Undying | ナノ


▼ 33 犠牲心

シグリエルは真っ暗な精神世界にいた。
そばには黒翼が広がる背中を剥き出しにしてディーエが倒れている。

「クックック……馬鹿なやつだ。俺を苦しめることは、お前を苦しめることになる。……よほど苦痛が好きらしいなぁ? シグリエル……」

そう呟き転がる悪魔を見下ろす黒目は冷たい。

「俺の上に立ったつもりか…? 甘いぜ、甘い甘い甘い。くくっ……ベルンホーンは俺らのことなんざ鼻も引っかけちゃいねえ。……お前らは皆死ぬんだよ。へへへへッ……」

口端を上げディーエが静かに嗤った。
シグリエルは表情を変えない。まるで初めから解っているように。

「それでも俺は前に進む。もう戻る道はない。アディルと一緒ならば、それでいい……。お前も道連れだ、ディーエ」

迷いの無い声は、より暗い闇の中に吸い込まれて消えていった。





シグリエルは夜になるまで眠っていた。討伐メンバーは当主所有の古びた屋敷へ移動し、消耗から目覚めない悪魔つきの男を寝台そばで囲む。

「実験要素があったとはいえ、あんな無謀な真似をするとは。悪魔が反撃してきたらどうする。彼は自己犠牲の塊か? 褒められたものじゃない」

黒ローブの青年魔術師シスタは眉間に皺を寄せ言い放つ。
隣の若き魔術師フィトは腕を組んで同情気味の顔つきだ。

「まあな……けどこいつ抑えられてただろ。悪魔つきとはいえ人間の男にあれだけ本気で拘束かけたの初めてだ。後味悪いぜ」

そうこぼす真剣な二人とは対照的に、横たわる体に治癒魔法を施してやっているサウレスは一言「ただの自傷癖だろ。面倒くせえ」とぼやいた。

当主も同じく様子を見守っていたが、今やその眼差しは仲間に向ける親身なものに変化している。

「とにかく真っ先に命かけてくれたんだ、見直したぜ。シグリエル」

お疲れといった風に肩を叩くと、皆も異論はないという態度だ。
それから男達は起きたら教えろとアディルに告げて出ていった。

部屋の隅でじっとしていた剣士のゾークも最後に寝室を後にする。
だが皆が個室や居間に散っていったあと、自分は外の廊下に残り、窓から庭を見ながら煙草に火をつけた。

空が暗くなり、廊下の蝋燭がはっきりと浮かんでくる。 
しばらくしてゾークの耳に話し声が聞こえた。神経を研ぎ澄ますと、不死者の弟が話している。

気配を絶った剣士はより近くで会話を聞こうとした。

「なんであんな無茶したんだよ。俺はいつも置いてきぼりだ、あんたに……」

独り言かと思ったが、やがて物音がした。

「……起きたのか? 兄貴……っ。大丈夫か……?」

寝台が軋む音がし、耳を澄ます。ゾークは兄弟の関係性が気になっていた。辛い生い立ちや兄の根性は分かったが、伯父を口車に乗せて利用しているだけの可能性も捨てきれないからだ。

仕事には慎重な壮年の魔剣士が、命をかけるからにはより真剣だった。

「……アディル。俺は平気だ。そんな顔をするな。……必要だった」
「だからってな…! 俺は兄貴が苦しむのは嫌なんだよ、なんか考えがあるなら俺にも言え、ひとりで決めんじゃねえっ」

悲痛な叫びのあと、二人は静かになる。衣服の擦れる音から、抱き合っているのだと推測した。
しかしやがて、その場にそぐわない音がする。唇が合わさるときの、なんとも言えぬいやらしい響きだ。

「ん……っ……ごまかす…な」
「……そんなつもりはない、お前に触れたいだけだ」

口付けの音にまぎれ、シグリエルの吐息も聞こえた。
ゾークは晴天の霹靂といった面持ちで固まる。
仕事柄、男達の中で最も高い経験値を誇る剣士だが、これは異常事態に思えた。

「…………」

動揺した剣士は踵を返し、その場を離れようとした。
だが運悪く床板がきしむ。ぴたりと止まったゾークは一転覚悟を決め、兄弟の部屋に向かい扉を叩いた。

室内は一瞬静まり、「入っていいぞ」と弟の短い反応が返る。

「失礼。もうそろそろ起きる頃かと思ってな」

何食わぬ顔で手を上げ、ゾークは剣を携えて室内に入った。
アディルは立って兄と距離を取っていたが、ほんのり染まった顔色が目立っていた。

兄のほうは冷静そのもので、頷いて挨拶をする。

「あんたすごいな、確かにさっき起きたんだ兄貴」
「ふふ。……大丈夫か、シグリエル。やはり心配でね。悪魔を宿すことは不測の事態も多いだろうからな」

黒髪髭面の剣士に見つめられると、シグリエルは同意する。

「そうだな。だが俺は問題ない。……悪魔と精神世界で話をした。あいつは懲らしめられて弱っているようだった。一時的にだが。……俺が支配してみせる」

率直に表明したシグリエルに剣士は驚きつつも、顎を擦り考え込むように頷く。

「無理はするなよ。悪魔の「中身」と「皮」は人間の想像が及ばない面もある。まあ今は俺達もいるから、そこまで負担に思う必要もないが」

そう寄り添い、不思議と心地のよい波長を漂わせる剣士を兄弟は見つめた。

「じゃあ皆のもとへ行こう。連中、夜通し作戦会議だって待ってるぞ。君達を」

ゾークに言われ、兄弟は瞳に真剣味を宿し腰を上げた。

後をついていく剣士は、密かに頭を悩ませる。
二人が兄弟に収まらない関係だということは想定外だった。

いつからなのか、常に命の危機に晒されているこの状況が関与しているのか、当事者でないゾークには定かではないし関係もない。

けれど、さきほどの熱く睦まじい様子を思い返すとどこか痛ましい気持ちになった。
伯父は知っているのだろうか。知らせるべきだろうか?

