▼ 48 触れてみたら U (弟視点)
家族揃っての夕食後、シグリットを含め皆でテーブルを囲み、談笑をした。
とくに気の利いたことを言えない俺だったが、次男と母がいるだけで場が明るくなる。
兄とは二人きりでいるよりも自分の緊張や強張りが緩まり、余計なことを考えずに済んだ。
夜も更けて、シグリットは地元の仲間と酒場のような場所へ出かけたようだった。
毎回のことだと思い、俺は風呂場へと向かって入浴を済ませた。
珍しく長めに湯に浸かり、兄は何をしてるんだろうとか、そんな事を考えていた。
飲み物を手に居間へ向かうと、ソファの上に寝そべる兄の姿があった。
こんな時間だ。自室にいると思っていたのに、想像してなかった光景を前にして、またびくっと体が動かなくなる。
「兄貴……?」
確認のために声をかけるが、反応はなくぐっすりと眠っているようだった。
薄着で上の服が捲くられ、細い腰と、へそが少し覗いている。
白い肌が見えて、俺はすぐに視線をそらし、部屋を出た。
一階の空き部屋に入り、クローゼットから寝具を漁り、ブランケットを取り出した。
それを持って戻り、あまりその姿を目に入れないように、兄の体にそっとかける。
そのまま離れればいいのに、俺は兄が起きないのをいい事に、しばらく寝顔を眺めていた。
二人だけの空間にいるのは辛いはずなのに、近くでその存在を感じていると、隠しきれない想いが湧き上がってくる。
でもこのままじゃ、やっぱり駄目なのだ。
こうやって未練がましく見つめるのは、これで最後にすればいい。
もしかしたら、時間が解決してくれるかもしれない。
そうだ、この想いは一時的なもので、大人になったら気の迷いだった、で済むことかもしれない。
兄の頬を指の背でそっと撫でた。
昔から変わらず、ちょっとやそっとのことじゃ起きない。
今度は手のひらを添え、親指で数回優しく触れてみる。
指先が熱くなり、またたく間に熱が全身に伝わる。
俺が秘密でこうしてる事なんて何も知らずに、兄は幼い顔つきのまま、胸を上下させて眠りにおちている。
(ああ、どうして……兄ちゃん)
心の中でけっして表には出せない気持ちを口にする。
兄の唇が俺と同じ想いを告げてくれたら。
一瞬でもいい、また俺のものに、なってくれたらーー
(好きだよ、好きなんだ、兄ちゃん……)
俺は身を屈めて、ソファの背に片腕をつき、兄を覆うように体を迫らせた。
ぎしり、と音がしたが起きる気配がなく、大丈夫だと思った。
何をしてるんだ、やめろ。
自分の声が聞こえるが、止まらない。
寝息を立てる口元に、自分の口を近づける。
触れてみたら、どうなるだろう。幸せな気持ちになれるだろうか。
それとももっと苦しくなるのだろうか。
あと少し、前に出れば触れてしまう。ぎりぎりの距離で、兄がわずかに身じろいだ。
「んん……」
眉を寄せて肩をぴくりと動かす。俺はとっさに体を起こし、離れた。
しかし兄の唇がかすかに震えた。
「……レッド……だいじょう、ぶ……」
兄は俺の名らしきものを口にして、そう呟いた。
心臓がうるさいぐらいに響き、俺は乾いた喉をごくりと鳴らした。
何か夢を見ているのだろうか。兄が発した台詞に胸騒ぎがした。
すると俺が恐れていたように、次の瞬間、兄はゆっくりと目を開けた。
「……んぁ……?」
鼻から抜けたような声を出して、ソファのそばにしゃがんでいた俺のことを見た。
薄っすらと半目だったが真正面から見つめられ、俺はすぐに立ち上がった。
「クレッド、……何やってんだ? そんなとこで」
寝ぼけた様子で顔を擦り、大きく欠伸をする。
俺がしようとしていた事に、気づいていない。ほっとしながら、体の震えを必死に隠した。
「……別に、何も……」
「あれ、このブランケットお前がかけてくれたの? ありがとーー」
「ヴィレに言われたから。……なんで兄貴こんなとこにいるんだ? 二階で寝ろよ。腹出して寝て、馬鹿じゃないのか。風邪引いても知らないぞ」
どうしようもない焦りから、俺はまた余計なことまで口走り、全面的に嫌な言い方をした。
「……ああ、分かってるよ。あんがとな」
兄は若干ムカついたような顔をして、ぼつりと言った。
しばらく気まずい沈黙が流れたが、それは意外な兄の言葉で破られた。
「なあクレッド、俺明日帰るんだけど。なんか、邪魔して悪かったな。やっぱ一回家出た人間がまた帰ってくんのって、うざいよな。住んでる奴のペースとかあるしさ」
突然告げられた言葉に、俺は目を見開いた。
わずかに視線を逸した兄は、何気なく言ったようだったが、対する自分はすぐに反応出来なかった。
そんなこと有るわけない、と言えば済むはずなのに、俺の今までの態度からは何の説得力もないだろう。
「別に、そんな面倒くさいこと考えるなよ。俺はそこまで考えてないし」
「ふうん。まあいいけどさ。……俺も親父とのことがあるから、あれだけど。少なくともお前の卒業の時にはまた帰るよ。お前には悪いけどな。でも……体には気をつけろよ、あんま無茶すんなよ」
兄は頭を掻きながら、ブランケットを持って急に立ち上がった。
「じゃあ寝るわ、おやすみ」と言って再び眠そうに欠伸をし、その場を去った。
俺は小さく見える後ろ姿を見送った後、そのまま床の上に腰を下ろし、頭をうなだれた。
また弟の俺に対し、最後に気遣う言葉をくれた。
自分のひどい態度を思い返しながら、兄の台詞を反芻する。
次に会うときは、俺が卒業する時かもしれない。
それまで会えないのかと寂しくなるが、全て自業自得だ。
俺は何がしたいんだろう。突き放して必死に遠ざけようとしているのに、さっきみたいに、ある瞬間に自分の欲求を全てぶつけてしまいたくなる。
もうこんな事はやめた方がいい。分かりきっていることだ。
早く諦めないと、取り返しのつかないことになる。
次に会う時までに、俺は変わっていられるだろうか。
兄のことを忘れてしまえるだろうか。
そうすれば前の仲が良かった時のように、普通の兄弟として、互いに接し合う事が出来るだろうか。
そんな虫のいいことを、一人で考えていた。
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