▼ 82 会いたい T (弟視点)
リメリア教会司教の命を受け、ソラサーグ聖騎士団は現在、東方の山中にある沼地において特別討伐任務の真っ只中である。
騎士団長の俺は、主力部隊となる第一・第二小隊を率い、もうすでに一週間以上山ごもりをしていた。
「……くッ! 団長、これでは何体倒してもキリがありませんね」
「ああ、瘴気を餌に無限に湧いてくるようだ。しらみつぶしに本体を探すしかない」
魔物が活発になる夜間。少数の騎士と共に戦闘を行いながら、側近のネイドと言葉を交わす。
緑色のぬかるんだ沼から湧き出る、まるでゾンビのような腐食体を斬り捨てるごとに、鎧に汚らわしい液がこびりつく。
連日蓄積される疲労はまあいい、しかしこの不衛生の極みである状況下に限っては、どうしようもなく鬱憤がたまる。
最後に入浴をしたのはもう三日前だ。風呂が恋しい。
だが比べるまでもなく、俺が今最も恋しいのは、もちろん兄貴だった。
いま何をしているのだろう?
いや、こんな時間だ。すでにベッドの中でかわいい寝顔を見せ、眠っているに違いない。
「あー……抱きたい……」
ブスリ、と魔物に長剣を突き刺し、ぽつりと呟く。
すると近くにいた側近の鎧が、大げさにがしゃんと鳴り響いた。
「……え!?」
「なんだ」
「いえ、何でもーー。はは、団長も普通の男なんですね」
仮面で表情は見えないが部下の腑抜けた面が容易に浮かぶ。
ため息を吐き剣を引き抜いたその時だった。
「ネイド隊長、A地点を目指す分隊の消息が絶たれました! 本隊の隊員も負傷者が多くみられます!」
「何ッ、……予想より隊の消耗が早いな……団長、至急衛生科および後方支援部隊を投入しますか」
「ああ。ここの騎士達も連れていけ。山の中間付近は最も入り組んだ経路になっている。時間を無駄にはできん。今こそ戦力を集中し一網打尽にすべきだ」
「ーーはい、分かりました」
一瞬躊躇いを見せた側近だったが、騎士達と迅速に場を去るのを見届ける。
不気味な月の影が沼へ映し出され、わずかな間静寂がやって来た。
余計な雑音もなく、木々や風のざわめきに耳を澄ませ、気配を同化させる。
すると体にビリッと痺れが走った。
右手に持つ長い剣を振り払い、全身の気を集中させて守護力を発動する。
教会から授かりし聖力が白い光粒となって立ち上り、沼の辺り一帯を煌々と浮かび上がらせた。
「……やはり現れたか。お前が本体か?」
何も俺はひとり、かっこつけて呟いたわけではない。
実際にある程度予想した通り、沼の直線上に黒いモヤのような形が出現したのだ。
明らかに今までの腐食体とは気配が異なる。怪しげに佇むその姿は、知能を働かせる魔物のように思えた。
人ひとり飲みこめる程の大きな煙に成長したそれは、素早いスピードでこちらに向かってきた。
無実体の黒い風に斬りかかるという、手応えのない攻撃を行うが、瘴気に強い聖力の効果は十分に見られた。
プシュううううーー
妙な音を出しながら、俺の斬撃により煙が真っ二つに割れる。
剣を正面に掲げ直し、トドメを刺そうと構えを取った瞬間ーー
影が俺の腕にまとわりついてきた。
「…………ッ!」
それだけではない。
その魔物はーー黒いモヤは、ある形をした人の影に成り変わった。
「な……んだ……」
普段ならばありえないことに、一瞬の隙を突かれる。
影はいつの間にか白い肌を形成し、黒髪で大きな緑の眼をした人間の姿を現したのだ。
見覚えのあるその形状に、言葉を失う。
「どういうことだーー?」
俺はプレートを身に着けているが、己の硬い腕に丸みを帯びた柔肌が絡みつく。
仮面の隙間から、深い緑の瞳と目が合った。
この魔物、俺の思念を読み取ったのか。
眼前に現れたそれは、明らかに兄貴を思わせるものだった。
敵だと知りながらも、思わず膝から崩れ落ちてしまいそうな衝撃を受ける。
『ふふ……どう、したの……?』
聞き覚えのない女の声にハッとなる。
間近にある姿をじっくり見つめ、一瞬これは俺の兄への思いが焦燥を極めた故に作り出した、幻覚なのかと考えた。
しかしやはり俺の想像ではない、まるで違う。ただの魔物だ。
『ねえ、クレッド……お願い…』
名を呼ばれた瞬間、頭に血が上るのを感じた。
剣を握りしめ、その白い体に容赦なく突き刺そうと構えを取る。
「……そんな姿で、俺の名を呼ぶな。それで似せているつもりか? 兄貴は男だ」
口の中に苦味を感じながら、自分に言い聞かせるように吐き出した。
しかし情けないことに、即座に剣で貫き通すことが出来ず、俺はその背中を鷲掴み、直接掌から自らの聖力を発動させた。
魔物らしい断末魔をあげて、みるみるうちに肉体が白い煙へと浄化し、空中に四散する。
その光景を目に入れながら、これまでの戦闘とは違う、なにか精神的な苦痛と重荷が体内に沈みゆくのを感じた。
同時に、巻き付かれていた腕に鋭い痛みが走った。
「くっ……! なんだ……ッ」
すぐに仮面と上半身の鎧を脱ぎ、その場で確認する。すると左腕全体が、赤黒く腫れ上がっていた。
一体何なんだ、これは。
もしやまた呪いの一種か? それとも、ただの負傷か。
汗でべたつく髪をぐしゃぐしゃと掻き、思わず「クソッ」と悪態をつく。
おそらく今の魔物がこの辺り一帯の主であることは想像できる。
だがこんな副産物を得てしまうとは。自らの、恥ずべき失態のせいで。
なんとも後味が悪い。
早く、兄に会いたい。紛うこと無き、本物の兄貴に。
顔を見て、すぐに抱きしめて、この焦燥を、大きすぎる心の穴を、完全に埋めてしまいたい。
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