▼ 離ればなれ
11才になる俺の弟は、目もくらむほど可愛い。可愛いだけでなく、賢く純粋で心まで美しい少年だ。
その素晴らしさは周知の事実だが、唯一無二の愛らしさと触れ合えるのは自分だけがいいと、俺は常々思っていた。
父親の襲撃から半年。俺は高三に進級し、18才となり晴れて成人した。
弟も早いものでもう初等科の六年生だ。
自分の携帯を持つようになったルカは、時々父親とやり取りをしているようだが、俺は仲に加わることはなく、表面上穏やかに見守っていた。
正直あいつが嫌いなままだからだ。当時は自分が捨てられたという思いよりも、なぜこんなに可愛い弟を置いていけたのか理解できず、ずっと許せないでいた。
でも今はそれに新しい感情も混ざっているのは、分かっている。
自分の居場所が取って代わられるのではないかという、恐れだ。
「お兄ちゃん、送ってくれてありがとう」
夕方、学習塾の前に停めた車の中で、助手席のルカが俺に向かって微笑んだ。
ここはラテン語を教える塾であり、俺は週に一回弟の送迎をしていた。
勉強なら直に教えてやりたかったが、あいにく俺は学校で別の外国語を選択していたため諦めたのだった。
「おう。気をつけてな。なんかあったらメールか電話しろよ」
「うんっ。じゃあまたあとでね」
ドアノブに手をかけて行ってしまいそうになる腕をそっと掴む。
俺は少し体を曲げ、弟の頬に軽いキスをした。離すと長い睫毛をぱちりとする様子が愛くるしい。
「……やだった? 恥ずかしい?」
窓の外ではそう遠くない建物の玄関口に、生徒たちが入れ替わり立ち替わり出入りしている。
「ううん。僕嬉しいよ」
けれどルカはにこりと笑って、自分から俺の首に手を回してきた。
車内だから大丈夫なのか、外では照れる弟がハグをしてくれた。それだけでなく俺のほっぺたに音つきのキスをする。
「行ってきます、お兄ちゃん」
「……う、うん。行ってらっしゃい、ルカ」
たぶん俺のほうが恥ずかしくなり、変な笑顔で手を上げて別れた。
なんというか、子供は知らず知らずに、急に大人になる気がする。
反抗期は、まだかな……。
そう安心しながらハンドルに突っ伏しそうになった顔を上げた。
きちんと中に入るまで見ているのだが、この日は突如、見知らぬ男がルカに近づいてきた。
弟のリュックに腕をかけてもたれかかり、顔を近づけて楽しそうにお喋りしている。14、5のガキだろうか。
「……なにしてんだあの野郎……ルカに触んじゃねえよ」
奥歯を噛んだ口から恨み節を吐いた。
視界から隠れてしまった弟を思い、うなだれる。呼吸を整えてから再び車を走らせ始めた。
厄介なのは父親だけじゃないかもしれない。
俺はこんなことでやっていけるのだろうか。
あと半年後には、弟と離ればなれにならなければいけないというのに。
塾が終わるまでの二時間、外で暇を潰すことにした。
といってもいつも一緒に駄弁っている、同じ学校の仲間のもとだ。
町の中心部に近い若者向けの洋服店に向かう。
空いている駐車場に車を停めて、入り口のドアをくぐった。するとやや若作りをした中年の男が店内で出迎える。
「おお、ダッジ。エディスなら二階にいるよ」
「うん。ありがとおじさん」
「あんまり飲みすぎんなよ、成人したからってな」
「飲まないよ、後でまた弟迎えに行くの」
いつもと変わらない会話を笑いながら交え、奥の階段をのぼっていく。
ここはエディスの実家で、二階の奴の自室にはよく世話になっている。サミのガレージが使えないときの避難所だ。
俺がドアを開けると、二人はすでに揃っていた。
一人っ子の奴らは総じて部屋が広く、やたら薄暗い照明や洒落た家具にこだわっていて、子供には見せたくないいかがわしい物も平気で散乱している。
机の前のパソコンでネトゲをしていたエディスと、ソファで寝ているサミ。
