お父さんにお世話してもらう僕 | ナノ


▼  5 口づけのあと 前編

寝ている父に内緒でキスをしてから、僕はよく夢を見るようになった。
そこには三人がいる。僕と父と、お母さんだ。

木々に囲まれて、暗闇で火を焚いている。
その前のベンチに僕を挟んで、二人は座っていた。
上着同士が両方の肩に触れてあったかい。両親の温もりが、本当にそこにあるみたいだった。

『花火、楽しかったね。ロシェ』
『うん! お母さん、でも怖がってたよね』
『あ、笑ってる。だって音からして危ないもん、ロケットのやつ』
『お前、怖がりだよな。ロシェのほうが勇気あるよ』
『ほんとだよね。逃げないのすごい、さすが男の子だわ』

母に優しい声で肩を抱き寄せられる。すると頭の上から『俺に似たんじゃないか?』という誇らしげな父の声が聞こえた。

「はいはい。そうだね」と笑う母の声。
そして間もなく、ちゅっと軽くキスする音が聞こえた。
僕はむぎゅっと二人に挟まれて、くすぐったくて笑ってしまう。

『あー。また来年も来ようね。三人で』
『うん! 絶対来る、約束ね!』
『ああ。約束な、ロシェ』

今度はお父さんに頭を撫でられて抱き寄せられる。
とても幸せな、時間。
そう感じた瞬間に、夢は終わり、僕は目覚めた。


薄暗いベッドの上で、ぼんやりと天井を見る。父も母もいなくて、急に僕は一人ぼっちになる。

久しぶりに母の夢を見て、その存在を感じた。
事故の日の前日である、キャンプの夢は初めてだった。

少しじっとしてから、じわりと涙が浮かんできた。
もっと夢の中で顔を上げて、母の顔を見ればよかった。これは夢なんだって、分かることが出来ていたら、話しかけたのにな。

でもきっとお母さんは、怒っている。
僕が父に勝手にキスなんてしてしまったから。私の旦那さんなのよって。

怒ってほしい。また皆で何もなかったかのように、三人で暮らしたい。

どうしてお母さんだけ死んじゃったんだろう。
その思いはいつまで経ってもなくならない。
おばあちゃんの家で、父とこの間気持ちがもっと近づけたと思ったのに、ふとした考えが蘇り、また落ちてしまう。

事故のあと、小さい僕はずっと泣いていた。父の存在に安心する一方、どうして母はいないんだと寂しい思いを強くぶつけたこともあった。

『お母さんはどこ? 会いたいよう』
『ごめんな、ロシェ。ごめんな……』

あるとき、いつものようにぐずっていたら、父は初めて僕の前で泣いた。大人の父が、涙がこらえきれず溢れていくのをみて、僕はショックを受けた。

自分の言葉が振るまいが、家族を苦しめていることに気づいた。これは言っちゃいけないことだとようやく知り、僕は時々泣いてしまうことはあったけど、それ以来母のことを口にするのをやめた。

数年経った今では話題に出すことは時折ある。母はこんなことが好きだった、こんな色が好きだったとか、父と話しながら。教えてもらいながら。

僕の中では悲しいことに記憶は段々おぼろげになっている。でも夢に出てくれるから。

それが嬉しかった。なのに。
秘密の行為をしてしまってから、父への思いが変わりゆくのを感じ始めてから、罪悪感が募るようになっていた。

今、父はどうかというと、あれから何となくスキンシップが多くなり、たまに何かを言いたげにしている。でも何も言わないので僕もほっとしていた。

キスしたことはバレてないみたいで、それは最近ごちゃごちゃしている頭の中で、大きな救いのひとつだった。

悪いことをしてしまったという自覚はある。
それなのに、まだ気持ちは波のように荒立っていて、僕の感情は遠くの海で漂流しているみたいだ。

秘密の介助だって、しばらく頼んでいない。今さらどんな顔をすればいいのか、分からなかったのだ。




そんな日々が流れる中。学校の授業とか家での自習以外に、自分の精神が集中できる場所がある。

それはリハビリ施設の訓練場だ。週に一回、理学療法士のマーガレットさんに付き添ってもらい、体の動作の訓練をしている。
水色の作業衣を着て茶色の髪を後ろに結わえた、僕より十才以上年上のお姉さんだ。

