硝子扉のエントランスを前に喜助と肩を並べる。

──結局ここまで戻ってきてしまった、名案も打開策も浮かばぬまま。

最後まで思案し続けた結果、車内では無言を貫いてしまい、彼もさぞかし居心地が悪かっただろう。眉間に深く皺を寄せながら運転している相手に対して、自分だったら下手に話しかけたくないと思う。

(ああもう、ほんとにどうしよう。どこかへ寄れば良かった。家を知られたら意味ないよ…)

番号を押して開錠。エレベーターに乗ると、一気にこの世の終わりのような絶望感に襲われた。怪しい人物を立ち入らせる自身への危機感のなさ、決断力のない優柔不断な性格、そして何より家族以外の男性を初めて家へ上げること。どれを浮かべても、『最悪』の二文字しか浮かばない。自分自身に対して嫌悪を向けると同時に、これがバレたらこっ酷く叱られるな、と両親の顔が浮かんだ。

──叱られる? 何に? もう自分はいい大人で、善意は偽善であってもすべきでは?

そんな自問めいた返しの一方で、祖母の顔を浮かべると、いづみちゃんの思うようにしたらいいよ、とくしゃくしゃの笑みで説いてくれる。藁にも、いや祖母にもすがりたい想いだった。善悪の判断も出来ずに、自称社会人が聞いて笑ってしまう。

唇を一文字に結んだまま、依然迷いの残る足取りで家に辿り着く。
「こちらをどうぞ」と客用スリッパを置いて、不本意ながら形ばかりで迎え入れた。
「お気遣いすみません、お邪魔するっス」と彼の調子は相変わらず軽い。それが逆にこちらの偽善心を浮き彫りにさせた。別に気遣っている認識はなかったから。こんな気持ちを隠れて抱くことは悪だというような気にさせられて心苦しく思う。

喧騒に囲われた外界と変わって、ここは海の底のように静まり返った部屋。
自分以外が立ち入らない絶対的な安心空間、ただ今だけはその安心を阻まれているけれども。
続いて一歩踏み入れた喜助はぐるっとリビングを見渡した。急な訃報に慌てて家を出てきた割には、それを感じさせないほどには片付いていて良かった。

「随分ときれいで。ウチと大違いっスよ」
「そんな。元々物が少ないだけで、一般的な社会人の部屋ですよ」

この家に越してからは一回の更新をしている。
学生時代に実家を出てきてからは社会人になる際に一度引っ越しをして、それ以来。なので愛着もそれなりに。

「こちらはご旅行かなにかで?」

壁に近づきながら、喜助が尋ねた。

「あ、いえ。私の趣味で飾ってるだけです」

壁掛けの海や砂浜、山々の風景。世界遺産の写真。
程よい大きさに印刷して、アンティーク調の額縁に入れるのが好きだった。唯一の趣味といえばこれくらいかもしれない。趣味というには地味だけれど。

「いづみサンが行った場所のお写真ではなく?」
「ええ、はい。ネットとか雑貨屋さんで見つけたものを飾ってるんですけど、普通はそういうことしないんですかね、きっと」
「いえ、興味関心は人それぞれなのでアタシはいいと思いますけど」

滅多に口にしない自分の好み。それを、変なの、なにそれ、などと否定から入らない彼の肯定は新鮮だった。なんてことない印刷物を、まるで絵画を眺めるように見ながら彼は続けた。

「ですが飾っていたら、行ってみたくなりません?」

ほらこの海とか、と指を差す。
つまり彼が言いたいのは、飾るほど好きなのに何故行かないのか、という互換なのだといづみは理解した。訊かれるだろうなと思っていたことを、用意していた理由で返す。

「そうですか? 見てるだけで行った気分になれるじゃないですか。だからいいんです」

だから、の部分を敢えて強調した。
見るだけで行った気分になれるから、ゆえに素敵なのだ、と伝えたかった。
言い方次第では諦めているように聞こえてしまう。そう誤解されないために、これだけで楽しめるなんて安い趣味でしょう、と言いたげにしていづみは微笑んだ。