俺はまず窓を開け放ち、どんよりした空気を入れ替えた。
「……さみい。……あ、ダッジ。来てたのかよ。酒のむ?」
「いらねえ」
「なにダッジ、ルカくん送ってきたの? 元気だった?」
「うん」
体を起こしたサミを押し退けてソファに座る。口数少なく一点を見つめていると、エディスが炭酸ジュースの瓶を机にどんと置いた。
「なんだよ、元気なさそうだな。悩みごとがあるなら俺に言ってみな、ダッジ」
「……ああ。いや、それがさ……もうすぐじゃん、あの書類提出……まだやってなくてよ」
飲み物で口を潤し、素直に白状した。
「え? まだなの? 締め切りまであと一ヶ月ぐらいだろ、徴兵制の出願手続き。さっさとやれよ」
「うん……そうなんだけど」
ここ最近頭の中を悩ませていたのは、紛れもない「兵役」についてだった。
この国では18才で成人した男子には、29才になるまでに一年五ヶ月の軍隊生活が義務づけられているのだ。
軍に行かず介護施設などでの奉仕活動を選択することも出来るが、とくに体や精神面をより鍛えたい者達は兵役に行く印象が強い。
頬杖をついて考え込んでいると、サミが俺の肩をわざとらしく抱いてきた。
「んだよダッジ。やっぱ行きたくなくなったのか? じゃあ俺と一緒に一年さぼろうぜ〜。わざわざ大学入る前に苦しむことねえだろ」
にやにやしながら囁く顔を手で遠ざけた。
俺は高校卒業後、進学をする前に兵役することに決めていた。目の前にいるエディスと同じように。
エディスはゆくゆくは実家の服屋を継ぐらしいが、兵役を終えた後は別の店で修行したい気持ちもあるという。
サミも実家が自動車の修理工場で、将来はそこの跡継ぎだ。だが出来るだけぶらぶらしたいらしい。
「俺はさ、大学出たらすぐ就職して堅実に稼ぎたいだけなんだわ。家族を守りたいし。だからなるべく早く義務は済ませて、な……思う存分ルカの近くにいたい……っ」
つい本音をこぼすと二人の顔は途端に呆れたものとなった。
俺は涙声だというのに。
「あーなるほど。お前まだルカくんに話してないんだろ? 寂しがるもんなぁ」
「そういうことねえ。しかもさ、自分がいない間に弟に魔の手が……!とか思っちゃってんじゃねえの? ははははッ」
机を叩いてにらみつけた。完全に奴らの読みが当たっていたせいだ。
「おい、笑えねえんだよ。今日だってな、変なくそガキが俺のルカの体にべたべたと汚ならしい手をーー」
「ああはいはい。いいからとっとと応募しろよ。腹はもう決まってんだろ? ルカのことは俺に任せろ。兄貴の代わりに目かけておいてやるからよ」
くっくっ、と怪しく目を細める友人を、悪いが信じられない。
こいつは素行が良くないしルカの隣には一番置いておきたくないタイプだからだ。
「エディス、助けてくれよ、どうすりゃいいんだよ俺はッ」
「いや軍隊行けよ。俺も行くし。しょうがないよ、サミに任せようぜ」
悩みがまるで解決しないまま、重い頭をうなだれた。
友人達との埒が明かない会話を終え、約二時間後に俺は弟を迎えに行った。
まだ悶々としていたがルカと会えて嬉しく、現れてドアを開けた弟に笑顔を向けた。
しかし直後に表情がひきつる。
「お兄ちゃんありがとう、あのね、アーロン君のお父さん迎えに来れなくなっちゃったんだって。途中まで乗せてってあげてもいいかな?」
心配そうな弟の横で、へらりとした笑みの貧相なガキが頭を軽く下げた。さっきの野郎か。俺は舌打ちを噛み殺し「ああ、いいよ。ルカ」と微笑んだ。
弟よりも背の高い少年は「ありがとございまーっす」と言いながら後部座席に乗ってきた。
ドアを閉めようとしないので俺は後ろに体を向けたまま、ルカに声をかけた。
「お前はこっち」
そう言って助手席に座らせ、さすがにキスはしなかったが頭を無造作に撫でた。