「ロシェくん、じゃあ今度は手すりを使って、段差の上り下り始めましょうか」
「はい。お願いします」

寝台の上での足腰のストレッチが終わった後、少し休んでから、短い三段ぐらいの簡易階段で歩く練習をする。
家でも父に補助してもらい、二階への行き来をたまにすることがあるけれど、本当にゆっくり一歩一歩神経を使うので、僕には一番集中がいる訓練だ。

「はあ。ちょっと疲れちゃった」
「そうだね、少し休もう。でも凄いよ、重心しっかりしてる。左足もうまくバランス取れてるよ」
「本当に? 嬉しいな」

動く側だけでなく、麻痺してる左側の動きも褒めてもらえて僕は笑顔がでた。
マーガレットさんは細かいところも指導してくれるし、説明もとても分かりやすく寄り添ってくれるから、僕はこれまで腐らずにやる気を維持出来ているんだと思う。

ここでは手すりや杖を使った歩行などの基本動作のリハビリは、理学療法士の人に見てもらえて、例えば洗濯ばさみを使ったり、もっと細かい指の動きなど、日常生活に必要なリハビリなどは作業療法士の人に教えてもらうことが出来る。

そして彼らをまとめる役として、リハビリ専門医の男の先生もいる。
個人個人の症状と達成具合から、メニューを考えて指示を出してくれるのだ。

「ロシェくん、頑張ってるね。今日はどうだった?」
「ハリス先生。目眩もないし、集中できました。まだまだ続けられそうです」
「はは、頼もしいなあ。けど使いすぎは疲労に繋がっちゃうから、大丈夫だと思っても無理はしちゃダメだよ。あっ、そうだ。今度マーガレットさんが体操教室に講師として参加するんだけど、君も行ってみる?」

白衣姿の先生が僕に向かって提案をしてきた。隣のマーガレットさんもにこりと笑って説明してくれる。
ここから程近い市民ホールの一室で、この場と同じように四肢麻痺を抱えた人々に、在宅でも出来るストレッチ法やリハビリ法などを教えてくれるイベントがあるらしい。

「そうなんだ、すごいなあ。勉強になりそうだね」
「うん。良かったら、ロシェくんも参加出来るからね。あとでお父さんとお話して考えてみてね」

僕もしっかり頷いた。
この施設でも周りは大人の人やお年寄りが多く、皆一生懸命体を動かしている。
でも少し人見知りの僕はいつも挨拶を交わす程度で、あまり積極的に会話することはなかった。

イベントは多くの人が集まりそうだけど、体の為にも思いきって参加しようかな。
そう思い、さっそくその日迎えに来てくれた父に聞いてみることにした。

いつものように夕方五時頃、施設の玄関ロビーで、車イスに乗った僕はマーガレットさんと父と三人で会話をしていた。

「ねえお父さん、今度こんな体操教室が開かれるんだって。僕も行ってみていい?」
「ああ、良いんじゃないか。面白そうだな。やってみたらいいよ、ロシェ」

もらったチラシを一緒に見ると、背を屈め顔を近づけてきた父に少しドキリとする。

「あ、あのね。マーガレットさんも講師で参加するんだって。だから僕、安心だし楽しみなんだ」
「え、ロシェくんそんな嬉しいこと言ってくれるの、ありがとう」

二人でちょっと照れたみたいに笑い合う。それは本当の気持ちだった。

「実は初めてなんですよ、講師として皆さんの前で実演するのは。結構参加者が多くて」
「そうなんですか。じゃあ、少し緊張しますね。頑張ってください」

見上げると、父は眼鏡の中の瞳を微笑ませて彼女にそう告げた。
マーガレットさんは「あっ、はい。頑張ります。ありがとうございます、リーデルさん」と軽く頭を下げ、ちょっと顔を赤らめさせていた。

