▼ 36 追跡
「おい! おい待て、アディル……!」
激しく息を切らす剣士の男は山中で立ち止まり、中腰で訴えた。
振り向いた不死者は汗ひとつなく、不機嫌な様子で近づいていく。
「なんだよおっさん。これ以上遅く出来ねえぞ」
「……あのな、三時間以上全力で走る体力は、さすがに俺にもない」
汗を拭って背を伸ばし、ゾークは日差しの柔らかい秋の空を見上げた。
死霊がはびこる夜の森に変わるまで、まだ時間はある。だがアディルは急いでいた。仲間に追跡されないように。
「山道を突っ切るなんて、君は大胆だな。まさかこの年で崖上りをさせられるとは思わなかったよ。少し休憩しよう」
「はあ。ったくしょうがねえな。あんたのせいで俺の計画がどんどん狂ってるんだが」
文句を言いながらも本気で見捨てようとはしないアディルの甘さに、ゾークも段々と気づいていた。実際は油断する機を伺っているだけなのかもしれないが。
「あんたどこまでついてくるんだ? もういいだろ、そろそろ」
「それはこっちの台詞だよ。家出された側の気持ちを考えたことはあるか?」
年長者らしく諭そうとするとアディルは黙る。ゾークも経緯を知ってるだけにそれ以上は何も言わず、取り出した食料を口に入れていた。
「……誰よりも分かってる、そんなことは。なあ、ゾーク。あんた家族は」
「ああ……家族か。年寄りの身内はいるが、親はもういない。……昔、添い遂げたいと思った女性はいたが、うまくいかなくてな」
その為独身だといい、哀愁漂う剣士の横顔が気になったアディルは話を聞いた。
なんでも彼女は結婚するなら仕事を変えて欲しがったらしく、ゾークは叶えてやれなかったのだという。
「俺の家系は皆戦士だの魔術師だのと、戦う人間が多かったんだ。だから自分だけそこから抜けて、安全なところにいるのは許されない気が勝手にしていた。……そんなわけで未だ寂しい独り身さ」
わざとらしく自虐するが、寂しい人間には見えなかった。強迫観念から無理に仕事をしているようにも。
彼からは確固たる信念のようなものが、どっしりした体躯から滲み出ている。
「そっか……でも好きなんだろ、仕事」
「そうだな、分かるか。これしか出来ないしな」
ふっと笑った顔つきにアディルは惹かれた。ただ依頼された仕事なのに、よほど面倒見のいい男らしいという事は伝わる。
「……でも俺は退かないけどな。さあ休憩は終わりだ。俺についてこれるまで頑張れよ、おっさん」
「もう終わりかい。もうちょっと目上の者を労わってくれてもーー」
若者に促されて立ち上がろうとした時、アディルの目つきが変わった。別方向をじっと見て、耳を澄ましている。
その異様な集中力と金の瞳の動きに、ゾークも口を閉ざし警戒した。
「ーーくそッ。あいつらの声がする。フィトとシスタ、ゾルタンもだ。……チッ、先回りされてたみたいだ」
「本当か? 何も聞こえないが……気配も」
剣士は剣に手をやりながら見渡すが、小動物一匹さえ姿を見ない。
不死者の研ぎ澄まされた超感覚に驚いた。
気づかれないようにゆっくりと後ろ手に気を集め、無詠唱で術式を試みた時だ。
瞬時に背後に回ったアディルに、ゾークは背を強く押さえられた。
「……おい。ふざけんじゃねえよ。あいつらに合図でもするつもりか?」
「ふふ。君は本当にすばしっこいな。その気だったがもうやめたよ。……降参するから離せ。俺はまだ君といたい」
どこか歯の浮くような台詞を中年男に投げかけられ、アディルの戦意が削がれる。
身体を離した後は、違う方向に向かってまた走り出した。
舌打ちをかみ殺したゾークは、再び黙って不死者を追いかけ始めるのだった。
◆
そうしてまた時間が経ち、二人はある街中に辿り着いた。くすんだ茶煉瓦の建築物が並ぶ通りを歩き、アディルは額を押さえた。
「ああ、ここどこだよ。なんだか頭がはっきりしねえ。……ゾーク、あんた道分かるか」
「分かるよ。君より土地勘あるからな」
連れ戻そうとする自分に聞いてどうするのかと突っ込みそうになったが、剣士は疲れた様子のアディルを注視する。
