(涼しい……、風がくる)

そよそよとした微風で半身を起こした。あれから何分くらい経ったのだろう。いづみの感覚では数十分程度、目を閉じていただけなのだが。枕元のスマホを手に取ると、すでに夕方を迎えていた。

寝過ぎた。ハッとして寝室を見渡せば、クーラーが正常に動いている。
慌てて寝室を出てリビングへ向かうと部屋明かりもなく、ローテーブルの上に小さなメモだけが残されていた。

『クーラーは二つとも直りました、では。浦原喜助』

走り書きのようで、角ばったりばらついた筆跡の置き手紙。メモを裏返すも、これだけしか書かれていない。
直した? 彼が? そんな機材もなにもない状態で、──。

子供の頃、彼の周りでよくわからない現象に遭遇していた。けれど、あれは記憶違いとかそんなものだと片付けていた。あの風貌で機械が得意だったことにも驚くが。これもまた不思議な出来事の一つなのかと疑心を抱いて、というよりも今の状況が腑に落ちなくて。

(なんで、急にいなくなるかな)

同じ文を何度か黙読してから辺りを見渡した。
壁には好みの写真たちがかけられ、なにも変わらない景色。日常の夕方、そろそろ夕飯を準備しなければならない、のに。
いつもの深海のような静寂さが今は妙に神経を逆撫でしてくるようで、居心地が悪い。この感覚はなんなのだろう。

では、ってなに。
どうして御礼も言わせず勝手に姿を消したのか。なにそれ、むかむかする。この感情に名前がなくて気持ち悪い。

こちらから別れを告げる必要がなくなり、結果としてこれで良い? いや、そんなことはない。これでは逆に喜べない。何かがすっきりとしない。……その何かはわからないけれど。

それに、他人の危うい症状を察知し、家電を二つも直してくれたことへ『ありがとう』のひとつも言えない状況はきっとおばあちゃんだって思うに決まってる、良くないって。いや、祖母じゃなくたって私だって、そう。脳裏にふわりと笑む口許が浮かんだ。

──いづみちゃんはどうしたいんだい? 

夏休みのある日、宿題はしたくないと放った鉛筆。
怒ることもなく拾った祖母にそう聞かれたことがあった。やりたいことを告げるのが苦手でうまく意思表示が出来なかった自分に、『遊びたい』という願望を口に出させてくれた人。その柔らかな声がこだまする。

──そうかい、そうしたらいいよ。

あとから宿題させなかったって愚痴愚痴言われるのは祖母なのに、今になってたくさん甘やかされ、護られていたことに気づいた。
そんな過去を嬉々として懐かしむ間もなく、いづみは喜助のメモを握り締めた。


(……私は、どうしたい)







クーラーが起動することを確認した喜助は、彼女の眠る様子を見届けてから部屋をあとにした。

自身の住む処とあまり変わらない都会の街並み。
景色はじきに夕方から夜へ。闇が近づくと、邪悪なものが蔓延るのだが、さてこちらはどうだろう。調べたいことは山ほどある。だがそれよりも、当初予定になかった寄り道に頭を悩ませては、いづみへ願い出た突拍子もない提案について思案を重ねていた。

(そりゃあ、無理は承知っスけど、ああ言うしかなかった訳ですし)

他になんて言えようか、と溜まった息を宙へ流した。

少し先を歩くと飲食店街のネオンが輝いている。
カラコロと元の居場所となんら変わらない足取りで路地裏を観察。不思議なことに、何もいない。邪な圧は何も感じない。霊の存在はあの遺影の隣で眼にしている。つまり霊なるものはいるのに虚や死神は存在しない世界、ということか。

喜助はあの祖母と対面したことを思い返していた。
無断で線香を上げると、顔を伏しながら現れた老婆。そしてその対話の最後、──。
首裏を掻きながら、困ったっスねぇ、とぽつり声を落とした。