たったそれだけの二人のやり取りに、僕はどきどきしていた。
なぜだろう、よく分からない。
その変な気持ちはいつも通り、とりあえず気にしないようにすることにした。





そして翌週の週末。いよいよ体操教室の日がやって来た。
町の市民ホールに父と二人、車で訪れた僕は、数十人もの人が集まった講堂にいた。

正面には大きな白いボードがあり、数人の療法士の人達が挨拶をした後、リハビリテーションについて様々な事柄を話してくれる。

その前には体のどこかに麻痺などの障害がある人々が、一人一人柔らかめの長椅子に座っていて、さっそく体操の実演が行われる。
周りは予想よりも、高齢者が多かった。ざっと見渡しても、僕のように中等科に通ってそうな年頃の人は、誰もいない。

僕は始まる前、こっそりと後ろを見た。
患者たちの息子さんや娘さんらしき人々が多い中、付き添い者の中でひときわ背が高くすらっとしたお父さんは、僕と目が合って微笑み、頷いた。

なんだか授業参観みたいで、ちょっぴり恥ずかしい。
しかも父だけ、僕みたいな子供連れで。どんな気持ちなんだろう……

今さらなのに暗くなりそうな気持ちを振り払い、僕は一生懸命ストレッチに向かうことにした。

「んー、よいしょっと」

座ったままボールを使って手に抱えたり、足を乗せてみたり。
腕を使い上半身だけをゆっくりひねってみたり、肩甲骨の動きを意識した伸びを行ってみたり。

やってみると汗がじわりと流れるほど、結構な運動だ。
でも、楽しい。動かしているという実感があるし、知らなかった方法をたくさん知れて勉強になる。

「はい、皆さん。とってもよく出来ています。これらは全てお家でも出来るものなので、ぜひ少しずつ実践してみてくださいね」

トレーニング服姿でマイクを握り、笑顔ではきはきと終わりの挨拶をするマーガレットさん。
二人きりでリハビリをしている時も、彼女の励ましにいつも勇気をもらえるけれど、この日は一段と輝いて見えた。

全部で一時間半ほどのイベントが終わり、身支度をしようと思った頃。
近くの男の人に話しかけられた。見てみると僕の祖父と同じぐらいの年の人だ。

「お兄ちゃん、頑張ってるねえ。教室楽しかったかい?」
「あっ、はい。すごい勉強になりました。いつもと違う雰囲気だし、音楽とかもあるし」
「そうだよね。わしも月二回、ここ来るの楽しみにしてるんだよ。ほんとにね、体楽になるよ。ほら、こんな年でも微妙に動くようになったし」
「そうなんですか? うわあ、凄いなぁ」

その人も杖を持っていて片側の麻痺があるみたいだけど、手を動かしてみせる姿に感動を覚えた。

「だから諦めちゃいけないよ。一緒に頑張ろうね」
「はいっ」

知らない人なのに、暖かい言葉をかけてもらえて嬉しくなる。すると真後ろにいた人や、前に座っていた年配の人も会話に入ってきた。

僕が新しく入ってきたメンバーだからか、皆から「手のこんなリハビリが効いたよ」とか「イベントには他のこんなコーナーもあって、気分転換になるよ」など色々なことも教えてもらい、同じ症状を抱える人達の優しさが心に沁みた。

リハビリ施設もだけど、ここは人と人との関わりも含めて、さらに居心地が良さそうな感じがする。

話が出来た人々と別れを告げて、僕はきょろきょろと父を探した。
様子を見ていたのか、穏やかな顔で手をあげてこちらに向かってこようとした父と、同じぐらいに講演を終えたマーガレットさんもやって来た。