くすぐったそうに笑うルカを抱き締めたくなったあと、落ち着いて車を発進させる。
後ろの少年は真ん中で身を乗り出し、よく喋る。塾の講師や学校やらのたわいのない噂話だ。どうやらうちの学校ではないらしく、唯一安心した。
「アーロン君、ここらへんでいいの?」
「うん、そうそう。あ、お兄さん、そこ右で。あっ、そっちじゃないって!」
「あー、いいんだよ。こっちのほうが近道だから」
住所を聞いていた俺は宅配バイトの職業柄、詳しい裏道を使いこのガキを早く下ろそうとした。
やっと到着し弟と別れる様子をじっと眺めたが、話し方やら浮わついた動作やら、最後まで癇に障る輩だった。
ようやくルカと二人きりになり、全身からあくどい空気が抜けていく。
「お兄ちゃん、急にごめんね。今日もありがとう」
「ん? いいよ気にすんなって。お前はほんと優しいよな。……つうか大丈夫なの? 今のやつ」
「え? 大丈夫だよ。別の講義で知り合ったんだけど、三つ年上で頭がよくって、色々教えてくれるの」
「……へえ。そうなんだ……」
無邪気な弟の台詞が、ぐさぐさと突き刺さってくる。
やっばり俺は、まだ弟のそばを離れないほうがいいんじゃないか? あと一年だけでも。
考えて頭を振った。
大事なルカの存在は、俺にとって、一度決めた強固な決意をも揺るがす大きな大きなものだった。
それから数日が経ち、俺はまだ決めあぐねていた。
書類は完成させたから郵送するだけだ。でも避けては通れない重大な事柄が立ちはだかっていた。
この可愛い弟に対してだ。
「お兄ちゃん、手が繋いじゃってるよ」
「うん。まだ母ちゃんあっちにいるからいいでしょ?」
「いいけど……だめぇ……」
握っていた手をずらし、半ズボンから伸びたむちむちの太ももを触る。すべての部位が可愛らしくて愛おしい。
「あっ」
撫でるともぞもぞ両膝をくっつけ、俺にぽたりと寄りかかってくる。誰もいないのを確認し、唇を一瞬だけ重ねた。
赤くなった弟を抱きしめ、小さい手のひらから返ってくる温もりに愛情を感じとる。
「お兄ちゃん、好き」
「ん。俺も好き……」
自分が裁かれるべき禁忌を犯していることは重々承知している。
でも一度もルカには勝てなかった。きっとこれからも一生勝てないのだ。
だから俺はもう罪に従うことしかできない。
けれど俺の罪はひとつではなく、他にもある。それは、ルカを悲しませることだ。
和気あいあいと夕食中、向かいの母親がこぼした言葉に、俺はナイフとフォークを落とした。
「ダッジ。そういやあんた、もう書類出したの? 徴兵のやつ。来月まででしょ、ちゃんとやっときなよ」
……このババア、なんで今言うんだッ。
俺は突如崖っぷちに立たされた状況に絶望しながら、ゆっくり顔を上げた。隣の弟を恐る恐る見る。
「徴兵……? なんのこと?」
「お兄ちゃんね、来年さっそく兵役に行くんだってさ。寂しくなるよね、ルカ」
打って変わって声のトーンを落とす母に対し、弟は黙っていた。
俺はやっとのことで乾ききった口を開く。
「あ、あのな、ルカ」
「……そうなんだね。分かった……」
短く呟くと、ルカはまた黙々と食べ始める。
正直もっと大きいリアクションを想像していた俺は、自分のほうが言い知れぬショックを受け、頭から思考が抜け落ちた。
食後もルカは普通に見えて、ごく日常のように振る舞っているようだった。
俺はそれから自室に戻り、ベランダに出て頭を抱えていた。
ルカは俺が出ていくことに対し「分かった」と言っていたから、理解はしてくれたんだろう。
……もしかして、そこまで重大なことではなかったか?
いや、俺達はついさっきまで思いを伝え合っていたし、互いの独占欲だってこれまで感じていた。
でも、成長すれば考えも変わるだろう。まさかこんな突然、終わりがきたのか?
