短編集 | ナノ



専属で飲ませてくれ


「よいか、キール。淫魔でありながら精液を嫌うなど言語道断だ。精気を食らい生きていくためにも、精飲を極めろ」

何度となく聞かされた、魔界の社交界に君臨する父上の言葉。
この呪縛に囚われた俺は、小さい頃から食育と称して様々な男をあてがわれ、無理矢理精液を飲まされてきた。

そのせいで、俺は完全な男嫌いになってしまった。しかし断食しても腹は減るし、淫魔としてどう生きればいいのかと苦悶した。

栄養の偏りがまずかったのか細身になり、かつ外見が良かったため魔界で襲われやすいのも悩みの種だった。そこで男を漁るのは弱者である人間のほうが好都合だと思い、地上で男専用の風俗店を開いた。

ここでは従業員と客の両方から検査と称して、定期的に精液を集めている。その膨大なサンプルを薄暗い地下研究室におき、魔界製の特殊な冷蔵庫にしまい込み、日々俺はこっそりと食していた。そんなある日。

「……ん? なんだこの異常なうまさは……誰だ、この精液の持ち主は……!?」

店を経営して三年、初めて他のがすぐに霞んでしまうほどの上物と出会えた。
俺はすぐに一階へと駆けあがり、控え室にいるマネージャーに確認をとる。

「おい。この客のデータを出してくれ。至急だ」
「あーはい。えっと……一週間前に来店した若者ですね。21才の消防士です。身長190センチ、ガタイが素晴らしい体育会系のイケメンでしたよ」

俺は男が嫌いな為容貌などはどうでもいいが、体格の優れた消防士というのは中々ポイントが高い。いかにも精力が強そうで若さにも期待できる。

この風俗店は客のプライバシーを守ることに加え、従業員の安全第一のため客側の基本データはすべて掌握していた。機密保護の安心感から男娼たちのレベルも自ずと上がり、客も増える。
俺にとっても良い精液を探しやすく、もし見つけたらVIP扱いにして特典をつけリピーターにさせる。いいことづくめだった。

しかし今回発見した精液は、今までのレベルを遥かに凌ぐものだ。

「その人、何か問題でもありましたか? オーナー」
「いや、なんでもない。少し急用が出来たんでな、いつも通り開店のほうは頼んだぞ」
「お任せください。……あ、そうだ。その前にこれ、また嫌がらせの手紙がきたんですが」

マネージャーから分厚い書類が渡される。自治会の意見書から、無差別的な誹謗中傷まで様々だ。
やれ景観を損なうだの治安が悪くなるから早く閉店しろだの、陰湿でしつこい輩達だ。

人気店に成長したせいで、他店によるやっかみもあるのだろう。だが魔族からしてみれば地上のありんこがぴーぴー言ってるだけにしか思えん。

「ふん、人間ふぜいが……俺を誰だと思っている」
「え?」

もちろんマネージャーは俺が魔族であることなど知らない。今は完璧に人間の姿を取っているし、馴染む為になりきってもいる。
最も重要なのは、この風俗店をいかに長続きさせるかなのだ。まさに自身の寿命に関わる死活問題だからである。




住所を握った俺は、同じく都市部にある住宅街へと向かった。目当てはもちろん消防士だ。
マンションの一室のドアをたたく。淫魔ならば透明になり扉をすり抜けることも可能だが、ここは人間らしく礼儀を重んじるべきだろう。

「ーーはい、どちら様ですか」

中から出てきたのは、扉を覆いそうなほど長身の青年だった。Tシャツにハーフパンツというラフな姿だが、筋骨隆々のたくましい体をおしげもなく見せつけている。
顔立ちは爽やかな優男風。短い茶髪を掻き、眠そうにあくびを噛み殺していた。

「はじめまして、イアン・シュルツ君だね。俺はキール・エルゼドラングという。君も来店したことのある、風俗店のオーナーだ」

告げながら外での会話はまずいと思い、やや強引に扉の中に押し入った。
名刺を取りだしスカウトマンのように挨拶をする。
受け取った青年は瞳を大きく見張らせ、少なからず動揺しているようだった。

