▼ 46 本当の気持ち (弟視点)
一年ぶりに兄が家に帰ってきた。
今日は休日とはいえ、騎士学校の任意の講習が午前午後と立て込んでいたのだが、俺は午前中のみ参加した後に帰宅した。
早く、兄の顔が見たかった。
本音では会いたくない気持ちもある。
自分がまた、苦しくなるのが分かっていたから。
それにどうせ、俺はまた大切な人を傷つけることになると、知っていたから。
それなのに、胸の中に抱える想いに衝き動かされるように、帰路へと足が向かっていたのだ。
*
心臓がまだドクドク嫌な音を鳴らしながら、階段を早足で駆け上がり、二階の自室へと入って鍵を閉めた。
ベッドに稽古着などが入った学校の鞄を投げ入れる。
そのまま床にしゃがみ込み、深い息を吐いてすぐ、手のひらで顔を覆った。
(兄ちゃん……ごめん)
心の中で小さく呟いた。
ついさっきまで間近に見つめた深い緑の瞳を思い出し、心臓がきゅっと痛くなる。
久しぶりに会う兄は、こんなに細くて小さかったかと思うほど、華奢に感じた。
家を出る前の兄の姿を思い出し、魔術の修行のせいなのか、訓練がそれほどきついものなのかと、一瞬で心配な思いに囚われた。
目の前まで来てまっすぐに顔を覗き込まれ、全身の血が沸騰するような感覚に陥った。
視線を合わせることも出来ず、俺はまた、最低な態度を取ってしまった。
兄に触れられそうになると、体が強張る。けれどすぐに、内側から急激な熱を感じ始める。
それが恐ろしくて、俺は近づいては駄目なのだと、さっきの事で改めて身にしみた。
『成長したんだなって』
どこか焦った様子の兄は、俺に少し笑いかけたような表情を見せ、そう言った。
俺はその言葉に強い反発を覚えた。
どこがだ? なにも成長していない。
体が大きくなっただけで、自分はあの頃と何も変わっていない。
離れて暮らしてもう二年も経つのに、毎日毎日兄のことばかりを考え、身を焦がすような想いをずっと抱えたままだ。
あの時、最後にしようと思ったのに。絶対に叶わないと分かっているのに。
俺はまだ、どうしようもないほど、兄のことが好きだった。
***
夕食の時間になり、少し遅めに階下へと向かった。
居間に隣接された食事室の扉から、準備を終えたヴィレが出てきて、礼を言った俺はどうにか気分を静め、部屋に足を踏み入れた。
兄と二人きりの食事なんて何年ぶりだろう。
いや、もしかしたらさっきの事で、俺と一緒にいるのは嫌になり、別々に取ることになるかもしれない。
一瞬そう考えたのだが、食卓にはすでに、豪勢な料理の前でぽつんと座る兄の姿があった。
俺を見て、ぎくりとした顔をする。
昔から表情がよく顔にでる人だと思う。
「クレッド。見てみろよ、これ。ヴィレが作ってくれたんだって、美味そうだよな。いいよなぁ、俺なんかずっと自分で作ってるから、人の料理食べるのも久しぶりだよ」
俺が席に着く前に、早口で話しかけてくる。
よかった、怒ってないみたいだと安心した俺は、本当にずるい。こうして兄の優しさにいつも甘えている。
平静を装って「そうなんだ、大変だね。ヴィレのも美味しいと思うよ」などと当たり障りのない返事をした。
父が前に、兄は師である男と暮らしていると憤慨していたことを思い出す。
兄が料理を作っているのか。どんな生活をしているのだろうと、また悩ましく思う気持ちを必死に振り払った。
あまり視線を合わせないように、どこに座ろうかと考えたのだが、ヴィレが用意したのか、兄の隣の席に、俺の食器類が揃っていた。
昔から両親の前に二人隣り合って座っていた為、当然の習慣なのだろう。
だが今の俺は、兄の近くにいるだけで苦しくて、おかしくなる。
「いただきます」
「うん。俺も食べよっと」
結局観念して兄の隣に腰を下ろし、二人で食事を始めた。
会話はもちろん弾まない。気を遣った兄が色々と話しかけてくるが、俺は事務的に返事を返すだけだった。
「なぁ、お前学校はどうなの? やっぱ稽古とか大変なんだろ。あ、前にシグ兄さんから聞いたんだけど、卒業するまでにお前も従騎士ってやつになるんだよな。先輩の騎士について、色々雑用とかやらされるって」
急に突飛な質問をされ驚いた。兄の中で騎士に関する関心はほぼないと思っていたのだ。
「うん、そうだよ。来年から一年間、騎士団に仮入団させてもらって、実践的なことを教わるんだ。剣術はもちろん、上級騎士の身の回りのこととか」
それは卒業後に正式に騎士として叙任されるまでの、準備期間でもある。現に来年仮入団のための試験が行われ、生徒達は皆自分の希望する騎士団で学びたいと、今から熱心に取り組んでいるのだ。