僕の背中に手を当てて、父が彼女に礼をする。

「お疲れ様です。すごく良いイベントでした。参加させて頂いてありがとうございます」
「いえいえそんな、こちらこそ来てもらえて嬉しいです。ロシェくんが居るの見えたから、いつもの感じで取り組めました。ありがとね、ロシェくん」
「えっ、本当に? 僕もマーガレットさんの実演、とても楽しかったよ。ありがとうございます」

お礼を伝えると彼女は照れたようにはにかむ。

「じゃあロシェ、また来てみるか。俺もお前が一生懸命頑張ってるの後ろで見てて、嬉しかったよ。それにお前、皆に話しかけられて、ちょっと人気者になってたな」
「うわ、見てたのお父さん。それはちょっと恥ずかしいけど、僕また参加したい!」
「よし、じゃあそうしよう」

いつもの調子で頭を撫でられるのを、マーガレットさんに微笑ましく見られていることに気づいた。
そして彼女は父にもにこりと笑いかける。父もそれに対し、外では珍しく笑みを浮かべて、会話を続けている。

僕は人としてマーガレットさんが好きだ。
明るくて、優しくて、時々冗談を言ったりし合える、大人の中でも近い存在だ。

二人きりのときは好きだなっていうのを強く感じるのに、なぜか父もいるときは、胸がざわつき始める。

僕はいつもこうして車イスで、大人の男女を見上げている。
体が大きくて、眼鏡の格好いい男の人に見える父と、細身でちょうど父の肩ぐらいに頭がある、若い女性のマーガレットさん。

好きな二人が楽しそうに喋っているのに、少しだけ感じる疎外感と、寂しさ。
僕は父が、自分のお母さん以外の女の人と、あまり親しそうに話しているのを見たことがないからかもしれない。

だからきっと、複雑な思いがするんだ。



◇◇◇


体操教室は月二回開催されるらしく、僕は自分のやる気に従って、これからも参加することにした。
それはいいんだけど、家の中で父と二人暮らしていて、また少し気になることが起きた。

「ロシェ。今日は一緒に風呂入らないか」
「えっ。どうして?」

夕食後に突然そう言われて驚いた。でも父は至極真面目な顔つきで、腕組みをしている。

「右側、きちんと洗えないだろ」
「……で、出来るよ。大丈夫だってば」
「右腕は? 俺がしてやるから」

なぜか父は言いきり、僕は半ば有無を言わさず一緒にお風呂に入ることになってしまった。

浴室の台座に座り、シャワーを浴びながら前みたいに体を洗っているお父さんを見る。
同じ時間に浴びるのは、数ヵ月ぶりだろうか。なんだかとても、恥ずかしい。以前はいつも一緒に入っていたのに。 

麻痺じゃない右側は本来の利き手じゃないけれど、ごしごしと体全体を一生懸命洗っていく。
でも父の言う通り、右腕そのものはどうしても洗いにくい。いつもはタオルを挟んだりして無理矢理やっていたけど、今日は父に泡立てられて、丁寧に洗ってもらった。

「ありがと、お父さん」
「いいよ。他に気になるとこあるか?」
「ええと、やっぱり背中かな」
「分かった、任せろ」

半分後ろを向くと、優しい力で磨いてもらえる。
湯気が立つ中で、また少しずつ心臓が高鳴っていく。ただ、体を洗ってもらっているだけなのに。

余計なことを考えそうになり、邪念を振り払おうとした。
すると父が、肩をそっと撫でた。僕はびっくりして思わず竦めてしまう。

「あっ、すまん。……でもお前、やっぱり少し背伸びたよな」
「……え。本当に?」

意外な言葉に振り向く。すると父は確かに頷いた。

「ああ。立った時に分かったよ。それに体も、ちょっと大人になってきてるか…?」

なぜか疑問符がついたような言い方をされ、僕は最初嬉しかったけど、段々恥ずかしくなった。
確かに体つきも少し筋力ついたかなとか、成長したかなとは思っていたけど。

「お父さん、もういいから、シャワーちょうだい」
「ん? どうした。まだ俺終わってないんだけどな」
「どこ?」
「背中」
「わがままだなぁ。じゃあ僕が洗ってあげるよ」