「あの、わざわざどうも……。でも俺、なにかまずいことしましたか…?」
「いいや。君のプレイについて問題はない。これは個人的な用件でね。単刀直入に言うがーー」

玄関先から遠慮なく室内に進み振り返ると、若者がごくりと唾を飲み込んだ。

「君の精液が欲しいのだ。俺と専属契約を結んでくれないか?」

本題を告げた瞬間、彼の中の時間が止まった。

「……えっ? 今なんて……俺の……精液? そんなもの、何に使うんですか」

その疑問は最もだろうと考え、正直に話すことにする。信用してもらうには、下手に出るしかない。それだけこの上物を逃したくなかった。

「ただ飲むだけさ。大きな声では言えないが、そういう嗜好なんだ。金ならいくらでも出すし、店の利用も今後は全て無料にしてあげよう。どうかな?」

これでノーと言う人間なんていないだろう、そう高をくくっていたのだが。

「信じられないな……こんなに綺麗な人があの店のオーナーで、しかもこんなに変態だったとは……」

急に迫ってきて壁に押し付けられる。好青年に見えたのが、まるで豹変したように瞳を細めてきた。
たかが人間に怯えるなど有ってはならないが、男アレルギーの俺は否応なく体が強張る。

「証明してくれます? 俺の、飲んでみてください」
「い、意味が分からないんだが」
「分かるでしょう。くわえてみて下さいって言ってるんです」

笑みを浮かべて見下ろす筋肉質な若者に、怖気が走る。

「すまんが俺は男が大の苦手なんだ。君の精液が欲しいだけで、まったくもってそういう趣味はーー出来れば容器に入れてくれないか」

契約を成立させるために低姿勢で交渉するものの、俺はどうやらこの男を甘く見ていたらしい。

「そんな味気無いのは嫌ですよ。仕方ないですね、じゃあ今日は手でいいです。はい、握って」

イアンは俺の手を掴んでハーフパンツにずぼっと突っ込ませた。硬くなったそれに触れてしまい内心阿鼻叫喚である。これだからホモは嫌いなんだと逆上しそうになる。

「離せガチムチホモ野郎……ッ」
「あれ、そんな顔真っ赤にして汚い言葉使って……俺興奮するだけですよ」

下着から出されたのを見てぎょっとする。なんという巨根。血管の浮き出た雄々しい逸物に、うっとえずいた。
しかし引くに引けなくなり、無理矢理握らされたものを、顔を背けながら手でしごく。
拷問に対し目をつぶり無心で努めていると、さらにとんでもない言葉を浴びせられた。

「もう出そうです、そこ座って、口開けて」

嘘だろう。こんな屈辱がこの世に存在するのか。
でもあと少しで忘れられないあの味を、また感じることができるーー。俺は跪き馬鹿のように口の中を見せて待った。まるで餌を放り投げられる前の犬みたいだ。

腰を震わせたイアンにより、眼前で出された精液を味わう。
大部分は飲み干せたが跳ね返ったりして少し出てしまった。ああもったいない。

「こ、こぼれちゃっただろう…! もっと狙いを定めてくれ!」
「無茶言わないでください。文句あるなら今度は口に突っ込んであげますよ」

台詞はおぞましいが、反対に口を優しくティッシュで拭われた。

耐えがたい経験ながらも、やはり美味しさは想像以上であった。フレッシュな精気にさらに全身が満たされ、隅々まで魔力が巡っていく。

「キールさん、ですよね。あなたが本気なの分かりましたから、契約してあげます。飲みたくなったら、いつでも俺のとこに来てくださいね」

まだ放心状態で座る俺の前にしゃがみ、イアンは笑顔を浮かべた。





こうして俺と消防士のイアンは、精飲専属契約を結んだ。内容は俺の気が向いたときに彼の精液を飲ませてもらいに行くという単純なものだったが、俺の稼業からして怪しまれているのか、金はいらないと言われた。

そもそも相手には困らなそうな彼が風俗店に来たのは、仕事柄急に呼び出されることもあったりと不規則な生活で、パートナーを作りづらいという理由かららしかった。
こちらとしても恋人がいないのは好都合だ。いたら自分の活動に支障がでる為である。


