祖母の家を出発し、山間部を下ってから村の道を少し走った。
此処からもうふた山ほど越えなければならない。そうして暫くは山道を行く。家までの道のりはまだまだ長い。

とりあえず家に向かいませんか、とこちらの主導を遮られ、仕方なく家に行くまでに別の案を考えることにした。半ば彼の思惑通りに動いている気がしなくもないが、住まわせることだけは阻止したい。近くの宿に住まわせるか、何か別の方法を考えなくては。牙を向けるような警戒心は消えかけているが、会って二日三日で同居は流石にない。これは常識的な感覚だろう。

考えすぎても堂々巡りして埒があかない。
だがもやもやとした胸の内を吐露できる訳もなく、一旦いづみは運転だけに意識を向けた。
移動中の無言の車内。にわか雨を消す規則的なワイパー音だけが耳につく。
未だ不信感を露わにしていたいづみは、気遣いだけの会話など疲れるだけだと話しかけることは諦めた。

(音楽かラジオ……いや友達でもないし…)

考えてしまう、気を遣いたくないのに。結局自分はこういう性分なのかな、と項垂れたくなる自己嫌悪を悟られぬよう、小鼻から長い息を吐いた。

ようやくの山道を終え、高速道路へ向かって遅めることなく進んでいく。
これへ乗ってしまえばこっちのものだ。曲がり道もなく、迷うこともない。平日の雨天とあって道路も空いている。悪天候ゆえの鬱憤はあるが、訃報を受けて走ってきた往路時に比べたら、寂寥とした窮屈さが嘘のように気が楽だ。助手席に他人を乗せているのに行きよりも心が軽いなんて可笑しいのだけれど。

ウィーン、ウィーン、──左右に揺れる機械音が雨量に準じて増していく。
フロントガラスを打ち付ける雨は、次第にザアザアと大粒に。大分視界が悪くなってきた。高速へ乗ってすぐではあったが、不明瞭な運転に不慣れないづみはこの先を案じて、安全と休憩を優先することにした。

「すみませんが、一旦あそこのサービスエリアに入りますね」

黙って車を走らせること一時間、これが初めての会話だった。

「ええ、お構いなくっス。本降りになってしまいましたし」

彼もこちらの事情を察していたようだった。
まあ、路面に目を凝らしている姿を見ていたら、彼から雨宿りを提案されるのも時間の問題だっただろう。

入ってすぐの駐車場にあまり一般車はなく、物流トラックが目につく。
同じように雨宿りか寝泊りの仮眠しているようで、閉まったカーテンが印象的だった。
サービスエリアはどうしてか遊園地の駐車場のように胸が躍る。これは自分だけだろうか。幼い頃はあまり遠出をする機会がなく、夏休みのおばあちゃんの家くらいだったために、その往来時に立ち寄るサービスエリアはちょっとしたアトラクションだったのかもしれない。
ただ、今日に限っては何の楽しみもなく、おまけにどしゃ降りだけれど。

「車はここに停めますが、雨宿りですし車内にいますか? それとも売店とか行かれますか?」
「ただ待つのも退屈でしょうし、中へ行ってみません?」
「ええ、いいですよ」

待つのが退屈。雨宿りとはそういった待つためのものだが。そこについては人それぞれの考え方が異なるので聞き返さなかった。
外へ行くと言うので、いづみは後部座席に乗せてあったビニール傘を一本彼に手渡す。

「あれ、いづみサンは行かれないんですか?」
「え、行きますよ?」

たった今行ってみません? と誘ってきたのは貴方では、と訝る。
やはりこの人とは会話のキャッチボールがなっていない気がする。
いくら幼少期に世話になったとは言え、それっきり。十年以上は経っているし、なんだかこの人の雰囲気は少し苦手になっていた。しきりに漂わせる大らかな人柄か、自分にはない、明るさとおちゃらけた風貌がそう感じさせているのかもしれない。

「じゃあ、これで相合い傘っスかね」

どうしてそうなるのだろう。一本しか傘を渡さなかったら一緒に入るという短絡的な思考にも呆れてしまう。

「あ、私は自分のがあるので」

上辺で笑って、鞄の中から折り畳み傘取り出した。
「なあんだ、そっスかあ」という声も茶化しているのか落胆気味に響かせている。そこを突くのは面倒なのでいづみはそれ以上声を返さなかった。

それぞれが雨をくぐりながら売店へと急ぎ足で向かって行く。
──ああ、やっぱりこの場所はどこか懐かしさがあって好きだ。
祖母の家へ送る時に迎えに来る時、必ず両親が寄ってくれたところ。旅行先での高揚感、これに通ずるものを昔に感じていた。忘れものを思い出したようで妙に嬉しくなった。

