▼ 86 ハイデル家の人々 -家族編1-
丘の上に建てられた大きな屋敷の正門前に、俺達兄弟は立っていた。ここは紛れもなく俺とクレッドの生家だ。そして不肖の息子である俺が約三年ぶりに帰ってきた実家でもある。
ああ、まじで入りたくねえ。どんな事態が待ってるんだろう。
「兄貴、なんか顔色悪くないか。俺、心配だ」
「……ああ、ちょっとな。だって……やっぱ色々と、緊張するだろ。お前は平気なのかよ」
「え? 何が?」
何故か全く俺の意図することが分かってない様子の弟は、むしろ今日、どこかずっと嬉しそうな顔をしていた。
家族に会うというのに、俺達の関係が気にならないのか? こいつの精神力、半端ない……
俺は身震いしながらも、真剣な面持ちで玄関へと足を踏み入れた。
ベルを鳴らし、深呼吸をする。ほんの数秒の後、分厚い重厚な扉が開かれた。
最初に目に飛び込んできたのは、一瞬驚いた表情を浮かべた乳母のマリアの姿だった。
「……坊っちゃん達、お帰りなさいませ!」
すぐに優しい笑みで俺達を出迎え、中へ招き入れる。母より一回りほど年上の、ふくよかで温かみのある女性だ。
会うのは久しぶりだが、生まれた時から世話になり家族同然の存在で、いつもと変わらぬ微笑みを前に緊張感が和らいでいく。
「マリア、ただいま〜」
まるで昔に戻ったように二人で挨拶をすると、両手を合わせ、さらに喜びの表情になった。
「お二人が一緒に帰って来られるなんて、こんなに嬉しいことはありませんよ。あっ、早速奥様をお呼びしないと。テラスにいらっしゃるかしら……」
うきうきした様子でそう言うと、玄関のそばにある階段へと向かおうとした。
え、うちにテラスなんてあったっけ……ふと疑問に思っていると、上階から人の足音がした。しばらくして降りてきたのは、俺の母親当人だった。
「セラウェ……!」
俺達兄弟の姿を見て、マリア以上に驚きと満面の笑みを見せた母は、すぐに玄関まで駆け寄ってきた。
手紙のやり取りがあったとはいえ、三年ぶりの再会だ。年のわりに若々しい黒髪と綺麗に保たれた肌から、可愛らしい小柄な女性という印象は変わっていない。
「あ、お母さん。ただいま。元気だった?」
とぼけた感じで尋ねると、突然腕いっぱいに抱き締められた。慣れない抱擁に固まりつつ隣の弟に視線をやると、何故か生温かい目で見られていた。
母は俺を離し、大きな緑の目を見開いて、二人の顔を交互に確認した。
「お帰りなさい、二人とも。やっと帰って来てくれたのね、セラウェ。クレッドも一緒で良かったわ」
耳が痛い言葉だがしみじみと言われ、頭を掻いてごまかした。
つうか、なんだろう、この別の所から押し寄せる途方もない罪悪感。そして脳内を埋め尽くす謝罪の言葉。申し訳ありません禁忌を犯した僕を許してくださいーー
いやいやいや。頭から振り払い必死に考えないようにした。
「そ、そうそう。こいつに誘われて、いい機会だからってね。なあクレッド?」
「ああ。お母さんも喜んでくれて良かったよ。いつも兄貴のこと言ってたもんな」
「当たり前よ。……でもあなた達がまた仲良くなってくれて、私嬉しいわ」
げっ。当然だがしょっぱなから痛いとこ突かれた。俺は不自然すぎる程目を動かしながら、弟の肩をバシンと叩いた。
「あ! そうだ。こんなとこで立ち話もなんだし、クレッド、とりあえず部屋に荷物置いてこようぜ」
「……えっ。ああ、そうだな」
俺が目配せすると、何故か弟は一瞬ぎくりとした。不審に思い顔を覗き込むと、すっと視線を逸らされた。
「あら、じゃあその後皆でお茶にしましょう。ね、マリア。やっぱりテラスが良いわよね」
「はい。お天気も良いですし。そういえば奥様、旦那様はどちらに?」
「ルフリートならもう二階で待ってるの。そうだ、あなた達二人もお父さんに挨拶してきなさい」