「……なるほど。そういう考え方もありますねぇ」

まじまじと写真を見つめては顎に指をあてている。
彼の納得を得られたのか、小さく肯いていた。
いや別に、自分の趣味に賛同など求めてはいないのだけれど。

「あ、クーラーつけますね。まだ蒸し暑いですから」

自身の趣味から話を逸らすようにリモコンを取る。ピ、と音は鳴るも、──。

「あれっ」

何度か、ピ、ピ、とボタンを押して起動を試みた。

「…え、うそ」

クーラー本体はうんともすんとも言わず。
まさか、この猛暑、留守にしていただけで壊れたというのか。祖母の家では我慢して扇風機でやり過ごしたというのに、ここでもそれを強いられるのか。蒸し暑さの脂汗に追い討ちをかけるように冷や汗が滲む。

「……壊れた、つかない」

リモコンを持ったまま、いづみは声を落とした。
後ろから「大丈夫っスか?」と聞かれて、「だ、大丈夫です」と咄嗟にリモコンを背後に隠した。

「えっと、ちょっとクーラーの調子が悪くなっちゃって……。あー、今夜はうちにお泊めすることはできません」

申し訳ないです、と頭を下げた。そして咄嗟にいづみはこの機を逃すまいと思いついたままを続ける。

「この近くにビジネスホテルがあるので、喜助さんがよろしければ今日はそちらに泊まっていただいても良いでしょうか…? 私の名義をお貸ししますから」
「アタシは構いませんが……、いづみさんはそれでいいんスか?」
「私は大丈夫なのでお気になさらず。じゃあ、あとで一緒に行きましょう」

今日はホテルでも大丈夫らしい、良かった、といづみは胸中で安堵の息をついた。
先ほどまで、ホテルに関しては身分証明と資金に対して難色を示してい彼だったが、そこを補えばいけるのでは、とその場凌ぎの提案が功を成した。







「わざわざご手配ありがとうございました」
「いえいえ。明日のチェックアウトの時にお迎えに来ますから、ゆっくり休まれてくださいね」
「はい、ではまた明日」

パタン、と閉められた重厚なドア。
いづみは貼り付けた笑みを崩し、参ったなあ、と眉根を寄せて息をつく。

(いい人ぶるのも大概にしないと、はっきり言わないと、)

全く、行き当たりばったりの自分に辟易する。
いづみは、ホテルのフロントで自身名義の宿泊手配を済ませてから、彼の部屋まで見送った。幸い、明日は休日で自分の仕事再開も来週からだった。
まだ時間は残されている。しかし、何日もこうして泊まらせていてはいづみの財布も危うい。



重い足取りでトボトボと。五分もしないうちに家に着く。何も考えないまま、体に染みついた習慣でリモコンを手に取っていた。

「あ、だからつかないんだってば……」

携帯を忘れたことを忘れて携帯を探しているような自身の行動に思わず突っ込んでいた。突っ込んだものの笑い事ではないので、独りになると苦笑すら零れなかった。おまけに祖母の家と違って扇風機はない。うちわもない。

(ええっと、保証会社の書類どこだっけ、ああーもう)

残暑が厳しい、暑すぎる。
とりあえず部屋を網戸にして通りにくい風を招き入れてから、クーラーを直すべく電話をかける。

「あっもしもし、わたくし瀬戸と申しますが、」
『──なおし下さい。本日の営業は終了いたしました。恐れ入りますが、──』

プツ──。すぐさま電話を切った。
話しかけてから返される自動音声こそ虚しいものはない。まだ営業時間内だったはずなのだが、今日は定休日なのか? なんで繋がらないのか、賃貸の保証会社はどうしてか本日不通だった。
書類を手にしたまま、じっとり滲む脂汗。次第にこの会社への不安が募る。年間やりくりして支払っているのに、一体何のための保証会社なのだろう。昨日から溜め息ばかりで嫌になる。

「……海いきたい……」

ぼそり。
両手を広げて海風を真正面から浴びてみたい。
壁に掛けた夕波小波に輝く砂浜を眺めながら、叶わぬ逃避行を思い描いた。
色々と疲れ切ったいづみは、今日はもうクーラーは諦めよう、と溜まった洗濯や祖母宅から持ち帰った荷解きを進めた。


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