さっそく俺はある夜、町の一角にある消防署に忍び込んだ。
消防士らは週一の休日の他に、非番と当番日を交互に繰り返している。

今日はイアンの勤務日で、この時間は夜勤で寝ているはずだ。わざわざ非番の前日に忍び込み、タイムスケジュールや消防士たちの行動を把握したかいがあった。

すぐに仮眠室で一人、休む男を発見する。
予想通り突然姿を見せた俺に、飛び起きたイアンは目を白黒させていた。

「ちょ、どうやってここに来たんですか。俺仕事中ですよ」
「問題ない。何か起こればすぐに出ていく、君はただ出してくれればいい」

空腹から彼に詰め寄る。すでに他の食事では物足りなくなっていた俺は、ほぼ飢餓状態でやって来た。

「あなた、何者なんですか。変態のマフィアとか?」

正体は明かせない。そもそも人間とは対等でないし、こちらとしてはただ餌を食らっているだけなのだ。
しかしこの男は、想像よりも自由で、まるで思い通りにはいかない人間だった。

「ここは汚せないので。今日は口でお願いしますね」

頭をぐっと掴まれ、空腹に負けた俺はとうとう奴のものをくわえてしまった。
しかし苦しくて喉に達したときなんかはさらに吐き気がする。

「んっ、んう、む……っ」
「そうです、もっと、吸ってみて」

幼い頃のトラウマがよみがえる。でも何も知らなかったあの時に比べ、この漂う淫靡な空気は何なのだろう。実に鬱陶しい。
最初は押し付けていたのに、髪を優しくといてきたりと、イアンの仕草の変化も非常に気が散った。

「はあ……エロいな。おしゃぶり上手ですよ、キールさん……」

この変態野郎の口を塞いでやりたい。そう思いながらも欲に負けて、精飲する。
イアンに出されたものはすぐに口内を一杯にし、俺を至福へと誘った。

その後もちゅうちゅう吸う。出ないと分かっているのに、うますぎて口が離せない。ずっとくわえていたい。無限に出してほしい。
幼少期から俺が求めていたもの。こいつのなら……

「……んっ……どうしたんですか、もう出したのに……そんな風に綺麗にしてくれるなんて……良い子ですね」

聞き捨てならない台詞を吐かれても、夢中な俺はもはや止められなかった。





「ねえ、キールさんってどこに住んでるんですか?」
「風俗店の一室だ。あそこは自宅兼用でな。だがそんなことを聞いてどうする」
「警戒しないでくださいよ。だっていつも俺の家で会ってるから、たまには他の場所でもいいんじゃないかなと思って」

微笑みながら馴れ馴れしく話しかけてくる。
俺達はイアンの家にいた。居間のソファに座る俺と、床にあぐらをかいて見上げてくる若者。
今日で会うのは五回目になった。

「別に場所なんかどうでもいいだろう。君が出したものを俺が飲む、それだけの関係なのだから」

本音を告げると、いつも飄々と余裕ぶっていた若者が、むすっと拗ねた顔つきになる。

「俺に興味あるの、精液だけですか」
「……ああ。そうだ」
「じゃあどうして俺を選んでくれたんです。風俗店のオーナーなら、いくらでも他に男がいるでしょ?」

言葉に詰まった。まさか味見して決めたとはいえない。俺の所業がバレてしまう。

「それは、だから、君の……ことが気に入ったからだ」
「……本当ですか? ……それは、嬉しいですけど」

イアンは子供のように笑った。意味が、分からない。なぜ俺の言葉で感情をころころ変えるのか。
すると突然、頬に彼の唇が音を立てて触れてきた。混乱する俺の真正面に、かしこまって向き直る。

「あの。そろそろいいですか? 俺も一応我慢してるんですけど、キールさんのこと抱きたいなって、ずっと思ってて」

照れた笑みでさらっととんでもないことを尋ねられるが、こちらにそんなつもりは微塵もなく、寝耳に水状態であった。
しかしイアンは詰め寄ってきて、ソファの背もたれに俺を押し付け大きな体で覆ってくる。