恥ずかしさを見破られまいと言ってのけると、父は無理矢理僕の台座の隣に座ってきた。
たまらず「もう、狭いよ!」と文句を言っても「早くしろよ」と楽しそうに笑っている。

男っぽい、大人の大きい背中を右手でゴシゴシ泡立てる中、僕は会話を探した。
そしてある事柄を思いついた。

「そうだ。ねえお父さん。今度の土曜日、僕ニルスくんとお出掛けしたいんだけど、いいかな?」
「えっ?」

振り向いて聞き返された。驚くのも無理はないかもしれない。

「お出掛けって、どこに行くんだ。街か?」
「うん。家でも車イス慣れてきたし、ちょっと外も出てみようかなと思って」

身を乗り出して話すと、父は一瞬言葉を詰まらせた。

「それは、すごく良いことだが。……二人で行くのか? 俺も一緒に行ったらダメか…?」

控えめに言う父の心配がひしひしと伝わる。

僕はこれまで、必要な時以外あまり外出をしなかった。車イスに乗り父と買い物はしたこともあるけど、本当に短い時間だけだし、車から降りて用事を済ませ、また乗るといったことだけだった。

でも家のリフォームをしてもらい出来ることが増えて、体操教室とか新しいことにも参加して、僕はようやく最近、色々なことに挑戦してみようかという気持ちになっていた。

今までは自信がなかったけど、少しずつでも頑張りたい。
その気持ちを父に話すと、徐々に分かってくれたみたいだった。

「そうか。けどやっぱり、少し心配だな。最初からあんまり、長い時間じゃないよな」
「うん。街の知っているところだけだし、ちょっと出歩くだけだよ。ニルスくんと一緒に、僕の車イスでも寄れそうな場所とか、調べてみたんだ。だから大丈夫だと思う。あ、お父さんには車で送り迎えお願いしたいんだけど、出来たら……」

気がつくと父の瞳が揺れ動いていた。
まだ不安なのか、僕が勝手に決めてしまって複雑なのか、はっきりとは分からない。

不意にほっぺたを撫でられた。そして顔が近くにくる。
じっと見つめられて鼓動が速まってしまった。

「……当たり前だろ。送ってってやるから。本当に、大丈夫か? ニルスと二人で」

眉を少しだけ下げたように、様子をうかがってくる。
僕はすぐに言葉が出てこず、こくこくと頭を振った。





そして、土曜日の午後がやって来た。
父と一緒に家を出た僕は、ニルスくんの家に向かい、ピックアップする。
そして商店や広場などがある街の中心部まで、車で送ってもらった。

ショッピング街近くの石畳に降り立つと、すでに緊張してきた。
けれど今までは消極的だった僕も、普通の人からしたらほんの些細なことだけど、新しい試みをしてるんだと思って、気合いをいれる。