「お兄さんちょっといいかな」
「え、アタシっスか?」

突然、二名の警官に囲まれた。

「なんだか困ってたようだけど」
「手持ちのもの見せてもらっていい?」

有無を言わせず立て続けに問い質される。

「まあ困ってるっちゃ困ってましたケド……」

私情を意図したが恐らく伝わることはないのだろう。
仕方なし、と喜助は胸元に入れていた古びた小銭入れを差し出した。

「これだけかな?」と手に取り、私物を開いては隅々まで確かめている。

「帽子の裏も。あとその杖、見せてね」もう一人は無線機に手を添えた。

これはいざとなったら応援を呼ぶという所作に違いない。感じた以上に怪しまれているようだった。
流石に苦笑が溢れる。全く見知らぬ土地で受ける不本意な仕打ちに。
愛刀を渡したところで仕込杖と見抜かれることはない。だが彼女をこうも簡単に奪われて気分が良いわけがなかった。

「はい、ドーゾ」

帽子をくるりと翻し、杖の握り部分へと乗せる。

「杖はなんで? 補助具でもなさそうだけど」
「いやぁアタシ、膝が悪くてですね」

深くは考えず、舌先ばかりの適当な言い訳を並べていた。
最悪、記換神機で消してしまえばいいとは思ったものの。成る程、警官のこの行為は、──。

「ああ、これショクシツね、ショクシツ。初めて?」

やはり。あちらではその度に記憶をすり替えては逃れてきたのだから、経験上は初めてではない。過去の百年の間に不審者扱いを受けたことは幾度かある。
そして彼らは慣れたように職務質問をしてきては、終わりにこう聞く。

「じゃあ身分証、見せて」

元いた処の身分証も偽造だが。こちらでは商店のある三ツ宮は愚か、空座町すら実在しない東京のようだから、所持品のこれが通用することはまずないのだろう。調べられたら不審に拍車がかかって、架空の住所が明るみになり、偽造の罪に、──。

「……弱りましたねぇ」

そうボヤきながら懐を探すふりをして記換神機へと手を伸ばした。
警官は「なに、身分証ないの?」と訝しげに無線機を持ち直す。

「ないわけじゃないんスけど、」

相手の出方を無視してからあの装置を取り出そうとした、──時だった。


「──こ、この人、私の連れで! さっきはぐれちゃったんです、ご迷惑をおかけして、すみません」


警官との間に割り込んで頭を下げ、走ってきたのか、はあはあと肩で息をする女性。

「いづみサン、」

どうして居場所が分かったのだろうか。
それに追いかけてくるような理由も、そもそも行動は共にしたくない筈では。具合はもう平気なのか、とここに居ることが不思議でならなかった。

「叔父さんどこ行ってたの、迷うから離れないでって言ったでしょう?」

怒気を含んだ声に、腕を組んできてやたら引っ張る。
叔父、ああ親戚同士を装っているのかと理解した。
そして喜助は懐に入れていた手をそっと外へ戻した。

「あの、お巡りさん、うちの身内が何かしました? 本当にすいません、」
「いいや、職質なんだけどね。彼、お姉さんのご家族?」
「はい、母方の弟が地方から遊びに来ていて、そしたらいつの間にかはぐれちゃって……。ね?」

眉尻を下げながら同意を求めるいづみ。
正直、こんなにも嘘がべらべらと出てくるものなのかと、僅かに感心の目を向けつつ「ええ、そうなんスよ。都会で迷子なんて知られたら恥ずかしいなあと」と喜助もそれに乗ることにした。

「必要でしたら、私の身分証で良ければお貸ししますので」

いづみは手早く鞄から財布を取り出した。

すると警官の無線機から何やら雑音が鳴り響く。
「はいこちら──」険しい表情に物騒な事件の匂い。それを口にあてた彼らは彼女の差し出した財布へ手のひらを向けて、仕舞うよう促した。
そして、了解、と無線で業務連絡をし終えると、