「は、離せ、勘違いしないでくれ。俺の目的は精飲であり君と寝ることではないっ」
「じゃあなんで、いつも腰よじったり、してるんですか」

二人の密会での光景が浮かび上がり、体がじんわり熱くなっていく。
にやりと笑うイアンは俺の腰を強引に引き、抱き締めるように背中に腕を回し、ズボンの中に手を入れてきた。

尻を鷲掴みされ、揉まれて下半身が跳ねる。

「舐めてるだけで感じるんでしょう? ほら、ここも、どうして濡れてるんです。準備してきてくれたんじゃないんですか?」

長い指に尻をいじられる。淫魔なので性交のときは尻も濡れるのだ。

「あっ、ああ!」
「ずっと想像してたんですよ、キールさんの乱れる姿……俺の全部くわえて、やらしい声で、喘いでる顔……」

近づいた唇にキスをされる。俺は、大混乱である。
甘い顔に騙されそうにもなったが、そもそもこいつは強引な、精力に溢れた若い男だ。

ソファで犯されてしまうのかと思ったが、イアンは俺を初めて入る寝室へと連れ込んだ。
広々としたベッドで覆い被さり、あれよあれよと服を脱がされ、彼の引き締まった肉体も目の前に晒される。

「や、やめ、ああ、俺は、こんなつもりじゃ…!」
「そうですか? 俺はいつも、あなたとこうなりたいって、思ってましたよ」

愛撫を受けながら、裸体で絡み合い、濡れそぼったそこへ男のぺニスが挿入される。
イアンの腰つきが徐々に激しいものに変わり、俺は口を閉じることもできず揺さぶられる。

これではただセックスをしているみたいだ。
もちろん性交でも餌となる精気は得られる。中に出されれば最も魔力が高まり腹も膨れる。
しかし男が眼中にない俺はそんなことを考えたこともなかった。

「キールさん、気持ちいいですか?」
「……黙れ……っ」
「そんな突き放さないで、素直になってください、今日はあなたのこと全部、気持ちよくしてあげますから」

口を塞がれる。こじ開けてきて、結局繋がっている気持ちよさに負けた俺は、キスを受け入れた。
それに気づいたイアンはさらに勢いを強め、俺の名を呼びながら何度も奥深くを突く。

抱かれ続け、何時間が経っただろう。なんとなく日頃の精液の量や質、濃さから予感はしていたが、こいつは絶倫だった。

「はあ、ああ……キールさん……」

長い腕に閉じ込められ、終わりのない愛撫が肌を走る。
こんなはずではなかったのに。男嫌いなのに抱かれてしまった。
美味い精液を見つけたかわりに、あまりに失ったものが大きい。

しかも男は甘い言葉を囁いてくる。俺は餌の人間と同等ではないのにだ。

やっとのことで行為が終わり、イアンが隣で眠りについた頃だった。腕を抜け出して帰ることにする。

たんまりと精気を食らい足元がふらつく俺は、ひとり決意をしたのだった。
もうこいつと会うのはやめよう。精液は郵送にしてもらおう。



◇◇◇



しかし、平穏に戻ったかと思われたある日。風俗店にイアンが現れた。
マネージャーが通したのだろう、控え室で新聞を読む俺のもとに、彼が会釈をして入ってくる。

「なんだ? ああ、そうか。君はもうVIPだからな。好きにうちの奴らを食っていけばいい」

目線を落とし淡々と告げると、イアンが机のそばに立った。

「客じゃありませんよ。ただキールさんに会いに来たんです。駄目ですか?」
「……ダメだ。客じゃないならここには来るな」

毅然とした態度を崩さずに言い放つ。この男の押しの強さを知っているからだ。
だが予想に反して彼の瞳は伏せられ、心なしか曇った表情を浮かべられた。

「冷たいですね。だって、あれから一週間以上来ないし、やっぱり嫌でしたか。俺に抱かれるの」

しおらしい態度で言われると、こちらが悪いことをした気になる。

契約をもちかけたのは自分だから半分はそうなのかもしれないが……魔族のくせに少しだけ気まずくなった俺は立ち上がり、近くの長椅子に腰をかけた。
イアンも俺の隣に座り、表情を探ろうとしてくる。