「あのー。朝ごはん食べてないですよね?」

横に並ぶ彼に問う。当然取ってないだろうというこちらの勝手な予想だが。
下山して来たばかりのような今朝の様相を見れば、その察しがつく。

「ええはい、まだっスけど」
「私も小腹が空いていて。じゃあ、あそこで何か食べましょうか」

なにがいいです? と問うと、彼はこちらをきょとんと見てから答えにくそうにしている。きっと代金を気にしているのだろう、といづみは続けた。

「お金のことは今は気にしないでいいですから」

今は、だ。
これを重ねると家に住まわせる羽目になってしまう。お腹が空いている人を突き放すほど、人間ができていない訳じゃない。世間一般の道徳心はこれまで学んできた。
一方で、だったら最後まで面倒を見てやればいいのに、と別の自分が言う。それとこれとは話が別なんだよ、と一人っ子特有の会話をもう一人の自分へ投げ返した。

彼は「恩に着ます」と軽く会釈をするように頭を下げた。
直前の事を考えたら、頭を下げられていい人間ではない気がしたが、言わなければ分からないことだ。いづみは「そんな、お気になさらず」と定型句で返した。

「なにかお好きなものはありますか?」

先の質問に続けて聞く。
すると、「いづみサンが食べたいものであれば」と彼から選択権を委ねられた。奢ってもらう立場からか遠慮しているのかもしれない。そうであれば仕方がない。

うーん、といづみはフードコートのような食事処をぐるっと見渡す。
過去、こういう時の選び方はまず両親が『いいよ』と言うものを選んでいた。それは結果として自分の好きなものでもあるけれど、前提として彼らの好きなものと合致していなければならなかった。こちらが一番好きなものを言ったところで、『よしなさい』と何かと理由をつけて断られた過去が、幾度とある。

「じゃあ、あの和食屋さんはどうでしょう」

遠くの対面にある総合的な和食屋を指さした。

「アタシはなんでも大丈夫っスよ」

あまり喜んだようには見えない。特段和風ものが好きな訳ではないのだろうか。彼の風貌からして、きっと和食なら好きだろう、と。また相手に合わせてしまった。結局、大人になっても、寧ろなってからは一層。相変わらず人の顔色を窺い続けているのだと自覚した。
更には、それとも本当になんでもいいのか? などと思ってしまってほんとうに勘ぐり深いと思う。

もう決めたのだから、と不安を抑えてこじんまりとした売店まで行く。
そこでいづみはさっぱりとしたざる蕎麦もいいなあ、と上部に掲げてある簡易メニューを見上げた。こういう時の判断は早い。何に決めたか彼に聞いてから、二人分の注文を受取口で待った。

「お待たせしました、ざる蕎麦のお客さまー、こちらは鯖定食のお客さまー」
「はい、ありがとうございます」

いづみは店員からお盆を受け取って近くの席へ向かう。
平日の大雨とあってか、この朝とも昼とも言えない微妙な時間帯では人もまばら。ほぼいないに等しい。

「どうぞ、定食とお水です」

彼の側へそれぞれ置いた。
それに感謝を告げられてから、「いただきます」と手を合わせると対面の彼も同じように「いただきます」と紡ぐ。それは昨日までは返ってこなかった言葉。山びこのようではなく、ちゃんとヒトの声をした対話だ。

(誰かとご飯を食べるの、いつぶりだろう)

昨晩、一人で食べても一人な気がしない、と思っていたのに。
やっぱりあれは強がりで、痩せ我慢だったのかもしれない。
たとえ無言でも人を前にして食べるだけで、こんなにも穏やかな空気が流れるものだろうか。実家での食卓も両親と時間がずれていたり、彼らと食べていた頃を思い返しても時が経ってしまっていて感覚を忘れてしまった。
社会人になった今では毎日のデスクご飯。その上、同僚とは極力食べに行かない。休憩時間まで気疲れしたくないという社交性に欠けた理由だが。

同僚でもない、家族でもない人と共にする食事に不慣れな居心地を覚えつつ。
俯き加減に口を結んでいると、いづみはつけ汁に映る自身と目が合った。

「どうしたんです、食べないんですか?」

割り箸を割ろうとしたまま、うっかりぼうっとしてしまった。
彼も奢られている身。こちらが食べないと手をつけられないのかもしれない。

「いえ、ちょっと考え事を、」

パキッと箸を割って、気にせず食べてくださいね、と彼の定食に向けて手を差し出す。
自分も蕎麦を、と啜り始めたあたりで、あ、昨日の夕飯も素麺だったな、と浮かんだ。麺類ばかり選んでいるのは一人暮らしの悪い癖かもしれない。いや、一人暮らしの所為にしてしまったけれど、単に作るのに手間がかからず一食分を作りやすいだけであって。こういう場所では定食にした方が良かったかな、と彼の焼き鯖定食に目を移した。

彼も味噌汁を食べ始めていて少しほっとした。あまり遠慮されてもなあという小さな悩み事は消えてくれた。

「ひょっとして鯖定食が食べたくなりました?」

顔を上げると、まるで親が子を見るような眼。
そういう訳ではないのに食い意地が張ってるように感じて恥ずかしくなった。
「そ、そんなことは」と否定しても眼が欲しがっていたのかもしれない。定食にすれば良かったと思った時点で目が口以上に物を言っていた。それに気づいた時には小っ恥ずかしくも自滅していた。