にっこりとした笑みで言われ、俺は文字通り硬直した。え、親父いんのかよ。剣の指導とかで外出してそうな昼間をわざわざ狙ってきたのに……。
つうか何故俺達の子ども部屋がある二階で待ってるんだ。逆に怖すぎる。
途端に気力が萎んでいった俺だが、楽しそうに話す女性陣二人に押され、クレッドと共に渋々と上階へ向かった。
長い木目調の廊下を歩き、反対側の窓辺に映る庭園の風景を眺めながら、いくつかの部屋を通り過ぎる。
こうして二人で歩いていると、子供時代を思い出し、なんだか懐かしい。
成長してからは距離があり、家の中で二人きりになる事はほぼ無かった。でもあの時からこいつは俺のことを……
思いを馳せながらクレッドを見やると、奴は何故かさっきから押し黙っていた。
ん? なんか様子がおかしい。もしかして、やっぱり辛い事思い出させたのか。
不安に感じ、立ち止まって弟の伏せがちな瞳をじっと見た。
「なぁ、どうした? 大丈夫かお前。元気ないのか?」
「……兄貴、実は俺……言わなきゃいけないことが……」
「えっ。何?」
神妙な面持ちで顔を歪めた弟を見て、心臓がドクンとなった。ど、どうしよう、やっぱ良心の呵責に耐えられなくなったとか? 急に二人の関係が嫌になったのか? そんな、嘘だろーー
途端に頭がぐらつく中、廊下に何者かの気配がした。ぎしり、と床が軋む音が聞こえ、俺達二人の注意が一斉に向けられる。
「おい。お前達二人で、そんなとこで何突っ立っているんだ。早くこちらに来い。俺は待ちくたびれたぞ」
げ。この威圧感に満ちた渋い声だけでも分かる、頑固親父の様相ーー完全にあの男だ。
覚悟を決めてその姿を捉えると、予想通り俺の父親が厳しい顔つきで立っていた。
肩ほどまでの金色の髪を後ろで結わえ、全く年を感じさせない筋肉の張りとガタイの良さ。顔はクレッドにそっくりだが、弟から柔和さと甘さを全部引いた言わば原成分の塊のような男だ。
「……親父こそ、何やってんだよ。あんまり二階に足踏み入れたことなんて、なかっただろ」
「以前はな。だが今は、俺のお気に入りの場所なんだ。お前もほとんど帰ってこなかったしな」
やっぱ愚痴愚痴と嫌味で責められるパターンか。苛つきを抑えながら、俺は廊下を進んでいった。
けれど自室が近づくにつれ、なんか様子がおかしい事に気がついた。
あれ、俺の部屋の扉が開けっ放し……っていうか完全に無くなっている。それに物凄い日の光がきらきらとこぼれ出している。
「兄貴、落ち着いて聞いてくれ。実はーー」
後ろから急いで追ってきたクレッドの声が聞こえたが、俺は構わず自室のすぐ前に立っていた親父を押しのけ、中を確認した。
な、なにこれ。……俺の部屋が跡形もなくなってるんだけど。
なんか全面ガラス張りの、燦々と太陽光が入り込んだ、お洒落なテラスになっている。
「ちょ……誰がやったんだ、こんな事」
「俺だ。どうだ? 素晴らしいだろう、このセンス。お母さんのリクエストだったから、かなり細部までこだわったぞ。石細工の職人と庭師も総出でな」
目を細めて満足げに言う父親を、呆然としながら見つめる。すると長身の男は俺を小馬鹿にしたような笑いを向けてきた。
「何か文句あるか? お前が全く帰ってこないのが悪いんだろう」
「ふ、ふ、ふざけんな……意味がわからない。酷いぞ親父!! お、俺の思い出とかは? つうか色々蔵書とか大事なもん置いてあっただろ!」
「あのくだらん魔法書の類か。全部お前の弟の部屋に移したぞ。なあ、クレッド」
「えっ。ああ、そうだけど」
処分しなかっただけ有り難いと思え、とでも言いたげな目つきで見下され、口をぱくぱくとさせてしまう。今に始まった事じゃないが、この親父頭がおかしいだろ。
「クレッド、お前なんで黙ってたんだよっ」
「……兄貴がショック受けると思って、言えなかった。ごめん」
「ああショックだよ! 俺どこで寝りゃいいんだよッ」
