ひっく、」泣き叫んで過呼吸気味になった息を整えるいづみに、すかざず男は「はい、ゆっくり息をして」と手馴れた様子で背中を撫でた。

「どう? 落ち着いた?」

それにコクン、と首を垂らしたいづみは、目の端に涙滴を残したまま口を開ける。

「あのね、おうちに、かえれなくなって、」
「えっと、キミの家はこの近くっスか?」

それにコクコクと二度勢いよく頷けば、「そうか、うーん…」と顎に手を当てながらぶつぶつと呟いた。

「僕の予定地点とも此処は違う、つまりなにかの拍子で軸がズレた可能性が、」

いづみは怪訝そうに男を見上げた。全く解せない言葉ではあるが同じ言語だということはなんとなく意識の根底にあった。

「残数は、と。……三、か。探し出してこの子を戻さなければ、──」

懐から妙な玩具を取り出し、確認している。その仕草も意味も、さっぱりだった。

「おじさんがなにいってるのか、いづみ、わからない」

知りたいわけではなく、早く家に帰りたいという思いが先走って初めて自分から声をかけた。それにハッとした彼は「ごめんね、ただのひとりごと」と髪をぐしゃりと撫でた。

「キミはいづみちゃんって言うんだね、あとボクはまだおじさんじゃないっスよー」

困ったように言う男に、いづみは「ふうん」と興味なさ気に返してから、背負ったリュックについた名札を「これ」と見せた。

「……瀬戸いづみ、かわいい名だね。住所、これはちょっと分からないな」

かわいい名前。そこだけしっかりと拾ったいづみの耳は、幼いながらにポッと赤く染め上がった。

「でも必要な情報だ。教えてくれてどうもありがとう」

祖母のような柔らかい温顔に、いづみも、えへへ、と照れ臭くなって俯く。

──途端、ぐい、と。手が引かれた。
思わず、顔を上げて目を丸くする。大人の人と手を繋いで帰るときみたいに、彼はそっと握ってからいづみを見下ろしていた。

「これからいづみのお家を探しに行くから、はぐれないでね」
「ほんとうに? おじさんありがとう」
「あー、うん。おじさんじゃなくて喜助、浦原喜助っス。好きなように呼んでくれていいから」
「…うらはらきすけ」
「そうそう、ちょっと言いづらいかもしれないね。喜助でいいっスよ」
「きすけ、さん」
「はいな」

初めて会う人には、ちゃんや君を付けなさい、と母親から言われていたけれど、大きな男の人にはなにが適切か分からないいづみは、周りの真似をして彼を『きすけさん』と呼ぶことにした。

繋がった指先は不安を取り除くように温和。
暫く「きすけさん」「はい、喜助さんですよ」と意味のない呼応を繰り返しながら、山の麓まで向かった。

樹々がなくなり、空が開けた。そこに広がる駐車場。夏の熱い日光に照らされて、地上が歪んで見えた。車は愚か、ひと一人おらず、喜助も「もう少し出るしかないっスねぇ」と息を吐いた。

「いづみ、」不意に名前を呼ばれ、「なあに?」と喜助を見上げる。

「この場所に見覚えはあるかな?」
「しらない。おやまのしたには、かわがあるの」
「川? …水辺か」

いづみは「うん、おおきいかわ」と返事してから「あとね、」と言って困ったように顔を歪めた。

「きすけさん、いづみ、あしがいたい」

そう告げると、彼はすぐに屈んで目線を合わせる。短パンから覗く膝小僧は薄っすら擦り傷が。

「…ひざに怪我、転んだの?」
「わかんない、きゅうにいたくなったの」
「きっとボクに会う前に走ってて切ったんスねぇ。応急処置ならあるからそこに座って」

言われたとおり木陰にちょこんと三角座りになると、また懐から何かを取り出した。小瓶には液状のものが入っており、小さな脱脂綿へ吸わせてから「ちょっとしみるよ、我慢して」と、いづみの膝に充てがう。その上から絆創膏を被せた。

「いた、」苦虫を噛み潰したように嫌そうな顔を晒したいづみに、喜助は「はい終わり、よく頑張りました」と頬を指で撫ぜた。
そのまま喜助は「よいしょ、」と脇下に両手を入れ、いづみを軽々と持ち上げる。うわあ、といづみは感じていた痛みなど飛んでいったように驚いた。