そのまま無言で黙々と箸を進める。
美味しいですね、と言うべきところだと思うが、フードコートのような即席料理に美味しいですねとの共感は伝え難く。結局、最後の蕎麦と一緒にそれも呑み込んだ。口内に濃いつけ汁のしょっぱさが残る。水を含んでごくごくと飲み干してから、ようやくこの沈黙破った。

「……あの」
「なんでしょ」

彼もほぼ食べ終わったようで、箸を置いた。
帽子から覗く瞳は真っ直ぐと自分を見ていて、昨日の今日で見慣れない風貌に怖気づきそうになる。小さい頃はそうでもなかったのに。

「き、浦原、さんは、」
「そんな言い直さなくても。昔みたいに呼んでくれた方が有り難いっス」

うっかり出かけた名前。そのたったの一瞬を、彼は聞き逃さなかった。自身のコミュニケーション力の低さを露呈させたようで、耳が熱い。

「喜助、さん?」
「しっかり憶えてるじゃないですか。で、なにか気になりました?」
「……喜助さんは甘いもの大丈夫ですか?」
「ええ、駄菓子屋の店長っスから」
「ではちょっと待っててください」

いづみは席を立ってある場所へ向かった。数分して、両手に糖分を掲げて戻ってくる。

「どうぞ、ソフトクリームです」

バニラ味、二つ。喜助に一個を渡した。サービスエリアと言ったらこれ無しには終えられないのだ。
それに食後の甘味は今後の行動意欲を左右すると言っても過言ではない。
いづみは溶け始める前に、ぺろ、と舌を出した。

「あの時と逆っスね」

喜助は何かを思い出したように続けた。

「ほら、山を下りた道の駅でも同じように食べたでしょう」
「あっ懐かしい」
「いづみサンは甘いものが大好きでしたから」
「私と甘いものは切り離せないですね」
「六才の時もアタシに駄菓子をせがんでばかりで大変でした」
「そ、それは覚えてないかな…」

でしょうね、と苦笑気味に返された。

「でも確かあの時は喜助さんが買ってくれましたよね、アイス」
「はい、お話したあとはたくさん花火をして、蛍を見て」

いづみは舌を引っ込めて、ぽつりと呟いた。

「一番、楽しかった」

あの夏を忘れたことは一度もなかった。
寧ろ、夏風が肌を撫ぜるたび、生い茂る草の香りを嗅ぐたび、なんとも言えない感動が蘇っていた。ひっくり返した宝箱みたいな星空は、まるで映画のワンシーンのようで。自分だけの物語を、毎夏毎夏、胸中の遠くから眺めては羨む。
あれ以来、わくわくと心躍って壮快という情感をなかなか探し出せなくて苦労した。学生時代を謳歌しなかった訳じゃない。ただもう一度、あの場所に行けたらいいのに、この景色が山緑に塗り変わればいいのに、と。勉強だの理想だの、不快な路を歩かされ。何度、来年こそはと願ったことだろう。最後までそれは叶わなかったけれど。

単に過去が美化されすぎているだけかもしれない。
だが数時間が一生にも感じられた、あの夏の小旅行が最も美しく彩られている。

「いっぱい遊びましたもんねぇ、あの日は」

宙を見ては懐かしむ彼。
向こうにとって当たり前の風物詩も、いづみにとっては唯一、一回だけの出来事。子供遊びの経験が圧倒的に少ないいづみは、空気が翳らぬように「はい、ほんとうに素敵でしたね」と微笑み返した。
ただ、あの時の相手は喜助ではなく親戚の叔父さんだと誤認していたけれど、今思えば親戚の叔父さんはそんなことしない人だな、とようやく納得に至った。

思い出話に花が咲くと、ソフトクリームが溶けそうになる。
「あっあぶない」昨日の二の舞にならないよう、垂れる前に下のコーンまで食べ尽くした。ソフトクリームがコーンの下まで詰まっていたことに小さな幸運を覚えながら、満腹感に浸る。細やかな幸せの見つけ方だけは、我ながら上手だったりする。

「ご馳走さまでした、いづみさん」

喜助は手を合わせたあと、軽く首を垂らした。

「いえ、私の方こそあの節は。ご馳走さまでした」

同じように軽く頭を下げる。
これでやっと過去の清算ができたようだった。
ふ、と建物の入り口を見ると雨は収まりつつある。出るにはちょうどいい。同じように外の様子に気づいた喜助が「そろそろ行きますかね」と腰を上げた。「はい」といづみはなんの躊躇いもなく彼の合図に乗ったが、運転するのは自分だと思うと、なんだかやっぱり彼の調子に呑まれ気味な気がする。

(……うーん、結局、彼の宿探しについて全然考えられなかった……)

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