嘘だろ……。
思わぬ形で終末を感じ取った矢先、部屋の扉が静かに開いた。
素早く振り向くと、ぽつんとルカが立っていた。
俺より濃いめの金髪が、歩いてくるにつれ外の月の光に照らされる。
淡い茶色の瞳も少しだけ潤んで見えた。
「ルカ、どうした」
「お兄ちゃん」
弟はもうパジャマに着替えていて、俺を見上げたあとすぐに胸に飛び込んできた。
驚いた俺は胸にくっついた顔をやさしく撫でる。
「おい、大丈夫か?」
「大丈夫じゃないもん。お兄ちゃん、もうすぐ出ていっちゃうの?」
さっきはまるで見せなかった弟の泣き顔に、一瞬で心が崩落しそうになる。
弟も衝撃を受けていたのだ。
こうやってすがりつかれたら、俺はもう、降伏するほかない。
風邪を引くからと言って抱きあげ、室内に戻った。俺のベッドに座らせて、体を寄せる。やはり、覚悟を決めなければ。
「もうすぐじゃないよ。来年だけど、一年半は軍に入ることになるんだ。ちょっと、長いけどさ」
ちょっとどころじゃない。毎日顔を合わせることができた弟との生活が、そんなにも長く止まってしまうなんて、本当は考えたくもなかった。
「僕ね、徴兵制のことは知ってるし、男は皆行かなきゃならないってことも分かってるの。でも、勝手にもっと、先のことだと思ってたんだ」
弟の声音がしぼんでいき、消え入りそうになるのを恐れた俺は、再び自らの胸を華奢な体に押し付けた。
「ごめんな、出来るだけ早く済ませて、お前のもとに帰りたかったんだ」
「……うん」
愛しい愛しい愛しい。
やっぱり、どうして離れなければならないんだ。
俺がいない間も、忘れないでいてくれる?
兄貴を好きなままでいてくれるか?
そんな子供っぽいことは聞けなかった。
人生の一年半は長いし、この年頃は目まぐるしく変わり成長する。
だから、近くで見守る存在がいないと駄目だ。弟には年上の同性の男が必要だと思うのに。
本当は自分がそばにいたいだけだけど。
「やだ……やっぱり寂しいよ。お兄ちゃんとずっと一緒にいたいのに」
ルカは初めて小さな声で気持ちを表し、涙を浮かべて俺を見上げた。
俺もどうにか堪えてキスをする。
柔らかい唇はいつもと比べて甘いだけでなく、切なすぎて何度もしてしまい離せなくなった。
「ごめんな。ずっとそばにいるって言ったのに、さっそく破ってるな……俺」
「ほんとだよ、お兄ちゃんのばか」
「うう、悪い……」
「うそだよ。お兄ちゃんは凄い、軍隊って大変なところに行くんだもん。……僕も、頑張って、強くなるからね。お兄ちゃんのことちゃんと待ってるからね」
笑顔を作ろうとする弟が、急に遠くに行ってしまう気がした。
「ルカぁ……そんないきなり大人なこと言わないで……お兄ちゃん泣いちゃうから」
弟より先に泣くまいと必死に堪えていたら、よしよしするように頭を撫でられた。
ああ、俺の人生って本当に弟がすべてなんだと痛感する。
「絶対、手紙たくさん書くからな。電話も限られると思うけど、いっぱいしような」
「うん、いっぱいしようねお兄ちゃん」
「あと、絶対絶対変な男に近づいちゃだめだぞ。すぐに逃げるんだぞ」
「変な男ってなに? どういう人?」
「……ええっと、それは……」
自分で言っておきながら頭を悩ませた。
ルカがもう少し大きくなれば、自分達の関係をさらにレベルアップさせることも出来るはずなのだがーー。
「ねえねえお兄ちゃん。僕からもお願いがあるよ」
「なに? 何でも聞くよ」
「ぜったいにぜったいに浮気しちゃダメ。わかった?」
くりっとした瞳を近づけて、間近に真剣な顔が来る。
俺は早くも腰が砕け、ひとりで悶え苦しんだ。
まだ子供の弟には言葉の意味が、本当に分かっているのだろうか。
「100%しないよ。ルカもだぞ。いい?」
「うんっ。やったぁ。じゃあ約束ね、お兄ちゃん」
そうして交わした二人の決め事は、寂しさの中に、ひとつだけキラキラ光っているようだった。
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