「暴れない暴れない。あとはボクが運んであげますから。まだ探すのに日数が必要ですし」

喜助はこうやって時々難しい話し方をする。祖母みたいに柔らかかったり、解らなかったり。とても不思議な男のひとだった。
こうして喜助の片手に抱っこされ、地面を見下ろす。高い位置から眺める景色は真新しく、新鮮だった。

「きすけさん、これたのしい」
「おや、いづみは抱っこが好きなの」
「うん、ばあばはできないから」
「へぇ。そりゃまあそうっスねぇ」

会話をしながら喜助は立ち止まらずに駐車場を出た。

「さあて、此処は一体どこなのか」

彼はそう言って辺りを見やる。電信柱に付いた金属板を見て廻っては、「違う」と言い続けて。そうして道の駅まで着き、ようやく人里らしく地元民を発見した。

「すいません、道に迷ったんスけど、この場所って知ってます?」

当たり障りなく。喜助は野菜売りをしている男性へ、いづみの名札を差し出しながら問いかけた。

「どれどれ。…うーん、知らねぇなあ。そもそもこれ何て読むんだ?」
「アハハ、生憎アタシも何て言うのか分からないんスよ」
「なんだいそれ。その子はあんたのお嬢ちゃんじゃないのかい」
「いえいえ違います。この子とはあの山でたまたま偶然」
「……へぇ、じゃああんたも迷い人ってことか」
「ええ、そうなんス、お恥ずかしいことに。…ただアタシの事よりもまず彼女を家に返してやりたいんスけど、」
「ちょっと待ってろ」

椅子から立ち上がった男性は、奥から何かを持ってきた。

「ほら、これ持ってけ。金はいらん」そう言いながら手渡した古びた地図。
「…そんな、いいんスか? アタシら怪しい人間かもしれないってのに」
「自分から怪しいことを立て続けに言う奴は、逆に正直もんかもしんねぇだろ」
「まあ全部本当のことなんで、正直者なんスけど」
「実は俺も元々よそ者で養子をとっててな。だから気にすんな、お嬢ちゃんも早く帰れるといいな」
「ええ、ありがとうございます」

喜助は目を細めて地図に視線を落とす。
すると、この会話をじっと眺めていたいづみは座った腕の上から「あのね、きすけさんは、わるいひとじゃないんだよ」と男性に告げた。

「いづみをたすけてくれて、あしもなおったの」

真剣に言い募るいづみに、彼は笑って「そうかい。おじさんが悪者に見えちゃったかなあ、ごめんね」と売られていた甘菓子を手に握らせた。

「良かったね、いづみ。お菓子もらえて」
「うん! おじさんありがとう」

大きく礼を告げて道の駅を出る。
最後に後ろから、「分からなかったら隣町の警察行けよー」と心配そうに声を響かせ、喜助はそれに手をひらひらを上げて軽く会釈をした。

また暫く道なりに歩いて、いづみは地図を眺めた彼の様子を窺う。
「きすけさん、おうちわかった?」「まだっスねぇ」しゅん、と眉尻を下げたいづみに、喜助は「大丈夫、ボクがなんとかするから」と微笑んだ。

さっき出会ったばかりの知らない男なのに、いつの間にかいづみは不思議と安心感を得ていた。両親から言われ続けた「知らない人について行ってはいけません」という忠告も、この人にはどうしてか通じなかった。
普段から共働きで慌ただしい生活。いづみは、父親の抱っこが恋しかったのかもしれない。が、幼き少女にそれを自覚させることはまだできず。ただ、悪い人じゃない、その認識だけは心に残った。

「仕方ない、今日はこちらの宿で泊まりましょうか」

地図を交互に眺める喜助が指差す先には、草臥れた旅館。

「ええ、……やだ。おばけでそう」

嫌だと首を振り意思表示をしたものの、受け入れてもらえず。結局泊まることとなった。
こうして、迷子初日。不思議な緑色したおじさんと出逢ったいづみは、数奇な夏旅を過ごすことなった。


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