俺の場合、兄には言っていないが、父の強い勧めで上の兄二人ーーアルベールとシグリットの所属する騎士団を受ける予定だった。
序列に厳しく、訓練はきついことで有名だが、腐敗要素のない清潔な組織作りをしていて、信頼のおける騎士団だと父が話していた。自分としては剣術を磨くことに集中出来る場ならばどこでもいい、とくにこだわりは無くそう考えていた。
正面を向いて食事を続ける俺に対し、ふとナイフとフォークを皿の端に置いた兄が、体をこちらに向けて俺の様子を伺ってきた。
体がびくりと反応しそうなのを堪え、冷静に努める。
「なに……? もう食べ終わったの?」
「いや、まだだけどさ。クレッド。従騎士になったら、やっぱり実践的な訓練とかすんだよな。戦場とかにも出るんだろ?」
「……ああ、そうだね。まだ補助の役割だけど、実戦にも参加するよ」
落ち着いて答えると、兄は少し黙った。それからはぁと溜息をついて、再び俺の顔をじっと覗き込んでくる。
「危ないことすんだろ、なんか心配だよ。身内が戦場に出るとかさ。お前ほんとに騎士になるんだな」
真面目な声音で呟かれて、どう反応すればいいか分からなかった。
この家は代々騎士の家系だ。祖父も父も、長男も次男も俺も。兄以外は当然のようにその道を行く。
今更何を言っているんだろうと思ったが、その反面、心配していると告げられて、鼓動が徐々に速まり出す。
「当たり前だろ。あと二年もしないうちに叙任式があって、俺は正式に騎士になるんだ。心配なんかされなくても平気だよ。戦うことが仕事なんだから。兄貴には分からないだろうけど」
どうしてこういう言い方をしてしまうんだろう。
俺は大丈夫だから、心配しないで。本心から、そう優しく言えばいいのに。
横目で兄を見ると、若干眉を寄せて、不満げに目を伏せていた。
「分かってるけどさ……俺とは違うって。でも兄貴なんだから、気にするぐらい、構わないだろ」
「別にいいよ。俺のことより自分のこと心配しろよ、変な男に魔術を学んでるんだろう? 本当にそいつで大丈夫なのか」
純粋な弟への優しさを向けられ、それに素直に答えられない自分への苛立ちを募らせ、言わなくていいことまで口にした。
案の定兄は顔をばっと上げて、俺への不快感を顕にするように、険しい顔になった。
「なんだよそれ、俺だって平気だよ。毎日大変だけど一生懸命やってるんだ。師匠だってちょっと変わってるけどそんなに悪い人間じゃないし、魔術のことなら誰よりも天才なんだよ」
そんな事は聞いてないしどうでもいい。
自分が切り出したのを棚に上げて、自分の師を懸命にかばう兄に腹が立った。
会ったことはないが、俺はその男が嫌いだった。
兄のことを魔術によって魅了して、俺から完全に奪い去った男だ。
あの夜だって兄に妙な術をかけて、俺達の関係をめちゃくちゃにした。
考えないようにしていたが、本人の口から肯定的な言葉を聞き、余計に憎しみが湧くのを感じた。
「へえ、そうか。ろくな男じゃなさそうだけど、自分で納得してるんなら良いんじゃないか。精々怪我でもしないように気をつけろよ。兄貴は俺と違って、全然運動神経ないからな」
感情を抑えきれず、矢継ぎ早に言ったその言葉に、兄の怒りも表面に表れた。
俺の肩をがしっと掴み、兄の方へと強引に振り向かせられた。
「ひどいぞお前! なんだその言い方、ずっとツンケンしやがって、俺のことそんなに気に食わないのかよ!」
いつもは大きな緑の丸目が、ぎっと鋭く睨みつけ、俺のことを真正面から捉えている。
触れられた肩が熱い。
熱くてどうにかなりそうだ。
俺の事を、そんな目で見ないでほしい。
怒っているのに、どこか縋ってくるような、不安げな瞳。
俺がどんな態度を取っても、いつだって許してくれた、優しい兄の顔。
「ご、ごめん、兄ちゃ……」
咄嗟に出てしまった心の声に気づき、唖然とした俺は、すぐに自分の口を押さえた。
兄は大きく目を見開いて、ぴたっと動きを止めた。
俺は恥ずかしさと強い動揺から、即座に椅子から立ち上がり、小さく「ごちそうさま」と呟き、食事室から逃げ去るように部屋を出た。
階段を再び駆け上がり、俺は一体、さっきから何をしているんだろうと、頭の中がめちゃくちゃになった。
駄目だ。
兄の目を真っ直ぐ見ては駄目なんだ。
必死に作っていた壁が、自分に向けられた表情や感情一つによって、すぐにぼろぼろと崩れ落ちそうになってしまう。
この想いは、絶対に気づかれてはいけないのに。
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