兄貴の送り迎え
数年前に親父が癌で死んでから、俺と兄貴は古い一軒家で二人きりで暮らしている。
元々男所帯なため特に生活に変化もなかったが、兄貴を溺愛していた親父の代わりに、夜勤の仕事場への送迎は、今は俺が行っていた。
「じゃあな」
「おー。ありがとな」
暗闇の中、車を降りて砂利道を歩いていく姿勢の悪い男。
細身なのにオーバーサイズの服を着て、フードを目深に被っている。
ごめんは絶対言わないくせに、礼と食べる時の挨拶だけは欠かさないよく分からない人間だ。
俺は工場内へと消えていく兄貴を見送った。
時刻は夜の九時過ぎ。これから俺は三十分かけてまた家へと戻り、自分の時間を過ごし、眠りにつく。
そして朝の七時頃にまた兄貴を迎えに行く。
平日はこんな生活をずっと続けていた。
もう秋の頃合いだから、フロントガラスから見る朝の風景は薄暗い。
在宅でプログラミングの仕事をしている自分だが、兄とは違って健康的な生活をしているし、朝起きるのも好きだ。だから送迎自体は苦ではない。
ただ、夜とはテンションの違っている男の相手をするのは、正直いつも面倒だった。
「あー、腹減ったわ。キール、帰ったらさ。ラーメン食べたくね?」
「……作ってくださいだろ? まあいいけどよ」
「サンキュー」
にやりとフードを取って耳より長めの金髪を掻き上げる。ハンドルを握りながら横目で見ていると、助手席の兄は煙草を取り出した。
火をつけてふかしはじめたので、俺は迷いなく奴側の窓を開ける。「さみいだろ!」と文句を言われ「くせえんだよ」と言い返す。
よくもまあ兄弟で毎日飽きずに同じやり取りを繰り返すものだと思いつつ、今日の兄貴はいつもより煩わしかった。
夜勤の前は眠いのかほぼ無口で無反応なのに、仕事終わりはやたらハイになり、くだらないことをペチャクチャと聞く羽目になる。
やれ同僚が車で事故り修理代がいくらかかっただの、ダチの誰と誰が別れてくっついただの、最近ヤッた女がどんなもんだっただのと、俺にまったく興味のないことを延々と話すのだ。
「あのさ、誰とやろうがどうでもいいけど、家に連れ込むのやめろ。クソうぜえから」
クソの部分を強調して前を見ながら警告した。
すると隣が静まったので怪訝に思い見やる。兄貴は煙を吐きながらにやにやしていた。
「なんだよ、じゃどこでやりゃいいんだ? あそこ俺の家なんだけど」
「俺の家でもあんだろ。知らねえよ、女の家行きゃいいだろうが」
ちっと舌打ちをして言う。ああ苛々する。想像しただけで吐きそうだ。
しかしこいつは性格が悪く、苦しんでる奴が好きなのだろう、さらに畳み掛けてきた。
「なあそれ嫉妬じゃね? お前女いねえもんな。顔も悪くねえし体もすげえ鍛えてんのにさ。じゃあそれ何のためなの?」
「……そうだな、嫉妬かもな。体を鍛えてるのは健康と自分のためだよ。問題あるか?」
「んだよ乗ってこいよ! つまんねえ奴だな」
手のひらを上げて悪態をつく奴を見て、俺はふっと鼻で笑った。
しかし今度はその鼻をぽきっと折られる事件が発生する。
「まあ分かるぜ。俺は知ってんだよ、実はな。キール。お前が嫉妬してんのは俺じゃなくて、女のほうだってな」
兄貴は思わせ振りな声音で閉めていた窓を少し開け、隙間から吸い殻を捨てた。
車は一般道から高速に乗り、スピードを上げていく。それに従い鼓動も速まった。
「どういう意味だ」
「ん? まだわかんねえか。お前、俺が好きなんだろ」
「いや、嫌いだけど」
「嘘つくなよ。好きだろうが。じゃなけりゃ毎日俺の面倒見なくねえ? 送り迎えもだしよ、なんでもしてくれんじゃん、頼めば」
体をこっちに向けて言う。腹の立つ笑みを浮かべているのが想像できたため、俺は頑なに正面を向いた。
「ただの義務だよ、親父がやってたからな。それを受け継いでるだけだ」
「その親父もさ、お前あんまり懐いてなかったよな。なんかこう、クールっつうか。死んだときも泣かなかったし」
この野郎は、何の話をしているのだろう。薬でもキメているのだろうか。
酒を飲んだときよりもひどい絡み様に、アクセルを踏む足で貧乏揺すりをしたくなる。
俺は、開き直ることにした。
「まあ、親父のことあんまり好きじゃなかったのは事実だな。女に逃げられたダサい奴って思ってたからよ。それにいつでも兄貴が第一だったからな、あいつは」
親への口の聞き方ではないが、本音を口にした。