この街は昔の戦火に激しく焼かれた地で、死霊により穢れた場所が多い。きっとその影響が彼のような「人ならざる者」にも出ているのだと考えた。
「アディル。もう日も落ちる。今夜は宿で休ませてくれないか。夜の闇は危険だと君も知っているだろう」
険しい顔をしたアディルは返事をしなかったが、どうにも感覚が鈍り、重い空気に足をすくわれそうな嫌な感じがした。なので広い街の辺鄙な地点まで移動し、その中でも一段とみすぼらしい宿に入ることに決めた。
男が寝た隙に窓から逃げればいいと、おぼろげな思考をまとめながら。
しかし剣士のゾークは、そう簡単に考えていた若者よりも遥かに熟練者だった。
宿に着き、逆にベッドで一息ついたアディルの隙を突いて特別な結界を張る。その上、アディルの手首に魔法の輪のようなものをくくりつけ、部屋の中心から伸びた魔力の鎖につなげた。
「なんだよこれはッ、てめえ、ふざけんじゃねえぞ! 俺を舐めるなよ、喉を掻っ切ってやろうかッ!」
悪魔の力はないが、怒りに滾って牙を出す仕草をする不死者の前で、ゾークは不動の面持ちで立つ。
「そんなことをするような人間じゃないはずだ、君は」
「うるせえ! あんたに何が分かる! 俺は善人じゃない、人を殺したことだってあるッ」
「自慢にならんよ、この界隈なら誰でもしてることだ」
ゾークはようやく休めると、ベッドに横たわった。
不死者のうなり声が聞こえたが、一か八か、自分の魔術を信じ、アディルの良心を信じるしかなかった。
魔術師には魔力を溜めるため、ある程度の休息が必要なのだ。
やがて剣士がイビキをかき出すと、アディルは激しい形相で睨みつけたまま、床にしゃがみこんだ。
「こんなこと、兄貴にもされたことねえよ……クソジジイが……」
口汚く罵り、ベッドの足側の囲みに頭をもたれかからせ、目をつぶった。
ーーけれど、さっき自分が油断していた時に、強制的に連れ戻すことも出来たはずだ。この剣士の力量ならば。
だからアディルは深いため息を吐き、もう一度頭をうなだれた。
人の睡眠が心地よく楽しめるのは、兄といる時だけだ。
アディルは気づくと目を閉じて床に横になっていた。
兄は心配しているだろうか。怒っているだろうか。
きっとその両方だろう。申し訳ないと思うけれど、仕方がない……。
不思議とまどろみながら、シグリエルの顔を思い出し、触れられた時の感触を思い起こしていた。
『アディル』
だが、脳に響いたのは父の声だった。
アディルはまぶたを細かく動かし、起きようとするが金縛りに合い動けない。
『アディル。偉いぞ。私のもとに一人で来ようとしてくれたんだな。とてもいい子だ。……だが、そろそろ慣れ合いも終わりにしろ。……そこで眠っている、だらしのない剣士を殺せ』
そう命じられ、アディルは必死になって眼を開けた。
そこは真っ黒な夢の中で、金髪に青い目をした、転生した容貌のマルグスに見下ろされている。
「あ……っ……、俺は……、親父のところに行くよ、だから」
『早く殺せ。お前は兄以外必要ないはずだ。出来るな?』
またあの優しい上っ面の微笑みで、息子に命じる。
アディルは震えていた。肩から足にかけて、全身が恐怖に慄いている。
ゆっくり瞬きをすると、視界は現実に戻っていた。
暗い客室が現れ、部屋の中央の大きなベッドに、中年の剣士が大の字で眠っている。
アディルの魔法の鎖は解かれていた。誰が、どうやってやったのか分からない。
だが、一歩一歩、確実に自分の体は眠るゾークに近づいている。
「ゾーク、起きろ……」
消えそうな声で呟いた。
「起きてくれ、ゾーク……っ」
涙が出そうな声でアディルは懇願するが、剣士は目覚めない。アディルの脳裏にゼスとエルキの死がよぎる。
「起きろよおっさんッ!」
そう叫ぶと同時にベッドに乗り上げたアディルの体は、素早く長剣に手を伸ばし上体を起こした剣士に取り押さえられ、馬乗りにされていた。
「…………ん? アディル……何か言ったか」
まだ寝ぼけているのか、片腕は抑え込み、もう片手で目を擦る上半身裸の中年男に、アディルは首を振る。
「寝込みを襲うとはーー待て、どうやってそれを解いた。……おかしいな。頭がぼうっとする。なにか変だ……催眠か…?」