ーーいや。よそう。

だから何だという話だ。
一瞬悪魔契約による背徳と堕落の影響なのかと思ったが、シグリエルからは精神を侵されている感覚は伝わらなかった。





夕食時、皆は格式高く整えられた食卓に着いていた。使用人が並べる食事を口に運びながら、酒と会話を楽しんでいる。

殺伐とした空気でもおかしくないのに、意外に落ち着いた面々だ。
そうアディルが指摘すると、フィトが大口で細身の体に肉を勢いよく詰めながらフォークで兄を指した。

「お前の兄貴のせいだろ。あれで皆引いたからな。いい意味で。脳は興奮状態だが、頭は冷えた」
「そ、そうか。それならいいんだけどよ」
「ハッハ! 俺もぜひ見たかったな。ラノウの指示で遅れちまって見過ごしたよ」

豪快にジョッキを飲み干し笑ったのは、傭兵のまとめ役であるゾルタンだ。傷の多い鍛え抜かれた体躯をした銀髪の男で、最も戦闘に長けている。

「しょうがねえだろ。朝急に兄ちゃんに言われたんだ。アディルがあの野郎の夢を見たとな」

そのことをまだ知らなかった魔術師らは手を止め、弟に注目する。
顔つきを険しくしたアディルは自分の口で説明をした。もちろん、夢の中で父と何があったのかは誰にも言うつもりはない。

話の後父に呼び出された赤夢湖へのルートを記した地図を、ゾルタンが食卓に広げた。

「俺は軍にいた時、国中を回った経験があるんだが。この赤夢湖というのはかなり険しい渓谷の中に位置していて、魔物も多く軍も滅多に近づかない危険区域だ。湖は文字通り赤い淡水で、大昔に集団自決があったともいわれるいわくつきの地だな」

シグリエルや当主は耳にしたことがなかったが、ゾークを含む魔術師三人は詳しく地名を知っていた。

とくに悪魔や魔物の被害者救済に携わるシスタは厳しい顔つきで語った。

「……赤夢湖か。歴史的に見ても、個人や国による魔物召喚の舞台となることが多々あった瘴気の酷い水域だ。辿り着くまでも油断ならない。しっかりと準備をしていこう」

男達は同意し、具体的な作戦の話し合いへと移る。
だがそこへアディルが思わぬことを言い出した。

「俺が囮になるよ。わざわざ俺を名指ししてきたって事は、親父は弱っていて余裕がないんだ。俺ならゲーナ族の力で隙をつくチャンスを作れる」

弟の申し出に対し、当然のごとくシグリエルが眉を寄せる。

「だめだ、狙いはお前だ。あいつは俺達のことなんかどうとも思っていない。お前を守らなきゃいけないんだ」
「大丈夫だよ。俺は不死者だ」
「そうじゃない! 奴が狙っているのは魂だ、悪魔に捧げて完全体になるつもりなんだ。だから馬鹿なことを言うな」

語気を荒げる兄に周りの皆も同調した。しかし弟は一向に首を縦に振らない。
シグリエルの興奮が強まっていく。

「俺に勝手に決めるなと言ったのはお前だろう? では今のお前はなんだ、アディル」
「だから計画を教えてんだろ今!」
「駄目だッ!」

兄弟の口論を見守っていた面々だが、見かねた剣士が両手で抑え込むポーズを取る。

「おい、お二人さん。計画の要の君達の意見が割れたら困るのは我々だ。いったん冷静になろう。な?」

そうなだめられても兄弟の溝は埋まらないでいた。
アディルは手首を見て、そこに刻まれた墨を親指でこする様に触れる。

「じゃあどうすりゃいい? この印を見ろ。感じるんだ、親父の焦りを。俺だけが餌になって、皆が拘束する隙を作れる。他に良い方法はないぜ」

アディルは夢の内容を思い返していた。兄の姿で自分を犯し、いたぶった父の言葉を。
奴ははっきりと、兄を救うには自分が一人で来るしかないと言った。

「あいつの言葉は聞くな、アディル。あいつはお前を手にした途端殺すつもりだ。そういうやつだ。策略は通用しない。……頼む、聞いてくれ……」

弟の肩をぐっと掴み、真剣に諭す兄の瞳に目を奪われる。
アディルはその腕に強く抱きしめられたい思いに駆られた。けれど実際は気持ちを堪え、反論を飲み込むのが精一杯だった。

距離が近いのに思いが交わることのない兄弟の姿を、ゾークはただじっと見ていた。

結局二人の意見は最後までまとまらず、シグリエルが自主的に指揮を取り作戦会議を重ねた。

それから数日後。皆が出発の準備をしている中、アディルは忽然と姿を消した。



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