「それは俺の部屋空いてるし、広いから一緒に……」
にこっと笑顔になった弟を見てサアアっと血の気が引いた。おいおいおい、こいつマジで頭湧いてんじゃねえのか。親父の目の前だぞ冗談にしてもキツすぎるだろ、というかその嬉しそうに緩んだ顔つき今すぐヤメロ馬鹿かーー
一気に罵詈雑言が駆け巡る中、親父の鼻で笑う声が聞こえた。
「お前達、随分仲が良くなったみたいだな。セラウェ、お前また弟を味方につけて俺を出し抜こうとするつもりか? 言っておくが、俺はまだお前の妙な活動を認めたわけじゃない。今からでも遅くはないぞ、きちんとした定職についてーー」
また始まったよ。俺が今から何に転職出来るって言うんだ。自慢じゃないが俺には魔術以外取り柄がないぞ。つうか魔導師としても最近全く活躍してないし。
俺は耳へと入ってくる長々しい父親の説教を聞き流し、テラスにある大きなテーブルの前に腰を下ろした。
親父も小言を言いながら俺の正面に座る。まだ何か言いたげな顔をしているクレッドを制止して、隣に座らせた。
この説教が始まったら長いな……そう思い、俺はある事柄を思いついた。
「なあ親父……そういや俺、聞いたんだけどさ。俺の師匠に会いに行ったこと、あるんだって?」
珍しく相手の顔を見据えてニヤリと尋ねる。案の定、親父は一瞬眉をぴくりと上げて言葉を詰まらせた。
どうやら聞かれたくなかったことらしい。
「それがどうした、昔の話だろう。……あの男、あれほど喋るなと言ったのに何故ーー」
「えっどういう意味だよ。何で秘密にしてたんだ? ……ていうか俺のこと、そんなに心配してくれてたなんて、知らなかったよ」
気まずい顔をする父親にたたみかけるように言いながら、俺は柔らかい笑みを向けた。ふふ、この男はプライドが高すぎるのか、俺と同じく素直になり切れない所がある。
いつも言われっぱなしじゃ腹が立つので、この話題をチラつかせ、少しの間でもいいから黙らせようとした。
けれどそこに何故か俺の弟が食いついてきた。
「えっ、それ本当か、親父。兄貴の師匠に会ったのか」
途端に騎士の険しい顔つきで問いかける。すると親父はこくりと頷いて認めた。
二人は急に苦虫を噛み潰したような表情になった。
「まあな。なんだ、お前も知ってるのか。あの破天荒な暴力男のことを」
「ああ、勿論だ。兄貴のことを振り回し、俺の騎士団にまで色々な迷惑をーー」
え、なに親子で身を乗り出しながら、俺の師匠の悪口で盛り上がり始めてんだ。こいつらそんなとこで気が合うのか? 同族的な親近感ってやつなのか。
「ふっそうか、やはりな。俺の思ったとおりだ。いつかセラウェの道を阻む存在になると睨んでいた。まあ、あれ以来全く足取りが掴めなくてな……食えない男だよ」
「その気持ち、俺にも分かる。兄貴にとって害悪ならば、俺も本気で奴を捕らえようと思ったんだが。認めたくはないが、実力は馬鹿に出来ない」
「それはそうだ、クレッド。お前は俺の息子達の中で飛び抜けて剣技の才があるが、まだまだ若い。気を抜くなよ、これからだぞ。そしていつかあの男を捕らえてみせろ」
「ああ、分かった。俺、頑張る」
弟は父の叱咤激励の言葉に決意を滲ませ、力強く頷いた。
ちょっと、何なんだこの会話。流石に聞いてるだけで寒々しくなってきた。俺が親父を辱めて黙らせる目論見が、簡単に消し飛んだじゃねえか。
「おい。もうその辺でいいんじゃないか。一応俺の師だぞ。全否定は止めろよ。それになんで前向きなまとめに入ってんだよ」
溜め息を吐きながら突っ込むのだが、この似た者親子、全く人の話を聞いていない。どういうことなんだろう、やっぱこの家にまともな男子いないよな。俺が言えることじゃないが。
テラスの日光に照らされながら肘をついてぼうっとしていると、外から賑やかな声がした。
そういやお母さんとマリア、遅いな。まだお茶の準備してんのかな?