「嫌か嫌じゃないかと言われれば嫌だが、問題は俺が思いのほか感じ過ぎてしまい、自尊心が打ち砕かれたのが君に会いたくない原因だ。分かったなら帰ってくれ」

淀みなく発声し、彼を見る。するとあろうことか、イアンはふふっと笑みをこぼした。

「そうだったんですか。正直なとこが可愛いですよね、キールさんって」

なぜか隣に寄り添って肩を抱かれた。ああうざい、まるで効いていない。
なぜこいつは人の話を聞かないんだ。人間のくせに振り回してきて感情が定まらなくなる。

「手紙を見ただろう。君とはもう会わない」
「あんなの納得できませんよ。俺の精液は絶対、新鮮な状態でキールさんに飲んでもらいます」
「変態が……」
「あなたに言われたくないな。俺のがどうしようもなく好きなくせに」

言い合ううちに、目元を赤くする彼の瞳に、まっすぐ見つめられていることに気がついた。

「俺のことも好きになってほしいですけど……」

さらっと呟き、耳を疑った俺の目の前で、顔をほんのり染めていく。
そして急に唇をちゅっと触れさせたあと、何事もなかったかのように立ち上がる。

「キスをするな!」
「嫌です。一週間ぶりなんで。今日は、俺当番日ですから。いつでも署に来てくださいね、キールさん」
「行かないって言ってるだろう!」
「ならまたこっちから行きますよ。あなたが寂しくならないように」

鼻持ちならない笑顔で部屋を出ていった。
もうこの男のことは忘れたい。ペースがめちゃくちゃに乱される。
食欲のことよりも、男の顔がちらつくなんて。

そうだ。他に後腐れないやつを見つけよう。
あいつより美味しい男なんて、そう簡単に出てこないだろうがーー。





その夜、俺は地下にこもり、やけ酒のようにいくつもの精液をあおった。そしてそのまま寝てしまう。

大事件はまさにその後に起きた。
ふと一人がけの椅子で目を覚ますと、部屋のすみの換気口から煙が入ってくるのが目に入った。なんだこれは……。

感覚を研ぎ澄ませると、ぱちぱちという火の音。そして白煙。
火事だ。まずい。いくら魔族といえど、火に焼かれるのは避けたい。再生するのに膨大な労力と魔力が要る。

階段を上がろうとするものの、炎が迫っている。地上はすでに火の手が回っているようだ。
地下のため壁のすり抜けができない。

万事休す、という文字が過ったその時だった。
甲高いサイレンが耳に届く。消化の音と水音もだ。

「キールさんッ!」

飛び込んできたのは、消防服をまとったイアンだった。そうか、こいつは消防士だったな。
俺が行かなかったら来ると言っていたが、まさかこんな形でこんなに早く再会するとは。
さすがに想定外だった。

地下に降りてきたイアンは果敢に俺を救いだし、抱き上げて建物から脱出をした。
外には火事を聞き付けたマネージャーや従業員の姿が見られた。夜中だったため内部にいたのは俺だけだったのが救いだ。

「キールさん! 大丈夫ですか! 怪我はありませんか……!?」

俺を抱き抱えたまま担架に下ろし、ゴーグルとマスクを外して声をかけてくる。

「ああ、大丈夫だ。これぐらいじゃ死なないよ、俺は」

落ち着いて告げると、勢いよく抱き締められ「よかった……」と小さな声で呟かれた。どうやら勇敢な消防士のほうが、この状況に肝を冷やしていたようだ。

「さすがに魔族といえど、間一髪だったけどな。イアン、君のおかげだ、助かった」
「え……? 魔族? キールさん、やっぱり頭のどこかを打ったんじゃ」

再び心配に眉をよせた彼を見て、今が良い機会だと思い、自分の正体を明かすことにした。
消防服を着たイアンの腕を取り、まくり上げる。救出の際に打撲を受けたらしき痕を見つけ、俺はその部分を魔術で治療して見せた。

紫の光粒が浮き上がったのを目視し、一瞬彼は言葉を失う。

「俺は人間じゃない。精液を食す、淫魔なんだ。だから君と契約を結んだ。……この風俗店も、人間の男の精液集めに利用していたんだ。もう全部、焼け落ちてしまったがな……」

