「お、おはようございます」

コン、とノックしたあと。部屋の前で控えめに声を上げる。結局いづみはチェックアウトの時間が近づき、迎えに来ていた。

「どーも。おはよっス、いづみサン」

待っていたかのように開かれた扉。
目深に被った帽子から仄暗い瞳を覗かせ、口元は微笑んでいる。特異な姿には見慣れた、慣れたくはないのだけれど。

正直このあとどうするのかは考えていない。が、いつまでもこの状態は良くない。それだけは分かっているのでこの人に言うことだけは心に決めていた。これ以上、面倒は見られない、そう切り出そうと。

決心すると足が早まる。いづみは急かすように喜助の先を歩いた。そしてチェックアウトを終え、外へ出た。

彼は「いろいろとお世話になっちゃって、ありがとうございました」と諂いながら横を歩く。そんな風に礼を言われてもこのあと別れるのだけれど。
今はまだ心の内を隠しておいて「ゆっくり休めたようで良かったです」とだけ返した。

にしても今日は格段に暑い。恐らく今日は猛暑日だ。
秋口に入るというのにこんなにも猛烈な残暑のぶり返し。そんな中、追い出すのはとても心苦しく感じたが、考えても堂々巡りに帰すだけなので決定事項は覆さないことに努めた。

家とは逆方向の駅へ向かう信号待ち。立っているだけで、はあはあと。浅く苦しく息が上がる。
とりあえず交通網のある場所まで行けば、彼も元の場所へ帰ってくれるだろうと望んだ。
そして青になって横断歩道へ進んだ矢先、不意に腕が、くい、と引かれた。

「え、どうかしましたか?」

車が来ている訳でもないのに引き留められる。さてはこちらの考えを悟られたのだろうか。喜助は祖母の家で話していた時から勘が鋭く読心に長けている。だが知られたら知られたで、その時にお別れを告げようと思った。

「いづみサン、家へ戻りましょう」

彼は真顔で言いきった。そんなに自分の家に行きたいのかと強めな意思表示が少し怖くなる。

「いえ、戻りません」
「別方向へ向かうのも分かります。ですが一旦戻った方が宜しいかと」
「すみませんが、あなたとこれ以上行動することは、──」
「腕を掴んだだけでこの熱。大量の発汗、おまけに息が浅い。熱中症になりますよ。気づきませんか」

なんで分からないのかと言い募るような最後の問いに、自己管理能力の低さを自覚させられた。風邪とは違うから気づけなかった、なんて弁明するのは駄目な社会人の言い訳だ。

「……ね、熱中、」

渡らねば、と横目で見ていた青信号はチカチカと点滅し始めた。
確かに内側からの熱帯のような灼熱は感じていた。けれど、熱中症かもしれない、と症状を直接言葉にされると一気に滅入っていく。
すぐに信号が赤になってしまった。やけにぼうっとするし、ああもう。項垂れたいのに項垂れたらそれこそ大事になりそうで。

「クーラーが壊れたと仰いましたが、昨晩は涼まれましたか?」
「実は昨日今日と保証会社に連絡がつかなくて…これから業者に連絡して直してもらおうと…」
「では熱帯夜の中、おやすみになったと」
「はい、一応氷枕を敷いたんですけど……。扇風機も処分してしまっていて、お恥ずかしい限りです」
「道理で体内に熱がこもってしまった訳っスね。そうと分かったら長話もよくないんで、一旦帰りますよ」
「え、ちょっと、待っ」

半ば強引に。腕を引いたまま体の向きを変えられた。
ぐらりと視界が歪む。外なのに停電を起こしたように暗がりに視えて。浮遊間に足元が揺らついた瞬間、倒れないようにぐっと両肩を支えられた。

「っと、腕を引っ張ってすいません。こうでもしないと戻ってくれそうになかったんで」

喜助はこちらの顔を覗くように首を垂れる。その声に僅かな怒気のようなものを感じた。向こうだってこんな面倒なことになってきっと虫の居所が悪いに違いない。

「正直体調の優れないヒトを歩かせるよりはおぶりたいんスけど、流石に嫌でしょう? アタシにおぶられるのは」

公衆の面前で、と。それ以前にこの年でおんぶって、それは無い。そもそも不審者の区域から未だ出ていない相手におぶられるなんて。そうも言ってられないのかと数秒返しあぐねた。

愚直に、そりゃまあ、と口では言えなかったので、こんな状況にしてしまった不甲斐なさへ「…すいません」と謝った。この謝罪でおぶられることが嫌だと暗に示す。そう訊いたってことは彼はこちらの思いを先に見越していたのだろう。