「あ、いやいいよ、見たところ何もないようだから。これらはお返します。ご協力ありがとうございました」

何事もなかったように。手のひらを返しながら口早に告げると、ようやく所持品を返却してもらった。

「この辺は最近危ないから気をつけて、じゃ」
「あ、はい、お勤めご苦労さまです」

敬礼する二人にいづみは再び頭を下げた。喜助もそれに倣って軽く会釈を交わす。警官たちの背中が遠くの雑踏へ消えていくまで、いづみは隣でぴったりと腕を組んでいた。

「……もういいんじゃないっスか? これ」

組まれた腕へ視線を落とすと、その言下、いづみは勢いよくバッと離れる。

「わ、私は別に、あれしか思い浮かばなかっただけで……嘘も方便です」
「ええ、分かってます。助けてくださってありがとうございました」

彼女からしたら助けたのだと思う。
まあ自分としては煙幕を放つか何かして逃げ果せるものの、他人の記憶を弄らずに回避する方法は今の行動しかなかったようにも思えた。

「いえ、こちらこそ御礼を言わせてください。クーラーを二つとも直してくれてありがとうございました。なのに勝手にいなくなるんですもん、驚きました」

ああ、それを言うためだけにわざわざ。
昨日から昼間にかけて頑なに一緒にいたくない雰囲気を放っていただけに、この律儀さは祖母譲りなのかもしれないな、と細やかな思い遣りにどこか安堵していた。どの場所でも同じだ。人間という生き物はまだまだ捨てたもんじゃあない。沁みるような人情に、ふ、と空座町に住む人々を想い重ねていた。

「そんな、御礼なんて。たまたま直せただけなんで」

事実を告げると、沈黙。
妙な間があいて、周囲の雑音に溶けていったように会話が途切れた。普通に感じていたことを言っただけなのだが、返答に間違えただろうか。それとも彼女が息を上げて走ってきたせいなのか。

「いづみさん、大丈夫っスか。まだ体調が優れないんじゃ、──」

彼女の顔を覗くと、鋭い眼光で喜助を見上げた。

「……いいですよ、暫くうちに泊まっても」

睨みつけたわけじゃない、これは強い気概を示すものだと悟った。

「おや、いいんですか。アタシとは一緒にいたくないのでは?」
「それとこれは別って言うか、お世話になった人を見捨てることは不本意ですから。……で、うちに来るんですか来ないんですか」
「そりゃあまあ、いづみサンが宜しいのであればお願いしたいっスね」
「よ、宜しいです」
「ハハ、ほんとっスか? 無理しなくていいんスよ?」
「無理してません。でも期間っていつまでなんですか」
「そっスねぇ。あたしが飽きるまで、でしょうかね」
「……はい?」
「冗談っスよぉ。調べることが終わったらちゃーんと帰りますから」

曖昧な返事をしただけに、いづみは物凄く不安そうな表情で顔を顰めた。

「そんな眉間に皺を寄せなくても」
「先が思いやられるだけです。とりあえず今日は戻りましょう。家でご飯作りますから」
「ありがとうございます。ところで部屋数がないと仰っていた件は良いので?」
「ああ、うちのソファベッドなんですよ。倒したらベッドになるものなので、それ使ってください」
「そっスか。いづみさんがそれで宜しければ使わせていただきます」

いづみの言い方は諦観気味というか、些か諦め口調な気もしなくもない。
ただ彼女への接近は、半歩ほどだが進展と言ったところか。

喜助にもそれなりの思惑があった。でなければあの老婆への顔向けできない。老人が、ましてや死人がそう簡単に頭を下げて良い世界など、どこにも在りはしない。在ってはいけない。思念を現世へ残留させることの意味を、喜助は胸の内で反芻し続けていた。


(神隠し、か。……ただの死神なんスけどねぇ……)


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