Tシャツにパーカーを羽織った赤髪のニルスくんを見上げると、いつもと同じく飄々としていた。
正直この人のほうがちょっと心配なんだけど、大丈夫だよね。

「ニルス。ロシェのことよろしくな。あと君も気を付けろよ。あ、ホワイトボード持ったか?」

身ぶり手振りでゆっくり話すお父さん。なんだかいつもよりテンパっている雰囲気で面白い。
ニルスくんはにかっと歯を見せた。

『だいじょーぶだいじょーぶ。心配無用、デイルさん。今日は俺がロシェの足となり、ロシェが俺の耳となるぜ!』

文字をすらすら書いたボードを見せ、元気よくOKサインを掲げる。
父は「あ、ああ。頼んだぞ」となんとか納得したみたいだった。

「そうそう。心配しないでね、お父さん。じゃあ三時間後にこの場所ね」
「分かった。なんかあったらすぐメールか電話しろよ。気を付けてな」

後ろ髪を引かれる様子で、ようやく父が車に乗り込み、僕たちは残された。
学校の中では先生達もいて安全や自由を感じられるけれど、今日はたくさんの人々がいる街を行く。

前もって行動できるルートやお店は調べたし、準備は万端だ。
ニルスくんも行動的でよく一人でも買い物してるみたいだし、僕も友達とだけで歩くのは大きな経験になる。

『ロシェ、まず本屋。そんで雑貨屋行こ?』
「うん!」
 
大きなショッピングモールの一階にある、広すぎるほどの書店。ここに入っているお店はバリアフリーが多く、通路も広めに取られているため、狭くない場所には車イスでも近づける。

行き交う人の邪魔にならないように、気を付けて進み、僕はニルスくんと大きな苦労もなく本を探したり出来た。

『ロシェ。父ちゃんと一緒じゃ買えないような本買えよ』
「え? なにそれ?」
『分かんないの? ガキだなぁ。じゃあ今度俺の家に来たとき、教えてあげるから』

ボードや手話を使い、大人びた顔で話す友達。若干首をかしげながら僕も片手の手話を使ったりして、買い物を楽しんだ。

気になった文庫本とコミックを買えた僕は、同じく雑誌を買っていたニルスくんとともに、違う店にも足を運ぶ。

広めの雑貨屋さんではエキゾチックな珍しい布ものや照明類のインテリアなどを見て、いつもと違う雰囲気に刺激された。
父はああ見えて、仕事柄も関係あるのか内装とかが好きだから、一緒に来ても楽しいかもしれない。

自分は外にいるのに離れてることが珍しいからか、なぜかもうお父さんのことを考えてしまっている自分が少し笑えた。

『ロシェ、なんか小腹が空かね? あそこの店で買い食いしよーぜ!』
「え? あとでカフェ行くんじゃないの?」
『それはそれ。俺あれが食べたい、お前と。美味しいんだよマジで』

親友に勧められたら断る理由もない。
僕たちは一旦モールを出て近くの露店に行くことにした。

その時だった。
後ろから二人組の体格の良い若者が僕たちを追い抜いていった。
香水みたいな匂いをきかせて、注意を引かれる。僕が革服の背中を見ていると、金髪のその人がふと振り向いた。

目が合った男の人は、ニルスくんよりも少し年上ぐらいで、ちょっと不良な感じに見えた。
またすぐに前を向いて、歩いていく。
なぜか緊張感を持ちながら車イスを操作していると、その人は出口の大きなガラス扉の前で立ち止まった。