疑問に思っていた所へ、廊下から母が現れた。銀色のトレーに自家製の大きなチョコケーキを乗せ、笑顔で登場する。
幸せそうな雰囲気に水を差したくはないが、一言言いたい気分になっていた。
「お母さん、ケーキ凄く美味しそうだね。食べるの楽しみだなぁ。っていうかさ、これどういう事? なんで俺の部屋テラスになっちゃってんの? どうして手紙で教えてくんなかったんだよ」
つい興奮気味にまくし立て、親父には秘密にしている手紙の事を口走ったことに一瞬焦ったが、あの二人はまだペチャクチャと騎士談義で楽しそうだった。
母は俺の詰問にきょとんとした顔をして、トレーをテーブルにそっと置いた。けれどすぐに柔らかい笑みを見せる。
「あっ、どう? この場所、素敵でしょう。あなたも気に入った? 私最近ガーデニングにはまっちゃってね。大変だったのよ〜色々建築とか床材とか注文つけちゃったんだけど、全部ルフリートが応えてくれたの。優しいお父さんだと思わない?」
何の悪気もなくぬけぬけと宣う母に向かって、俺は盛大に肩を落とした。こっちの質問にもほぼ答えてないしな。
そういえばこの母親は、俺と同じく何かにハマりだしたら、基本的に納得いくまで追求してしまう気があるんだった。
「そういう事じゃなくてね。俺の大事なものとか色々……。も、もういいや、じゃあ俺どこで寝ればいいの?」
「何言ってるのよ。部屋ならたくさんあるでしょう。一階にも客間があるし、三階にもいくつか空いてる部屋あるわよ。どれでも好きなの選びなさい。……あ、そうだ。でも今日お兄さんも来るのよね」
確かに広い屋敷の中には、多くのゲストルームが存在する。昔から親戚が集まった際や、父親の仕事関係の人間が泊まりに来た時などに使われているのだ。
まあとりあえず、泣きたい気持ちではあるが、これ以上文句を言ってもしょうがない。
…………え。っていうか今、最後何て言った? この天真爛漫なお母さん。
「に、兄さんが来るの? どっちの?」
「ふふ、あなたのすぐ上のお兄さん。シグリットよ」
いや、そんなすぐ上でもない。八つ年上の兄貴だぞ。遠方に住んでいてほとんど会う機会はないが、たまに顔を合わせると中々のうざさを発揮してくる、あのしなやかな騎士の男ーー
固まっていると、廊下の先から軽やかな足音が聞こえてきた。これはマリアじゃない。聞き耳を立てていると、男二人の話し声が響いてくる。
最初に顔を出したのは屋敷の世話役であるヴィレだった。マリアの息子であるこの男は、長年親父の職務を手伝う有能な秘書のような役割をしている。
「坊っちゃん達、お久しぶりですね。お元気そうで何よりです」
にっこりと笑顔を見せ、三年ぶりだと言うのにいつもと変わらぬ調子に少し拍子抜けする。親子そろって不思議な包容力を感じさせる存在だ。
まあ、頑固親父の相手をするんだから心の広い人間じゃないと無理か。
「久しぶり、ヴィレも元気そうで安心したよ。俺達さっき着いたんだけどさ……」
話し始めたところで、廊下の後ろから違う男の影が見えた。颯爽と現れたそれは、何故か所属する騎士団の制服姿だった。
深みのある濃いめの金髪と整った顔立ちから、一見チャラチャラと軟派に見える男ーーいや実際に軟派な色男そのものである、俺の兄だった。
「セラウェ!」
ヴィレの肩を押しのけ、立ち尽くしている俺に向かって、優雅な身のこなしで突き進んでくる。
兄の異常なまでの嬉しそうな顔に、一瞬身の危険を感じた俺だったが、年を食ったとはいえまだ現役の騎士の勢いに抗えるはずもない。
シグリットは大きく手を広げ、俺をその腕の中にバッと抱きしめてきた。
「うあぁッ、苦しい兄さんッ」
「あ、悪い悪い。会えて嬉しいぞ、セラウェ。ほら、お兄ちゃんに抱擁し返して」
何故俺が、三十代後半に差し掛かった男(ブラコン野郎)と抱き合わなければならないのだろう。
けれどいつもの恒例行事だ。三年ぶりだしな。諦めてそろそろと背中に少しだけ手をつけた。
周りは生温かい目で俺達兄弟の再会を眺めていた。おそらく親父は失笑しているだろうが。
あれ、でもクレッドのこと忘れてた。こいつ、いつもこの場面で何故か俺のことを助けてくれてたんだよな。
冷ややかな目で「二人共、いい年してみっともないぞ」とか言って。あの時は馬鹿にしてんだろうなと思ったけど、今思えばあれって、優しさだったのかなぁ。
ぼんやりと考えていると、いつの間にか俺とシグリットのすぐそばに、怖い顔をした弟が立っていた。
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