全てを失ったことを自覚し、遠い目で見つめる。

「そんなことって……あるんですか。あなたが淫魔、だなんて」
「信じられないならいい。俺が怖くなったか? 安心しろ、すでに話したようにもう君に頼むことは……」
「すみません、他にもいたんですか? 契約してるやつが」

真剣な顔で問われるが、俺は首を振った。そんな面倒かつ気色の悪いことをするのは、この男ただ一人だ。それで十分だった。
そう告げると、イアンは安堵の表情を浮かべた。そしてまた思いもよらぬことを言い出し、俺の繊細な心を揺さぶってくる。

「そうですか……店のことは残念だけど、大丈夫ですよ。食事のことなら気にしないで、俺がいますから。ね、キールさん」

何を言っているのだろう。
魔族の俺を恐れもせず受け入れるとは。

「君は、正気か? どこの世界に自ら悪魔の餌に成り下がる人間がいるんだ」
「そういうつもりはありません。俺からも条件があります。あなたの中で、餌から恋人に格上げしてください。だったら、毎日飲ませてあげますから」

恋人とはなんだ。開いた口が塞がらない。

従業員のこともあるし、風俗店はまた再建するつもりだ。しかし確かに、それまでの食料補充が問題である。


結局俺はその後イアンに「住むとこないでしょう、しばらく俺のとこ来てください」と言われ、やむ無く世話になることになった。

火事の原因はなんと放火で、他店によるものだった。少し火をつけて脅かすつもりが、大火事になってしまったという供述をされ、さすがに大人な魔族の自分も犯人を血祭りにあげてやろうかと思ったが、踏みとどまる。
当初の計画通り、もう少しこの地上で、生活してみようと思っていたからだ。

それは別に、美味すぎる精液をくれるこの男のためだけではないーーと言いたいところだが。





平日の午前10時頃。俺はマンションの一室で、慣れない料理を作って待っていた。
相手は一緒に住み始めてひと月ほどの、若い男だ。

ベルをならさずにガチャガチャと鍵をこじ開け、玄関先に現れた男を迎える。

「ただいま、キールさん!」
「ああ。おかえり。早かったな、イアン」

いつものように大きな体に抱きつかれた後、俺はそのまましゃがみこみ、床に膝をついた。
ズボンのボタンを開けていき、下着越しのそれに頬を擦り付ける。

「ちょっと待って、汗くさいですから。早く帰りたくて、シャワーも浴びずに帰ってきたんですよ」
「別に構わない。俺も二日ぶりで腹が減ってるんだ、早く君のを飲ませてくれ」

この変わりよう。単なる慣れなのか、自分でも何かがふっきれたのか。
止める声も聞かずに、男の股間にしゃぶりつく。

「ああ、参ったな。キールさん、後でお仕置きしますよ、俺……」

俺はほぼ毎日、口で体で、彼のものを飲まされていた。

その日も言われた通りベッドでもてあそばれる。人間のくせに変わらぬ絶倫。淫魔のくせに、激しく抱かれて連日ふらふらである。

事を終えて二人で横たわっている時、イアンが優しい瞳で俺を見つめてきた。

「どんどん好きになっちゃいます、あなたのこと……可愛いです、キールさん」

好き、好きとは。

興奮してSっぽい言動で抱きはじめてから、どんどん甘い言葉をささやいてくるのがこの男のやり口だ。分かっているのに、俺もかなり毒されている。

「キールさんは? 俺のこと好き?」

体を寄せて尋ねられるが、俺は天井に視線を向け、口を開いた。

「別に俺も、嫌いだとは言っていない。男は嫌だったが、君は別だ。……一応、特別な……部類だ」

この男と知り合って、自分は魔族のくせに嘘がつけないタイプだと知った。
イアンに嬉しそうな笑顔で抱き締められる。

そもそも嫌だったら男のそばなんかで暮らしていないだろう。その事実こそが、俺の彼へのまぎれもない気持ちなのだ。

けれどこのままではいつか全面的に負けそうで怖い。
お腹も満たされて、同時にこれほど心も満たしてくるのだから。
……すでにこの男には負けているのかもしれないが。


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