ゴツゴツと自身の頭を叩く剣士は、左右に振り、ようやくはっきりと覚醒してきたようだった。
するとアディルの頭の中で男の舌打ちが聞こえた。
『……なぜだ……クソッ……』
アディルは剣士の下から這い出て父の様子に耳を澄ます。ゾークが目覚めたのは彼の力によるものも大きいだろうが、父の魔力の弱体を示していると感じた。ゲーナ族の力は確実に影響を及ぼしているのだ。
『アディル。奴を殺せ。兄を助けたいんだろう?』
「うるせえ! 俺は誰も殺らない!」
『まったく……どいつもこいつも、甘ったれた兄弟だ。……ならばお前のもう一人の大事な人間を殺すぞ?』
アディルの動きが止まる。一人で話し始め、途端に凍りついた不死者の肩を、剣士も「おい」と呼び止める。
「やめろ、やめてくれ……それだけは……」
弱弱しく訴えると、父の笑い声が響いた。
その時だった。宿の部屋の四角い窓に、黒い煙が通り現れる。それは不気味な悪霊の形をしていた。
ゾークは咄嗟に立ち上がり、両手を構えて狙いを定めようとする。
『……あいつめ!』
だが気配を感じ取ったマルグスは、先にその場から消えてしまった。
窓の外の煙はシグリエルによる追跡物だ。それに気づいたのはゾークだけでなく、父が消えて動揺しているアディルも、すぐに窓際に向かった。
「おっさん、これは危険なものじゃない、兄貴のやつだ」
「……ああ。彼の気を感じるな……」
悪魔の力と混ざり合った強力な存在感に、ゾークはやや顔を背けたが、見つかってはいけないはずのアディルは、一瞬安堵を浮かべていた。
だがすぐに我に返り、部屋から出ようとする。
「ゾーク! 俺を早く戻してくれ!」
「なんだとっ?」
「ラノウが危ないんだ! 親父に狙われてる!」
そう叫ぶと剣士の顔つきが変わった。すぐに転移魔法を使おうとする。
だが、彼らの行動を考えてみると、皆ばらけているはずだ。今屋敷に戻ってももぬけの殻だろう。「くそッ」と悪態をついた時、窓ガラスが勢いよく割れた。
二人が顔を出して外を確認すると、正面の建物の屋上に人影があった。
朝焼けを背景に青ローブを着た白髪の男が、にやりと口元を上げてこちらを見ている。
「サウレス!」
「見つけたぞ。まったく、こんなものをあいつが放ったせいで、街全体がさらに曇っている」
言いながら、サウレスの周りをぐるぐると浮遊する追跡物を手のひらで捕まえ、腕に吸収させた。不死の腕は青白く光ったが、やがて落ち着いていく。
「アディル、早く来い。僕をこれ以上無駄に働かせるな」
「ーーっく、おっさん、掴まれ!」
「ああ?」
自分より体重の重い相手を軽々と担ぎ、アディルはなんと窓から飛び出した。
落ちる、と思ったゾークだが、驚くべき足の跳躍で向かいの建物のバルコニーに乱暴に着地する。
すぐに動き出したアディルはそこから剣士を背負って壁を這い上り、あっという間に屋上へ出た。
「お前は獣か。おぞましい動きしやがって」
「サウレス、ラノウはどこだ!? すぐに送ってくれ! 危ないんだ!」
切羽詰まった不死者の言動にサウレスは目の色を変える。
この状況で、相手は本気だということを瞬時に理解した。
しかし、サウレスはゆっくりと後ろを見やる。
先程までなかった淀んだ空気の渦が、背後から三人を覆うように黒い影となって侵食してくる。
現れたのは灰色の古い鎧をまとった、仮面つきの騎士だった。それも左右から二体だ。
「なっ」
「君達はすぐに行け。ここは俺がやる」
ゾークは背に携えた剣を抜き出し、間合いを取って構える。
サウレスは眉間に皺を寄せ、剣士を見やった。
「で、でも、あんた二体も……!」
「大丈夫だ。こう見えて俺は白魔術師でな。似合わないだろ。だが悪霊祓いは慣れている」
剣に白いオーラをまとわせた剣士は、サウレスに叫んだ。
「早く行け!」
「ーーああ。分かった。悪いな、ゾーク」
死霊術使いのサウレスは、強敵を見やり、些か後味の悪さを覚えながら転移魔法を使った。
そうしてアディルと二人、当主のもとへ向かった。
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