そしてドアを引いて振り返り、開けたまま僕のことを待っている、ように見えた。
友人らしき人も隣に立ち止まっている。

気持ちをなるべく急がせて向かうと、本当に僕のために扉を開けてくれていたことに気がついた。

「あ、ありがとうございます」

そう言って頭を下げると、男の人はにこりと笑って「喜んで」と口にした。
僕は、そんなちょっとした短い出来事だけれど、気持ちがわあっと高まり、感動で胸が詰まった。

勝手に自分の偏見で怖そうと思ってしまったのに、なんて優しい人だったのだろう。ごめんなさいとありがとうを心の中でも密かに繰り返した。

店を出て進んでいくとニルスくんも微笑み、『いい人だったな』と述べた。
頷く僕の心はまだ暖かいまま、「うん」と話す。

同年代だけで街を歩くのが、大人の父がいなくて不安だったけど、思った以上に知らない人でも優しい人がいることを知った。




僕たちはその後、露店で焼きソーセージを買って食べた。ニルスくんが言うように、本当に熱々で美味しくて、試してみて良かったなと感じた。

少しぶらぶらした後、最後には休憩がてら、お目当てのカフェに向かう。父と二人で来たこともある洋菓子屋さんだ。

以前から、二人で飲食店に入るときは父がまず「入れますか」と聞いてくれて許可をもらえたら入店していた。

誰かの誕生日の時とか、人がもう少しいるときのレストランなどは、もちろん予約の際に事情を話したりする。

今回も少し心配になった僕は、思いきって予め電話で聞いてみた。すると快くOKをもらえて、店に入るときも広めの席に案内してもらえた。

僕たちは正直言って、障害がある二人組だ。僕なんかまだ子供だし、本当は二人きりで行動するのはまだ無謀なのかもしれない。
でも将来の為にも少しずつ、ゆっくりのペースで出来そうなことを試したい。だからお店の人には親切にしてもらって本当に感謝していた。

ニルスくんは僕より全然行動的で、色んなお店に入ったり出掛けたりしているみたいだけど、耳が聞こえないのですぐに読み書きできるホワイトボードが必須だ。

今回も注文をすらすら書いて、手振りも交えて店員さんに頼んでいた。

『ロシェ。そのフルーツパフェうまそう』
「うん。すっごく美味しいよ。食べたい?」
『おう。ちょうだい』

あーんとされたので引いた僕は、黙ってお皿を差し出した。するとニルスくんは残念そうにちょびちょび食べていた。

彼が食べてるみたいな生クリームつきのアップルケーキも美味しそうだったけれど、フォークだけだと意外と難しいのだ。僕はナイフも使えないし、レストランとかだと余計にすんなり食べられるものが限られてくる。

小さいときは父にお肉や野菜を切ってもらったりしていたけど、今はそんなの恥ずかしくて出来なかった。
麻痺になってから人前で何か食べるということも苦手だったから、今はかなり進歩したほうだと思う。

『楽しかった? ロシェ』
「うん! ニルスくんは?」
『俺も。てゆうか俺たち全然二人でどこでも行けるな。今度はテーマパーク行く?』
「ええ。さすがに無理だよそんなの」
『じゃあ公園は?』
「それならいいよ」
『よっしゃ。じゃあ俺の家も泊まり来て

何言ってるんだろうこの人。冗談のわりに顔が本気に見えるし。 
ボードにまたハートマークがついていて、誰かに見られたらと汗が出た。

「無理だってば。トイレ行けないじゃん。ニルスくんがうちに来ればいいんじゃない?」
『トイレは俺が運んであげる。え、てかいいの? やったー! ロシェのうち今度泊まりに行くからな!』

急に元気が出てきた高校生の親友を、僕は「うちなら何回も来てるでしょっ」となだめた。
お父さんみたいな、変なこと言ってるし。
最近のニルスくん、僕にべたべたしてきてちょっとおかしいなって思う。

ほら、こんな風ににこにこして頭を触ってくる。僕のこと、親友っていうより弟みたいに扱ってるんじゃないのかなぁ。

心外に思いながら、僕はふと携帯の時計を見た。父が来る約束の時間まであと二十分ぐらいだから、僕にとっては結構ギリギリだ。

『あっ、もう時間? やっぱ短いな。もうロシェの父ちゃん向かってるかも』
「うん、そうだよね。じゃあそろそろお会計ーー」

そう言って財布を探しながら、窓の外を見た。
でも僕の視線はあるところに釘付けになる。

この店は大通りに面していて、一番向こうの反対車線に僕の家の車が見えた。
さっと通りすぎていくけれど、運転席には間違いなく眼鏡をかけた父が乗っていた。

お父さんだ。
そう思った僕の視界に、もう一人女性が見えた。
助手席に座っていたのは、僕のリハビリの療法士さんであるマーガレットさんだ。

一瞬だけど父に向かって笑顔で話していたのがはっきり分かった。

『ロシェ? どうしたの?』
「な、なんでもない」

友達に話しかけられても、こんがらがった頭の中がほどけなかった。
どうして、父とマーガレットさん、今一緒にいたんだろう?

僕は呆然としたまま、しばらく動けないでいた。



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