ちらりと見ると、兄貴は若干目を見張らせていた。俺は反対に口元を上げる。
ようやく黙らせることができた気がしていた。
「親父の愛情が欲しかったの? お前」
「いや? どっちかっつうと、兄貴に構うなって思ってたね、俺は。邪魔だったんだよ」
ほら、もっと黙った。
面白くなり、さらに話を続ける。
「お前、俺のこと嫌いつってなかった?」
「嫌いだよ。俺の言うこと聞かねえから。いつも女とヤるしよ。それも趣味わりいのばっか」
不敵に笑って見ると、ますます表情が混乱に満ちていく。
「なに? どうしたの? 怖いの兄貴」
「怖くねえよお前なんか。……育て方間違えたのかね」
真面目な声音に俺は吹き出した。
「育ててねえだろ、育てたのは親父だろ」
兄貴は窓枠に頬杖をついて、鋭い視線を向けてきた。
ああ、もういいか。俺は、離れるつもりないし。
そう腹を括ったと思い込んでいたら、爆弾を落とされる。
「だからお前、俺でオナッてたんだ……俺のことマジで好きなんだな……」
急ブレーキをかけそうになった。
「何言ってんのふざけんなよ」
「お前こそふざけんなよ、俺は知ってるっつっただろうが。まあ今ので確信が持てたが」
だんだん顔が熱くなってきた。
惨めにポーカーフェイスが崩れていく。
「お前顔赤いよ? 一旦車止める?」
「うるせえ! 高速だぞ無理に決まってんだろ!」
なんでバレたんだろう。聞けない。
話題をかえたいけど無理そう。
たぶん見られたんだろう。部屋は斜め向かいだしな。
それにいつのことだか最早分からない。昔からやってたからだ。
「クソッ、あんたのせいだろ……ッ、……ガキの頃俺にいたずらしやがって……それは覚えてねえのかよッ」
「あんたって言うんじゃねえ! ちゃんと兄と呼べ!」
どうでもいいところに切れられて唖然とする。
ああ羞恥とトラウマと怒りでごちゃ混ぜだ。
「……あー、トイレのやつ? お前覚えてるんだ。知らなかったわ、それ…」
ぽりぽり頭をかいている。本当にふざけるなよこのヤロウ。
そうだ。俺が五才ぐらいで、兄貴が九才ぐらいのころ。
「キーちゃんトイレに行こう」と誘う優しい兄を信じた俺は、狭い密室でちんぽをいじられた。
訳が分からなかったが、二人で擦りあって気持ちよくなったのは覚えている。
そのあとぎゅっと抱き締められて、「気持ちいいね。キーちゃんと僕の秘密ね」と言われてそれを守ってきた。
それで俺の性は狂った。
兄に全方向が向いた。
二十三年生きてきて、女と付き合ったこともあったが、一度も満足はしなかった。
ずっとずっと、このちゃらんぽらんで不誠実な、大嫌いな兄をそばで見ていた。
「じゃあ、俺のせいだな」
「そうだよ、お前のせいだクソ兄貴」
「お前って言うな! 俺それだけは許さねえからなッ」
「うっせえな、じゃあなんて言やいいんだよ」
「お兄ちゃん?」
「死ね!」
そう叫んだ後になぜかズキッとして撤回したくなるが出来ない。
もう隣の男の顔を見るのが辛い。
どうして今日はこんなにも、家路が遠いんだ。
「責任取るから怒んなよ、なあ」
「あ?」
「だからお前のもんになってやるからさ。俺が」
「……何言ってんのあんた。頭大丈夫か?」
前を見ながら心臓ばくばくで問いかけた。
嘘だ、信じるわけがない。
単なる冗談でまた俺に悪戯仕掛けるだけだ、こいつは。
「へえ。じゃあ掘らせてくれるんだ」
「あ? 誰が掘らせるっつったよ。そこは兄弟で話し合いだろうがよ」
頭を抱えるかわりに、クラクションにぶつけたくなった。
まだ高速は降りられない。
横目をやると、兄貴は俺を見ていた。妙に真剣な眼差しで。
そして、手を伸ばしてきて膝を触った。
「……あッ、てめ、事故るだろうがッ」
すげえ変な声が出た。汗で服も濡れている。
家はまだか?早く止まりたい。
しかし車を停めたら、襲いかかってしまうかもしれない。
どうしてこんなことになった?
落ち着こう。
深呼吸しよう。恐れるな。ただの兄貴だ。
「キール。帰ったらさ、腕相撲で決めようぜ」
「何をだよ」
「だからどっちが主導権を握るかさ」
「……ああ。そうだな。そうするか」
一転して冷静に返事をした。
本気なのか優しさなのかもう分からないが、背も体格も勝っている俺が、力で兄貴に負けるわけがない。
つまりはそういうことだ。
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