「まだ歩けますか」

いづみはそれにコクンと肯いてから「はい、歩くのは大丈夫です」と返した。
喜助は見た目よりも図体が大きかった。体躯が良いというのか、肩を支えられるとヒョロついた印象から実は力持ちだったのかと思い知らされた。
自称死神は人間の体つきとちっとも変わらない。幼少期に見過ごしていた、と言うよりかは幼すぎて大人の体格がよく分からなかった。ただ認識できたことは、こうして大人になって接していても、体型や感触に違いはないようだった。

朦朧としそうな頭で考えることにしては大変失礼で、己を恥ずかしく思う。
喜助は自己を偽らずに接してくれていたのに、一方の自分は色眼鏡を通してばかりで申し訳なくなった。幼少期に面倒見てもらって、会ってみたらこんな大人になっていて、落胆させていると思う。

すると突然立ち止まった。
「ちょっと待っててくださいね」そう言っていづみから離れた。
どうしたのかと顔を上げると、そこには自販機があった。喜助は古びた小銭入れから硬貨を取り出している。

(お金、あるんだ。……ああ、資金はあるけど尽きちゃうって言ってたんだっけ、)

祖母の家で多少は持っていると言っていたことを思い出した。連日ホテル住まいをしたら無くなってしまうから住まわせてくれ、とお願いされて。
飲み物を下から取り出すと、『シオライチ』と書かれたペットボトルを渡してくれた。夏場によくCMで見かけていた飲料だった。

「はい、経口補水液代わりっス。ご自分で飲めます?」
「飲めます。ありがとうございます」

顔中に汗が吹き出して、火照りまくって。恐らく真っ赤な火山みたいになっているであろう顔で喜助を見上げた。ペコペコと頭を下げるとどちらが世話をして、されていたのか。今は確実に自分が迷惑をかけている。

それを手に取ってから蓋をひねった。

あれ、力が、──。

入らない、そう思った時にはすでに喜助がペットボトルを取り上げて、キュッと蓋を開けてくれていた。その自然な動きを目で追うことしかできなくて。こんな些細な心遣いに驚いた。

彼はそれに対して何か小言を言うどころか逆に「すいません、開けてから渡すべきでしたね」とへりくだる始末。かつて幼い頃に抱いた優しいおじさんという印象が蘇っては上書きされる。昔、どこへでも連れていってくれて、何でもしてくれた魔法使いのような面影を重ねていた。

「あ…わざわざすみません、買ってもらって、しかも開けてもらって」

いただきます、と口をつけてごくごくと飲んだ。いい飲みっぷりを披露してから水を得た魚のように、ぷはあ、と息を吐く。

「……生き返った」
「なら良かった」

安堵するように微笑む目尻が柔らかかった。
自分を心配してくれていたことが妙に嬉しくて。調子を悪くして心配されるのはいつぶりだろうって。そんなどうでもいいことをまた考えていた。







再び二人で辿り着く殺風景な部屋。
いづみはへなへなと足取り危うく、対する喜助は暑さを物ともせずに涼しい顔をしている。この人、実はこう見えて体力オバケなのかもしれない。食が細そうに見えて大食らいだったりして。見た目が非力そうに見える人ほど、実際は鍛えてたり。そんな気がする。

家へ上がって真っ直ぐにクーラーの下へ向かった喜助。いづみはじっとりとした汗を拭いながらぼんやりとその背中を見ていた。

「これっスね、つかないクーラーは」
「はい。あと寝室の方にもあって、そちらもだめでした。壊れてるのは室外機の方かもしれないですけど…」
「そっスか」
「あ、いま麦茶出しますね」
「いえ、アタシの方はおかまいなく。いづみサンは先ほどの飲み物を飲んで、氷枕を敷いてから横になっていてください。具合が良くなるまではいますんで」
「……すみません、ではお言葉に甘えます。あ、適当にテレビでも見てていいですよ」

身内から言われたように大人しく従った。
従うというよりかは、敢えてそれに逆らう気力がなかった。熱中症寸前の状態で、何て言い返せようか。ましてや追い出すことなんて。しかも不調に気づいてくれたのに。いづみは感謝の意を以てリモコンを、ご自由にどうぞ、と手渡した。

「なにかあったら私に声かけてください」

はあい、と軽い返事を聞いてからリビングを後すると、寝室扉を開けたままにしてベッドに横になる。
夜の氷枕と違って、昼間の氷枕はオアシスを感じる。また別の心地良さ。タオルに巻かれ、ひんやりと首元が下熱されていく。声かけをお願いしたものの、眠らない自信がない。
いづみは少しでも熱を放出しようと両掌を天井へ向けて目蓋を下ろした。


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